散歩道にある中古の自動車屋。そこにこの車が置かれている。
もう、3~4年になるかしら。
中古の自動車を扱っている、修理工場の横に、この自動車が置かれてから。
それからも、風雪にさらされ続けているから、傷んだように見える。
我が家からJRの駅まで、20分。駅の裏口に向かう道に自動車屋がある。
散歩道にあるのだけれど、私のいつも通る道とは反対側だから、いつも横目に詳しくは見ず通りすぎていた。
一度、近づいて見て見たいと思っていたのだけれど、カメラを持っていなくて、写真を撮る機会がなかった。
梔子の実が朱く色づき、これを句にしたいと思いつつ、散歩をしていた。
この朱い実が、枯れるというか、しなびてきて、もう終わりになりかけたので、忘れないうちに写真に収めなくてはと、カメラ持参の散歩になった。
傷んでいる。最初見た時はこれほどではなかった。もっときれいだった。
「石原裕次郎号」とバスの前に書いていなかったら、ただの廃車寸前のポンコツ車だ。
ナンバープレートは勿論無い。運転席と、後方に入り口がある。
後方の入り口の窓から、中を覗く。奧までは、外からは見えない。
浴槽が二台。シャワーが二台。。。。。
前の説明板には書いてある。
「災害対策車」として 渡哲也さんが先頭になり二千万円をかけて作った車だそうだ。
普通のキャンピングカーとは違うようである。
阪神大震災から今年はもう20年が経つ。
その後 この車は 能登沖地震 中越地震 柏崎沖地震 と災害がある度、被災地に行って、被災者の支援を行った。
石原裕次郎さんの志を継いで、石原軍団が支援活動に使用したそうである。
被災者の方々は、たとえ一刻であれ、炊き出しや、お風呂に入り、くつろいだであろうと想像する。
石原裕次郎さんは、裕ちゃん、裕ちゃんと呼ばれた 昭和の大スターである。
たとえ 亡くなっていても、石原軍団は、裕次郎さんの名前を称え、
この車に「石原裕次郎号」としたのであろう。
阪神大震災の後も、日本は災害があちこちで絶えない。
東日本大震災でも、石原軍団は、新しいやり方で支援活動をやったに違いない。
中古車展示の横には、寒木瓜の花が咲いている。
ちなみに、裕次郎さんが亡くなった時季は紫陽花の花が咲いていた、梅雨の頃である。
裕次郎さんの亡くなった頃を俳句では(紫陽花忌)としている。
群馬県の草津温泉で泊まった時、宿に裕次郎さんが、作った俳句を、色紙に書いたのが、飾られていた。
おもわず、良い句だと、うなった記憶がある。
達筆で、のびやかな文字。
句を忘れているのが、私のわたしらしいところ、オソマツさ。
お遍路さんとの出会いと別れ 、の句であった。
数年前になります。
岡山では、走らせる、、、とSモータースさんは言っておりましたが、、
その後は聞いておりません。
石原軍団の人気は、凄かった、、、てことでしょうか。