彼の歪な言動、不運や、怪奇現象・・・
それらの「 悪循環 」の源は、
「 自己処罰 」なのです。
自己処罰???
サッパリ意味が解からない・・・・
と、思われるかもしれません。
アメリカの精神身体医学の大家、
カール・オーガスタス・メニンガー博士
(Karl Augustus Menninger、1893年 ~ 1990年)
の著書、「 おのれに背くもの 」。
この本には、興味深いことが書かれています。
メニンガー博士によると・・・
不運や、不測の事態、災難、などは、ほとんどの場合、
外部的要因によるものではなく、
自己の潜在意識が、
他人に自分を虐待するように仕向けている。
その結果として、自分に不運や逆境が引き寄せられる。
その苦しみに耐え忍ぶことによって、
自分を納得させている。
・・・・・・
これ、即ち 「 自己処罰 」
メニンガー博士は、こういうパターンの人間を、
「 不運を嘆く一群 」と呼んでいる。
不運・不幸・災難 ・・・
これらを引き寄せる要因は、ほとんどの場合、
「 自分の深層意識 」が関与している。
天罰など有り得ない。
彼が、日常的に連発する、
「 丁寧すぎる失礼な言葉 」の背景には、
「 無意識 」の領域に横たわる、
自分にとって不利な状況を望む願望が糸を引いている。
その結果、善良で、真面目な生き方をしているにも関わらず。
不遇な立場に追い込まれる。
同時に、邪霊・・奇神・・悪霊・・不成仏霊を引き寄せ。
不可抗力の不運の連続。
彼は、まさに魔物の温床状態になっている。
彼は、多くの人の心に暗さを振りまき、
他人を不愉快にさせている。
同時に、自分自身も、常に不運や、災難の連続である。
なぜ、彼はこのような状況を自らが
引き寄せているのか?
それは、彼のなかには、
彼以外の、意識(先祖の霊)が同時進行していて、
その意識を昇華させる事が出来ていないからだ。
彼の、育った家庭環境には、込み入った事情があった。
更に、さかのぼれば、彼の先祖にも込み入った事情が多くあった。
人間の運命は、遺伝的な要素が大きい。
「 家系は繰り返す 」
彼の家系は、彼と似たようなパターンの人生を
歩んだ者が多く存在しているはずである。
肉体的な遺伝・・霊的な遺伝・・先祖の行動や思考の連鎖 、
これ、即ち、 「 原因 」。
それを再現させる事が 「 結果 」。
この2つの要素をひと言で言うと 「 因果 」
仏教で云う 「 因果報応 」とは、かなり意味が違う。
仏教示唆する「 因果報応 」の考え方は、
釈迦の説いた、偉大な教義であり。
宗教の根幹を成すものである。
ただ、そのなかには、
先祖からの連鎖(霊的要素)の真相が含まれていない。
その辺の、区別をハッきりさせないと、
いくら慈善を成しても、
いくら清く正しく生きても、
霊的要素に振り回される。
この事は、私が今まで多くの人を観察し、洞察した結果、
確信した事であり、机上の理論ではありません。
悪い霊的要素は、
それを他力で消し去る事はできない。
もし、霊能者がこれを怪力て追い払ったりしたとしても、
また、別の霊的要素が入り込んで来るだけである。
そうなったら、また、霊能者に追い払ってもらわなければならない。
結果、このひとは、霊能者にすべてを支配され、
運命の奴隷と化してしまうだろう。
霊能者、や、拝み屋さんは、
決して、悪意を持って、意図的にやっている訳ではないが、
結果として、自分に依存して来る人間を養成しているのです。
( なかには、悪意をもってやっている人もいる。
・ その最たる例がOーmの夜腹 )
人の持つ「 因縁 」は、複雑怪奇に絡み合っている。
それは、例えて言えば、
多くの細い糸を螺旋状に編み上げて造った、
太い紐のようなモノである。
その一本一本を根元までたどる事は不可能である。
悪い因縁を打ち消す為に。
「 欠くあらねばならぬ 」
「何々をしてはいけない 」
「 何々しなければいけない 」
と自分に言い聞かせる・・・
このような修練は、
バケツを使って、池の水を空にしようとするような行為ではなかろうか。
力めば力むほど、執着が強固なものになってしまう。
各論には有効だが、総論には通用しないと思える。
因縁(課題)を、超越す方法は、だだ一つ。
「 自己の生命は『神の分霊』である事を悟る事 」
これが出来た時、「 自己改造 」などという問題ではなくなる。
自然に、自分にとって最善の願望が湧き上がる。
最善の願望は、最善の行為を生み、
「最善の行為」は、、「最善の結果」を発芽させる。
この循環こそが真の意味での
「 因果報応 」であるはずだ。
悪あがきはしません ・・・
この境地を音にすると、
南無阿弥陀仏 ・・
南無妙法蓮華経 ・・
アーメン ・・
となるのではないだろうか?
人間の内には『 神 』が存在する。
神は、外にいるのではない。
運の良い人、幸福な人生を歩む人、
これらの人に共通する絶対原則は、
「 自己の内なる神を知り、大切にしている。 」
これ、即ち、 「 ホントウの自分に背かない 」という意味。
ひとりの人間が、
この世に生を受けた事の目的は、唯一つ。
「 自己の生命は『神の分霊』である事を悟る事 」である。
それらの「 悪循環 」の源は、
「 自己処罰 」なのです。
自己処罰???
