名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

弁当とお茶を買う青年。

2023-11-27 | 思う事


 スーパーで買い物。

 レジに並ぶ。

 次は自分の番だ。

後ろには5人ほど並んでいる。

 私の後に並んでいるのは
若いお兄ちゃん。

 お兄ちゃんは買い物かごを使わずに
弁当と、ペットボトルのお茶のみを
両手に持って並んでいた。

 私は買い物かご一杯の量。



若いお兄ちゃんはアッという間に
清算が出来るが、
私の買い物の清算は時間がかかる。

お兄ちゃんに
 先にどうぞ  ・・
と申し上げて、
順番を替わって差し上げた。



この場合・・・・
その後ろに並んでいる多くの人に
迷惑が掛かるか???

 迷惑は掛からない 

これは、私とお兄ちゃんとの
2人だけの問題である。

即ち、
このお兄ちゃんが偶然、
私の後ろにいたのは

私と縁があったから

である。

私が先か・・・
お兄ちゃんが先か・・
その違いがあるだけで、

その後ろに並んでいる人たちには
何の影響もない。



自分の待ち時間が増えたとしても、
合理的に考えて、
10秒でレジの清算を済ませることが出来る
人をを先に行かせる・・

それによって誰にも迷惑を掛けることはない。

これを 合理性  という。

慈善とか・・
思いやりとか・・・
徳積みとか・・

そんな重たい屁理屈を言うと
何かがおかしくなる。

このことは、
ごくごく、当たり前なお話であるが、



悲しいことに・・
世の中には、
この「合理性」が理解できない人が
存在することも
確かである。。

簡単なお話である・・



合理的か??

非合理的か??

ただそれだけである。



世の中には何らかの問題で
困っている人は大勢いる。

苦しんでいる人がいる。

自分に何ができるのだろうか??



自分に出来ることは、
このレジでの対応と、
事は同じであると思う。

これが全ての出発点であると思う。





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「勇退」と「引退」の違いとは???

2023-10-28 | 思う事


「勇退」と「引退」の違いとは???



「勇退」と「引退」結果に於いて
は同じ意味。

この二つの違いとは、
「周囲の評価」で別れる。

どちらとも「地位から退く」といった意味を持つが、

「勇退」の場合、自ら用いる言葉ではなく、
周囲から言われる言葉。

 「引退」とは・・自ら発することができる言葉。

「引退」に比べ、「勇退」の方が、
高い功績を持つ人に用いられる。

  

最近、極めて不愉快な俳優崩れの司会者sが
長年続いた劣悪番組の司会を
降ろされることになった。

テレビは滅多に見ない私ですが、
日曜日の朝、照明の代わり程度の積りで、
テレビをつけると、
この男の不快な声が耳に入って来る。

一瞬ににして気分が悪くなる。

もちろん、すぐにチャンスを変えるか、
テレビを消します。



不思議なことに・・
メディアは、このオジサンの引退を

  勇退  

と報じている。

このオジサンに何の功績があるのか???

もちろん、思想は自由であるあから、
この男に大きな功績がある・・・
と思う人もいるかも知れない。

個人的な想いや、
この男に対する評価はあくまでも自由である。

ただし、
公共の電波を使うメディアが、
偏った価値観を基準にして、
この男を「勇退」と持ち上げるのは
腹立たしい限りである。

このオジサンの功績とは、
一部の人間の主観である。



人格と、
思想の優劣には、
相関関係がない・・

立派な思想の持ち主でも
基本的なモラルと誠実さに欠ける人も存在する。

(立派な思想とは・・あくまでも、
私の主観的な価値観を尺度にしています。)



このオジサンは、
反日・反国家思想、偏向した思想の持ち主で
偏向報道に徹して生きてきた人でした。

しかしながら・・

このオジサンを
イデオロギーは別問題として、
人間的な側面から見れば、

「心優しく、温厚で、
基本的なモラルと誠実さを持つ人間」
であると感じます。



その反面・・・

世の中には、

「心優しく、立派な思想の持ち主だが、
基本的なモラルと誠実さに欠ける人間」
も存在する。

どちらもどちらではあるが・・

反日・偏向報道オジサンを
「勇退」と持ち上げるのは
腹立たしい限りであるが・・・

とはいえ・・・

このオジサンが
テレビから消えてくれると思うと
ただ、それだけで嬉しい。



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First Love / 宇多田ヒカル covered by May J.

2023-10-19 | 思う事
First Love / 宇多田ヒカル covered by May J.


May J.さんの歌うFirst Loveを聞いて
思った・・

上手い!!! 

上手い!!!

 これぞ達人・・ 

  

たぶん・・
彼女は自分の持つ表現力
力量を力任せに表に出さず
常に抑制しながら歌っている。

それは、圧倒的な歌唱力の為せる技

100%出さずに
80%のところで抑えている。

この自制力と感性が

 余裕を生んでいる 

100%出し切ると自己陶酔の世界に入る危険性がある。

自己陶酔は危険を伴う。





過去の自分を振り返る・・

全力でやり過ぎたことが多い・・



自分のもつ特殊なパワーを
決死の思いで出し尽くす場面が多くあった。

死んでしまうかも・・・
と思える時もあった。

情熱という名の「依存」であったかも
知れない。

これは、ある意味・・
自己破壊を伴う

 自己陶酔 



自己陶酔は余裕を失う。

自己陶酔は
無駄なエネルギーの浪費となる。。



余裕こそが「達人」の条件・・

勝たねばならぬ・・・・・








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一流の詐欺師

2023-10-11 | 思う事


「笑顔を絶やさず、親切で、心優しい愛情深い人間」

素晴らしい人だと思う・・・



されど・・・悲しいことに・・

物事には両面がある。

皮肉ななことに、一流の詐欺師は
同じ条件を満たしている。



一流の詐欺師は、
邪悪な目的を達成するために、
全身全霊で
「笑顔を絶やさず、親切で、
心優しい愛情深い人間」
に成りきる。

一流の詐欺師は、
良い人を演じているのではない、
「成りきっている」

善良なひとを巧みな技で騙す
ツワモノを見たことがある。



それは中途半端な演技ではなく
命がけで「成りきる」のである。

生半可な演技ではない、
決死の覚悟をもって、
「善人」に成りきっている。

これが出来なければ
人を騙して多額の金を巻き上げることは
できない。

これぞ、 究極の邪悪 



それ故に・・・
被害者は騙されたことがわかっても、

詐欺師lを心の底から憎むことができない。
まさに洗脳状態に陥っている。

 信じていたのに・・
詐欺師だったのか・・
悲しい・・
悔しい・・
でも・・
あの人なら・・憎めない 

と・・・思ってしまう。

「根こそぎ奪っても、被害者に恨まれない」

これが一流の詐欺師

人の心に入り込み、人の心を蝕み、
金品を詐取する・・

愚劣な行為である。



即ち、

「行為や思想、素行、人柄のみを以て、
その人の本質を知ることはできない」

「限りなく優しく、限りなく邪悪な人間」
もこの世には多く存在する。



詐欺師という存在は
例外的な特殊な存在である。
世の中、善良な人の方が圧倒的に多い。

悲しいことは、
ごく普通の善良なひとが、
新興宗教やスピリチュアル屋さんの
世界に入り込んでしまうこともある。

怪しい宗教や拝み屋さんの餌食になった場合
最終的には大切な魂まで
蝕まれてしまう。

その過程に於いて、
「善人に成りきることが詐欺師の必須条件」
と同じ構造を見受けることができる。

このメカニズムは悪意の有無とは無関係である。

これを私は「宗教病」と呼んでいる。



「人に意地悪をしなさい」

「他人を傷つけてもよい、
自分の利益のみを追求しなさい」

「人の気持ちなど考えなくてよい」

このよな話を聞かされたら、
明らかにオカシイ話である。

明らかに理に適った話ではない・・
それ故、
「落とし穴にはまる危険性は少ない」

良識のあるひとなら、
このような話は
笑って聞き流すだけである。



自称・善人や、
新興宗教の
思いあがった指導者は自信満々に宣う・・

 天に宝を積みなさい・・
善行を積みなさい・・
愛を与えなさい・・
必ず
引き寄せの法則で、
富と幸運が引き寄せられます・・



「言っている言葉」は、間違った言葉ではない。
その「想い」に於いて間違いはない。



されど・・
得意満面になって、
居丈高に宝刀を振り回す方々に
お尋ねしたい・・

 善行とは「積み立て保険」なのか??

保険とは、「取引」である。
取引で善行を行う???

「宝」の定義が問題であると思う。

「宝」とは・・
自分の行いに対する「対価」なの???

「善行を行う」
「徳を積む」とは??