サッパリ意味が解からない・・・・
と、思われるかもしれません。
アメリカの精神身体医学の大家、
カール・オーガスタス・メニンガー博士
(Karl Augustus Menninger、1893年 ~ 1990年)
の著書、「 おのれに背くもの 」。
この本には、興味深いことが書かれています。
メニンガー博士によると・・・
不運や、不測の事態、災難、などは、ほとんどの場合、
外部的要因によるものではなく、
自己の潜在意識が、
他人に自分を虐待するように仕向けている。
その結果として、自分に不運や逆境が引き寄せられる。
その苦しみに耐え忍ぶことによって、
自分を納得させている。
・・・・・・
これ、即ち 「 自己処罰 」
メニンガー博士は、こういうパターンの人間を、
「 不運を嘆く一群 」と呼んでいる。
不運・不幸・災難 ・・・
これらを引き寄せる要因は、ほとんどの場合、
「 自分の深層意識 」が関与している。
天罰など有り得ない。
彼が、日常的に連発する、
「 丁寧すぎる失礼な言葉 」の背景には、
「 無意識 」の領域に横たわる、
自分にとって不利な状況を望む願望が糸を引いている。
その結果、善良で、真面目な生き方をしているにも関わらず。
不遇な立場に追い込まれる。
同時に、邪霊・・奇神・・悪霊・・不成仏霊を引き寄せ。
不可抗力の不運の連続。
彼は、まさに魔物の温床状態になっている。
彼は、多くの人の心に暗さを振りまき、
他人を不愉快にさせている。
同時に、自分自身も、常に不運や、災難の連続である。
なぜ、彼はこのような状況を自らが
引き寄せているのか?
それは、彼のなかには、
彼以外の、意識(先祖の霊)が同時進行していて、
その意識を昇華させる事が出来ていないからだ。
彼の、育った家庭環境には、込み入った事情があった。
更に、さかのぼれば、彼の先祖にも込み入った事情が多くあった。
人間の運命は、遺伝的な要素が大きい。
「 家系は繰り返す 」
彼の家系は、彼と似たようなパターンの人生を
歩んだ者が多く存在しているはずである。
肉体的な遺伝・・霊的な遺伝・・先祖の行動や思考の連鎖 、
これ、即ち、 「 原因 」。
それを再現させる事が 「 結果 」。
この2つの要素をひと言で言うと 「 因果 」
仏教で云う 「 因果報応 」とは、かなり意味が違う。
仏教示唆する「 因果報応 」の考え方は、
釈迦の説いた、偉大な教義であり。
宗教の根幹を成すものである。
ただ、そのなかには、
先祖からの連鎖(霊的要素)の真相が含まれていない。
その辺の、区別をハッきりさせないと、
いくら慈善を成しても、
いくら清く正しく生きても、
霊的要素に振り回される。
この事は、私が今まで多くの人を観察し、洞察した結果、
確信した事であり、机上の理論ではありません。
悪い霊的要素は、
それを他力で消し去る事はできない。
もし、霊能者がこれを怪力て追い払ったりしたとしても、
また、別の霊的要素が入り込んで来るだけである。
そうなったら、また、霊能者に追い払ってもらわなければならない。
結果、このひとは、霊能者にすべてを支配され、
運命の奴隷と化してしまうだろう。
霊能者、や、拝み屋さんは、
決して、悪意を持って、意図的にやっている訳ではないが、
結果として、自分に依存して来る人間を養成しているのです。
( なかには、悪意をもってやっている人もいる。
・ その最たる例がOーmの夜腹 )
人の持つ「 因縁 」は、複雑怪奇に絡み合っている。
それは、例えて言えば、
多くの細い糸を螺旋状に編み上げて造った、
太い紐のようなモノである。
その一本一本を根元までたどる事は不可能である。
悪い因縁を打ち消す為に。
「 欠くあらねばならぬ 」
「何々をしてはいけない 」
「 何々しなければいけない 」
と自分に言い聞かせる・・・
このような修練は、
バケツを使って、池の水を空にしようとするような行為ではなかろうか。
力めば力むほど、執着が強固なものになってしまう。
各論には有効だが、総論には通用しないと思える。
因縁(課題)を、超越す方法は、だだ一つ。
「 自己の生命は『神の分霊』である事を悟る事 」
これが出来た時、「 自己改造 」などという問題ではなくなる。
自然に、自分にとって最善の願望が湧き上がる。
最善の願望は、最善の行為を生み、
「最善の行為」は、、「最善の結果」を発芽させる。
この循環こそが真の意味での
「 因果報応 」であるはずだ。
悪あがきはしません ・・・
この境地を音にすると、
南無阿弥陀仏 ・・
南無妙法蓮華経 ・・
アーメン ・・
となるのではないだろうか?
人間の内には『 神 』が存在する。
神は、外にいるのではない。
運の良い人、幸福な人生を歩む人、
これらの人に共通する絶対原則は、
「 自己の内なる神を知り、大切にしている。 」
これ、即ち、 「 ホントウの自分に背かない 」という意味。
ひとりの人間が、
この世に生を受けた事の目的は、唯一つ。
「 自己の生命は『神の分霊』である事を悟る事 」である。
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