対価を信じて積み立て
保険に加入することなのか?

なんだかオカシイ・・

言葉に出さないだけで、
地道に生きる、
謙虚なごく普通のひとなら誰でも
分かっている。

損得の問題ではない・・

これが感覚として分からない人も存在する。

この少数派の方々が、
特殊な世界に吸い込まれる。

そして食い物にされる。



 天から声がするような気がする 

徳を積んでも
何も返ってこない・・・

それでも、苦しむ人がいれば助ける。

目の前で、死にそうな人がいれば助ける。

嫌な奴になると疲れる・・
それでも・・
必要とあらば、
嫌な奴になる勇気を持つ・・

 自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 

徳は「積む」ものではなく。

 捨て去るモノ 

捨てなければ得られない。

私の申し上げたいことは・・・

「因果の法則」の否定ではありません。



否定ではなく!! 肯定しているのです!!!

「因果の法則」「善因善果」を
肯定しているです。

「駆け引きとしての因果」を否定することで、

 真実の因果の法則  

を肯定しているのです。



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全てを説明するとはできない・・

2023-10-10 | 思う事


人生のなかで幸運に恵まれたり
度重なる不運に襲われたり。

偶然にも好都合なことが連続したり。
どうあがいても抜けられない
不条理な目に遭ったり、


 運命 

 宿命 

不可解極まりない。

どうして???
どうして、そうなるの???

この問いに対して、

「全て答えることが出来る」

得意満面なって宣う人もいる。

 宇宙の真理が分かってしまった・・・

などと不可解なことを言う、
自称・悟りを開いたひと
を何人か知っている。

新興宗教に没頭するひとや
スピリチャル屋さん
に多い。



私が思うに・・

このような方々の「信念」を構築する
要因とは・・

傲慢
単純
自己陶酔
依存
誇大妄想
記憶の誇張



正直に語るなら・・・

運命・・宿命・・

全てを説明するとはできない・・

答えは出せない・・・・

答えは神のみぞ知る・・・



答えの無い世界で・・

それを承知の上で、
依存せず、傲慢にならず、

与え得られた目の前の仕事を淡々とこなす。

もっともらしい屁理屈を垂れず・・
誇大広告せず・・
話を盛らず・・
人を頼りにせず・・
呪文を唱えて思考停止せず・・
謙虚に正しく生きる人・・・

偉くなくても正しく生きるひと・・

私の眼にはこういう御方こそ・・

 本当の信仰者 
に観える。



天に宝を積む??

善行とは「積み立て保険」という
意味にも取れる。
保険とは、「取引」である。
取引で善行を行う???

「宝」の定義が問題であると思う。

「宝」とは「対価」なの???

「善行を行う」「徳を積む」とは??
対価を信じて積み立て保険に加入することなのか?

なんだかオカシイ・・



 天から声がするような気がする 

徳を積んでも
何も返ってこない・・・

それでも、苦しむ人がいれば助ける。

目の前で、死にそうな人がいれば助ける。

嫌な奴になると疲れる・・
それでも・・
必要とあらば、
嫌な奴になる勇気を持つ・・

 自分の良心の声の身を恐れ、それに従う 

徳は「積む」ものではなく。

 捨て去るモノ 










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暇な時間を作る能力

2023-09-30 | 思う事


忙し事が良い事であるとは限らない。

世の中には、忙しさに美徳を感じてい人もいる。

幾つも予定をいれたり、作ったり・・

休む暇やボーッと過ごす
時間を造らないようにしている人もいる。

人には性分というものがあり、
常に動き、常に予定に追われるていないと
不安で落ち着けないひともいると思う。

しかしながら、
「いつも忙しい状態にしている人」
の中には私の眼から見て、
「それを趣味にしている」
「その状態に依存している・・」
と思える人が時々いる。

私はこういう症状を
「繁忙依存症」と勝手に呼んでいる。

依存は何らかの弊害を生む。

趣味は個人の自己満足である。



「繁忙依存症」のひとは、
忙しいことに意義を感じ、
優越感を感じている。

「繁忙依存」の人を多く観てきましたが、
このようなタイプの人を
客観的に見ると、

 傍から見ると空回り状態・
時間とエネルギーを浪費しているfだけ。

 忙しさに見合った収入や実績・実益がない。

 余分な仕事をさも重要そうに行う。

 余計で、必要のない思考を自分に課すことにより、
常に自分を「忙しい」状態に誘導する。

 暇な時間や休む時間を作ろうという意識がない。

 仕事を分担して自分の負荷を軽減する能力がない。



私が経験的に感じるとことは、

成功者で実績のある人を観察すると、

「暇な時間を持つ人」ほど
肝心なところで適正な判断ができる。

そして、
安定的な成功者が多い。

 適切な投資判断・・

 適切な未来予想・・

 最善な状況判断・・

 新しい発想・・・・

最善な思考・・

とは

 暇なときに思い浮かぶ 

  

インスピレーションは、
余裕のあるときの降り注ぐ・・・

追い回されているとき思い浮かぶこととは、
極論になりがちで、
周りの空気を読まない自己満足的な発想となりやすい。



私の場合、ある事情があり、
約3か月前から毎日
自由で、健康に、裕福に、
気ままで、暇な時間を過ごすことができた。




人生何が起きるか分からない・・・

まさにピンチがチャンス。

あるピンチがきっかけになり、
更なる大きなチャンスを獲得した。



この3か月間は、
家庭のこと以外、「やらねばならない」仕事は
半分以下になっていた。

その代わり・・

働かず、カロリーを消費しない
状態であるにも関わらず、
今まで通り、
好物の鶏の唐揚げを食べ続けた。

その結果・・
3か月で、3キロ太ってっしまった・・



暇であるがゆえに、
良いアイデアが湧いてきた。

暇であるがゆえに、
見栄やプライドなど更に気にしなくなった。

暇で有るがゆえに、「不要な物」や「不要な焦り」
を捨てることができた。

焦らず、慌てず、に物事を冷静に見つめること
ができるようななった。

適切な投資判断ができた。

不思議なことに収入も
右肩上がりに増え始めた。

資産も急激に増え始めた。

今まで培ってきた苦労が次々と芽を出し始めたのだ。

こういう時こそ・・・
困っている人を深い意味で
助けることができると思う。



心の余裕を「偽善事業」に役立てたい。

私に慈善の心はありませんが、
偽善の心は人一倍あります。

ウサギ講で言う、「偽善」とは
「善悪の区別」という
虚像を排除したうえでの

「人様に迷惑を掛けない慎ましさ」
「害悪を垂れ流さない善行」
「社会に有益な自己満足」
「嫌われ者になる勇気」



「やらなければならないこと」とは、
その必要性や、
意義の有無を別として、
能力や思考の妨げとなる。



若いうちは「やらなければならないこと」
に追い回される。

これは、ある意味仕方がないことでもある。

私もそうだった。



50歳を過ぎたら、
「やらなけらばならないこと」を極限まで減らす・・

歳を増すごとに、
「やらなければならないこと」を
減ら減らすことが出来る環境を構築する。

この「能力」こそが、
成功のために必要な課題であると痛感した。



「やらなければならないこと」を・・
増やすことが、有意義なこと
と思い込んでいる人に
成功者はいないように思われる。

たぶん・・
貧乏性とは・・
言葉を換えれば・・

「やらなけらばならない依存症」

 衣食足りて、暇な状態 

この状態こそが
本来の持っている
自由で柔軟な思考を
最大限に引き出すことができる状況を作り出す。

実業家、活動家などは、
大物で有ればある程、
「暇な時間を作る能力」に長けていると思う。

同時に一流で有ればあるほど・・
家庭に関わる時間を多く確保している。



 暇な状態を作ること 

これが更なる成功への入り口である。

勝たねばならぬ・・・



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善悪の判別は単純ではない・・

2023-09-26 | 思う事


「 優しさ 」 には裏側がある。

「 強さ 」 にも裏側がある。



「 イヤな奴 」が悪い奴とは限らない。。

「 イイ人 」が、
結果的に多くの害悪を垂れ流す事も良くある。

良い人の垂れ流す罪悪は、
悪意がないので修正が難しい。



思いあがった良い人・・

実に厄介な存在である。

社会経験がある人間なら、
そんなこと誰でも分かっている。

 善悪の判別は単純ではない・

地道に働き、
厳しい競争社会のなかで正気を保ち
生きてきた人なら分かるお話である。



残念ながら・・・

「 自分こそ神から特別に、選ばれたる人間だ 」

「自分は徳を積んでいる」

と思い込んでしまう人も存在する。

こういう思いあがった状態が一番危険な状態だと思う。



「 弱い 」 ・ 「 強い 」

「 イイ人 」 ・ 「 悪い人 」

「 あの人は徳を積んでいる 」
「 この人は積んでいない 」

そんな二元的な見方でしか、
人を見ることが出来なくなってしまう。



 弱い時ほど強いのだ 

表面をだけみて一喜一憂しては、
それだけで今生が終わってしまう。

優しさの奥に、強さの奥にある、
 本質  
を見極めるのが人生の課題であると思う。

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見つけた人が拾う

2023-09-21 | 思う事


犬の散歩をするようになって
初めて気付いた🐾

公園には結構、危険物が落ちている。



 ガラスの破片  

子供が転んだら、刺さって大怪我をするワン!

🐾犬が踏んでも然りだワン!!!



見つけた人が拾う・・

私は拾い続ける。

行為に意味など求めない。



徳を積む???

私は徳など積まない。

「徳を積む」に執着すると、
大きな落とし穴にはまる。

「無欲の仮面を被った貪欲な善人」
救いようがない・・

徳とは積むではなく
捨て去るもの。

 自分の良心の声のみを恐れそれに従う 

ただそれだけ。

 勝たねばならぬ・・ワン!ワン!
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最近になって思うことは・・

2023-09-20 | 思う事


「いつ死んでも悔いがないように。。。。」

以前は、よくそう思った・・・

いまは、そう思わない。



60歳が近づいた・・・

60歳は老人の分類に入ると思う。

老害を垂れ流さないように
自問自答して生きていかねばならぬ。

あとは・・
恩に報いる為に生きてゆく。



最近になって強く思うことは・・

 いつか必ず死ぬ・・
最低限のマナーとして、
いつ死んでも、人様に迷惑を
かけないように死んでゆきたい 



生きてるだけで丸儲け。

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日ユ同祖論???

2023-09-12 | 思う事


日ユ同祖論・・・(にちゆどうそろん)

新興宗教系の人が好きな日本の歴史観です。



日ユ同祖論・・とは??

日本人の祖先は2700年前に
アッシリア人に追放されたイスラエルの
士族である・・・

とする説です。



古代日本に於いては、
大陸から多くの文化や技術が
入って来たことは確かです。

だからと言って、
日本人との祖先はユダヤ人である・・
などと云う学説??は
滑稽なお話としか思えません。



なぜなら、
その根拠となる証拠は何一つ存在しないからです。



日ユ同祖論を信じる人の根拠の一つとしては・・

 日本語とヘブライ語に共通点がある。

「あなた」はヘブライ語で「アタ」

「辛い」はヘブライ語で「ツァラ」

「住む」はヘブライ語で「スム」

「困る」はヘブライ語で「コマル」



すなわち・・
日ユ同祖論の有力な根拠とされているのは

  似ている言葉が多いから 



言葉が似ていることが根拠???

ナンセンスとしか思いえない

ならば、・・・「日英同祖論」も成り立つ。

 日本人の祖先はイングランド人だ!!!

と云う詭弁も成り立つことになる。



道路 は英語で「ロード」

設定 は英語で「セッティング」

「イライラさせる」は英語で 「イラテイト」

「坊や」は英語で 「boy(ボーイ)」

「負う」は英語で 「owe(オウ)」

「買」は英語で  「 buy(バイ)」

「なし」は英語で 「nothing(ナッシング)」

「妨害」は英語で 「jammer(ジャマー)」

「吠える」は英語で 「howl(ハウル)」

「冗談」は英語で 「joke(ジョーク)」



「日中同祖論」も成り立つ。

 日本人は漢字を使っている。
漢字と日本語の共通点は多い、
それ故、日本人と中国人は同じ祖先だ!!

 こんな論法が成立するのだろうか???



伊勢神宮の御神体、八咫鏡には
ヘブライ語が刻印されていると唱える人がいる。

ならば・・どうして???

古墳に埋葬されている
鏡や、銅剣にヘブライ語が記されていないの???

未だかって・・
ヘブライ語の刻印された遺物が発見された事例は一つもない。



でも・・・たぶん・・・
日ユ同祖論者は反論するだろう・・

 発見された遺物は
学会の陰謀で、
証拠を隠滅されている 



何を信じるかは自由ですが・・







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無言で実績を示す。

2023-09-08 | 思う事


最近話題になっている
某・有力タレント事務所‘‘j‘‘ の問題。

新社長となった、元アイドルH君が
メディアを集めた会見で言った。

 人生をもって、命をかけてこの問題に取り組んでいく



命がけ????

私はこの言葉を発する人に
違和感を持つ。

この言葉を発する人に遭遇すると
反射的に警戒する。

H君の場合、
自分の立場を揺るがすような
都合が悪い事に関しては
回答が二転三転している。

命を懸けているなら、
都合の悪い事は蓋をする必要などない。
命を懸けている態度とは思えない。

このような態度は
言葉の重みを失うだけであると思う。



私の場合、
真剣に取り組んいることがあっても・・

仮に、そのような心境であっても、
「命を懸ける」
この言葉は絶対に吐かない。



この言葉を頻繁に吐くひとは、
基本的には信用しない。

「話半分」という暗黙のルールを意識して
付き合っていれば問題ないが、
真剣に聞いてしまうと痛い思いをする。

以前、「命がけ・・・」を
連発する人に関わったことがある。

この人は、
立派な思想を持っているお方なので
例外的に大丈夫だと思い、
深く関わってしまった。

その結果として
苦い思いをしたことがある。

本人は「命がけ」と表現しても、、
それはあくまでも自己評価である。

はたから見れば、滑稽なことが多い。

「命を懸ける」は、
自分の心の中の問題として
留めるべであると思う。



「命をかけて」と・・
思うことは、
自然な感情として個人の
自由であると思う。

しかしながら、

地道に働き、
堅実に生きるひとが、

それを言葉にだしたら、
結果的に信用を失うだけであると思っている。



政治家のパフォーマンスとしての演説なら、
それはある種の
「世俗的・大衆文化」
であるかも知れない。

この手の「命を懸ける」発言は、
「ガマの油売り」
の口上としての
決め台詞のような「芸」であり、
その辺のニュアンスは聞いているひとにも
暗黙の認識があると思う。

「話半分」として聞き流しているだけである。

「私は、美味しい唐揚げを食べることに、命を懸けている」

この範囲の「軽さ」がある言葉なら、
許される言葉であと思う。



確かに・・・人それぞれ、大なり小なり、
覚悟を決めて、
懸命にやらなければならない事も存在する。

「命をかけて」

「命がけでやる」

私が、もし仮に本気でそう思うのなら、

それを口に出さない。



特殊な団体
特殊思想集団
趣味のサークル
観念論に支配された輩

など、狭い社会を形成する輪のなかでは
この言葉が通用することもある。

しかしながら、
自由競争社会
民主主義社会
成熟した文明社会
のなかで
堅実に生きる大多数の普通の人は、
このような言葉を恥じらいもなく発しない。

堅気の一般社会では
軽々しく「重たい言葉」を吐かない人ほど、

 実績と信頼がある 

余裕の顔をして、
何も考えず、
気ままに生きているような振りをしている。

普段は涼しい顔をしているが、
人に見えないところで、
人知れず、血の滲むような努力をしている。

そういう人間を何人か知っている。



こういう人には・・人も、物も、金も集まって来る。

このようなお方は、
結果的に裕福な生活をしている。



実関と信頼を重んじるひとは、

「必死な心」を人に見せない。

「命を懸ける」などという
自己陶酔型の誇大広告はしない。

遊んでいるような振りをして、
自画自賛したり大袈裟にアピールしない。

自分を誇大広告する必要もなく、
さりげなく、大きな成果を上げる。

そのことが、結果的には安定的な
深い信用を勝ち取る。



わたしも、
時々調子に乗って
「死に物狂いでやります」
「命がけでやります」
と・・
言いたくなることがありますが、

その「想い」を言葉にせず、
グッと堪えて、
胸の内に納める。

この抑え込まれた「想い」は、
実績を引き寄せるための
エネルギーに変換される。

こういう姿勢を貫いていれば、
人は、私の事を、見ていないようで
「心で感じている」

 これが、言葉では表現できない
信頼関係であると確信しています 



無言で実績を示す者に人は付いてくる。
信用も、金も付いてくる。

勝たねばならぬ・・・


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唐揚げ定食と、ゆで卵

2023-09-02 | 思う事


黒狐ウサギ犬が呟いた・・・

「欲しいもの」・・と
「必要なもの」
は別物だワン!!!

欲しいものに拘ると、
必要なものを見失う
ワン!



ウサギ仙人が
欲しいモノ・・

 松坂慶子のサイン色紙 

ウサギ仙人に必要なモノ。

 唐揚げ定食と、ゆで卵 



人間・・
死んだあとは裸一貫

松坂慶子のサイン色紙は・・
「あの世」にもって行くことはできない。



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体験して学んだ事を超えられない。

2023-08-28 | 思う事


若いころは、多くの本を読んだ。

本を読むことが知的な人間になるための
絶対条件だと思っていた。

沢山の本を読む人は、
立派な人間であると思っていた。



高校生の頃から、
30歳の頃までは、
週に3~5冊は読んだ。

30歳~40歳の頃までは、
週に1~2冊読んだ。



45歳を超えた頃から、
月に一冊位しか読まなくなった。



50歳を超えた頃から、
3か月に1冊位しか読まなくなった。

それまでは、
宗教、思想、哲学、
成功論、精神論、自己啓発、心理学などの
精神世界に関する本を多く読んでいた。



55歳を超えた頃から
宗教や思想、精神世界に関する本は
一切読まなくなっていた。

科学、考古学、歴史に関する本のみ、
年に2冊位読む程度になったていた。



59歳になった今、
哲学や宗教、精神論、
思想に関する本は読む気になられない。

こらからの人生は、
古事記・日本書紀、歎異抄、仏典
のみは繰り返し読むかも知れない。

新しい本を、読んだとしても
科学、考古学、に関する本以外は
読まないと思う。



今思うこと・・・・

 本を読んで学んだことは
体験して学んだ事を超えられない。

 脳で感じたことは、
心で感じた事を超えられない。



多くの本を読んで立派な能書き垂れることより、
もっと大切なことは・・

本を読む暇があればその分、多く働く、
働き過ぎて疲れたら鶏の唐揚げを食べて寝る 

 神・仏・諸神・祖霊に対して
謙虚な姿勢で畏敬の念を持つ。

  目に見えない存在に対して、
敬意と礼儀を重んじる。

 偉くなくても正しく生きる。


 弱い時こそ強い・・
自分の愚かさを知る。

 お金は世の為、自分の為 

 与えた恩はすぐに忘れ、
受けた恩は死んでも忘れないよう心掛ける 








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背水の陣は敷きません。

2023-08-23 | 思う事


背水之陣・・
(はいすいのじん)
とう言葉があります。



「背水の陣」とは・・

危機的な状況になっても、
もう一歩も後にはひけないギリギリの状況に身を置いて、
必死に物事に取り組むこと。

川を背にしたところに陣を敷き、
退却できないようにして必死に戦う・・・



私が知る限りではありますが、

事業や商売に成功した人のなかで、
「背水の陣を敷く」
などという発想を持った人は、
ほとんどいません。

事業や商売に成功した人とは、

好きな事、得意なこと、
趣味、副業、
などに、
真剣に打ち込んでいたら、
自然に、「金と人が寄って来た」

そして、それが自然な成り行きで本業となり、
気が付いたら大きく成長していた・・・

このようなパターンが半数以上です。

これすなわち、
「実力に努力が伴えば、成るべくして成る」



「背水の陣」
を敷いて脱サラ、起業、その結果
失敗したひとは多く見てきました。

なかには、こく稀なケースですが
背水の陣を敷いて起業して、
結果的に大成功した人も存在することも確かです。



必ずしも、背水の陣を敷くことが悪いとは思いません。

状況によっては、
これが必要な場面もあると思います。

しかしながら、

基本的には、
背水の陣とは、
追い詰められた者が
それ以外に方法がなく、
やむを得ず行うことであり、

そうでない者が行うべき
ではないと思っています。



宗教やさんとか、
怪しいスピリチャル屋さんのなかには
「背水の陣を敷いてやりなさい」と・・
宣うひとがいますが、
そんな無責任な言葉を
真に受けてはいけません。

そのような言葉を軽々しく発する人とは、

1・心の支配を目論む人
2・ただ単に世間知らずで単純なひと
3・傲慢なひと
4・自分には神通力があると信じているひと
5・その場の雰囲気で軽率な発言をするひと



私は、追い詰めらて、死ぬか生きるかの極限状態でない限り、
背水の陣など敷きません。

誰かに相談された場合、
「背水の陣を敷くべきだ」
などとは絶対に言いません。

どう転んでも、大怪我をしないように安全策を講じながら、
危険を想定したうえで前に進みます。



背水の陣とは・・
ある意味、丁半博打・・

もし失敗した場合、誰かに迷惑がかかります。

「誰か」とは、

1番に・・家族
2番に・・周囲の人間
3番に・・社会

自分の情熱とか、ロマンとか、夢とか・・
のために
自分以外の人間に迷惑を掛けることとは
罪深いことであると感じます。

そのリスクを侵してまで
「背水の陣を敷く」とは・・・

精神論のみで物事が上手く行く・・
という思い込みのように感じられます。

実績や、努力、計画性、分析力の
無さを直視することを怠り、
「気合で乗り切る」
という行為にも思えます。

気合や根性だけではどうにもならない。



自分独りだけの問題で済ませることができるなら、
何をしても自由であり、
あくまでも自己責任で済まされる問題ですが、

「人様に迷惑を掛けない」
これが大前提であると思います。

 夢やロマン・・

  情熱、使命感・・

それよりもっと大切なのは

 危機管理

 計画性

 状況分析

 信用

このように思う今日この頃でございます。










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善良な人を加害者にしては申し訳ない

2023-08-02 | 思う事


 自分が被害者となることは
視点を変えれば、
自分が加害者でもある・・・



最近、ふと子供の頃の記憶がリアルに蘇った・・

子供の頃、たぶん小学校1年生くらいの時
の体験だった。



母親に連れられて、
近所の八百屋に買い物に行った。

買い物を終えて、母は、
私より5秒位先に店から出た。

店の前は一方通行の道だった。

幼い私は、母親を追いかけて、全速力で店から勢いよく
飛び出した・・・



どうしてそんな勢いで飛び出したかは記憶にないが、
駈けっこのスタートのような勢いだった。

私が飛び出した瞬間、



キィーーーー



自動車のブレーキ音が響いた・・

間一髪のところで車は私の前で停止した。

幼い私は、何が起きたかも理解できず、
その場に呆然と立つ尽くしていた。



停止した車から人が降りてきた。
動揺した様子で運転手は声をかけて来た。

「だっ・だっ・・・大丈夫???」

 うん、大丈夫・・

運転手は安心した様子で言った・・
「あ・・・よかった・・ごめんなさいね・・・」



母親が
血相を変えて私の前に走ってきた・・

一瞬の出来事ではあったが、
母親は、このとき起きたことを
近くから見ていて状況を把握していた。

母親は、運転手に対して、
開口一番言った・・

 すみません!!!!

私が飛び出した速さは
物凄い勢いだった・・



こんな状況で子供が飛び出した来たら、
車のスピードが
例え低速であっても、
ぶつかってしまう可能性は高い。

もし、ブレーキを踏むのが0.1秒遅れていたら、
私はひかれていただろう。



その場合、私は大怪我をしていただろう。
運が悪ければ死んでいたかも知れない。

車が人を引いたら、
理由はどうれ、、
自動車を運転していた人間に責任が課せられる。

いや!!!
もし、仮に、運転者が法律的に無罪となったとしても、
「人を殺してしてしまった」と
いう大きな汚点を与えてしまうことになる。
この十字架を背負って生きてゆかなければならない・・・

幼い私は、
理由はどうあれ、
もう少しのところで善良な人を
犯罪者にしてしまうところだった。

限りなく不可抗力であっても、
法律上は運転者の「前方不注意」となってしまう。

「良心」と云う視点で見れば、

 自分の不注意で善良な人を
犯罪者にしてしまった 

という事にもなる。

この場合、自分に対して思うことは、

 自分が被害者となることは
自分が加害者でもある 


これはあくまでも、
「私自身の問題」に関する
「私自身に対する戒め」であり、
私以外の人間や、
事故に遭われた方や、
事故を起こした方に対して思うことではありません。

事故に遭ったひと、起こしたひと、
それぞれの事情がおありになると思うので
私がとやかく言う立場にはありません。



今となっては、
幼い時のことで、
「何事もなくて良かった・・」
で済まされることかもしれませんが、

今の自分の事を
よく考えてみれば、

この時の体験が私の意識に今でも
大きな影響を与えているように感じます。



道路を歩くとき、
車を運転するとき、

 自分のドジで、
善良な人を加害者にしては申し訳ない 

その「想い」の延長として、
思うことは・・・

「自分がイイ人になりたい」と云う動機のみで、
「物分かりがイイ人」を演じることは、
結果として相手に罪を犯させることなる。 



・・・親鸞聖人の御言葉・・
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。










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