3.11

2016-03-11 23:28:18 | 3.11
今日は冷たい雨降り。
ギターサークル練習日。朝9時迄にゴミを出したり、外で作業していたら手がかじかんだ。


公民館では、国立競技場での追悼式と共にと放送が入り、2時46分に黙祷した。
あの日の事だけを考え祈る1分間、永久に続くみたいな気がした。
午後の練習は師匠とリーダーさんと私の3人。
いつも賑やかな3人が1分間黙った。

私は涙が溢れそうだったし、もともと涙脆いリーダーさんの目は真っ赤だった。

少しあの瞬間の自分達の事を話してからまた練習を始めた。
近い将来に、大地震が起きるのは間違いないけれど、被害を小さく食い止められるように知恵を絞らなければ。

おやすみなさい、明日があるならまたね。

花は咲く

2015-04-19 23:37:51 | 3.11
「花は咲く」
東日本大震災の復興支援ソング

素直で美しいメロディ。
ギターの二重奏で練習しているが、平凡で、単調で、でも、いろいろ仕掛けがあって飽きない不思議。
淡々と繰り返すサビは盛り上げどころが分からない。
盛り上げる必要なんてない。
思いを伝えるだけ。

弾き語りを久しぶりにしてみると、心が静かになっていく歌詞。
誰もが浪々と歌い続けたくなるおまじないがついているのかな。

写真でしか見られない笑顔があるのに、その写真さえ津波にさらわれて
心の中の思い出だけ

哀しいなぁ、悲しいなあ。
寂しいなぁ、淋しいなぁ。

あの日の事を忘れなければ、過ちを犯す人は無くなるのではと思うが、毎日悲惨な事件が起きて、ニュースを見るのも嫌になる、嫌になる。

この歌は、そんな嫌な事から離れて素直に祈る気持ちになれるからいいなぁ、いいなぁ。

私は何も残せないけれど、この歌を知ってる。この歌を奏でる。

お休みなさい、明日があるならまたね。

3.11

2015-03-11 23:27:54 | 3.11
再投稿2014.3.10の日記

まる三年。
社会人まる三年の娘。
学生一人暮らしまる三年の息子。
それぞれのまる三年。
あの日都心にいた夫と娘。
家にいた息子と私。
FAX付き固定電話の電源を引っこ抜いて、非常用電話に切り換えた。
夫の携帯電話が一瞬繋がり、娘が大学にいる事を伝えた。
夫の勤務先と娘の大学が近いので、できれば合流してもらいたかったのだ。
娘からは公衆電話から一度電話がかかってきた。
大学の学長が学生に毛布と乾パンを配り、
「あなた達が3日間くらいしのげる備蓄はありますから、自宅まで徒歩で1時間以上かかる人は学舎に泊まりなさい」
と仰ったそうだ。
ピアノのレッスン中だった娘は倒れてくる本棚から逃げたと言う。
流石に学長の言葉に励まされて気持ちを落ち着けようとしたらしい。
帰巣本能で、無理して歩いて帰ることを選択する友人もいたそうだが、娘は山の手線の復旧を大学で待つことにした。
情報収集に集中し、明け方に動き始めた山の手線ではなくσ^_^;丸ノ内線に乗り、私鉄に乗り換え帰宅した。
不思議なことに混雑もなく、普通に乗れたそうだ。
ジタバタしたらしい夫の方が後に帰宅し、2時間眠ってまた出勤した。
それなら会社に泊まれば良かったのに~と思うが、それも帰巣本能。
娘の大学は翌日が入試だった。鬼のように入学試験は実施された。辿り着けなかった学生に救済処置があったのか無かったのか、その後の生活に追われて記憶に無い。
娘の卒業式は簡素なものとなった。
用意していた晴れ着も着られず、演奏用に調達した長めの襷も使うことなく、親も来るなという御達しで、普段着で行われた。
余震が続く毎日、いつ停電になっても対応できるようにスタンバイしていた。
あらゆる価値観がひっくり返った。

水戸で就職して、一人暮らしを始めるはずだった娘だが、水戸駅が大変なことになっていたので、娘はまた就活をした。

息子の方は、私鉄特急を利用して新幹線通学をするつもりだった。
ところが、私鉄特急が当面運休となり、通えないことが判明、急遽一人暮らしを決めた。
4月1日に入学説明会があるのに、アパートを見つけたのは27日。
29日に家電やカーテンを調達し、引越しは30日。
ドタバタで何とかやり遂げ、息子には食材の買い方、味噌汁とカレーの作り方、台所や風呂場、トイレの掃除の仕方を付け焼き刃で教えた。
いきなり家から追い出された気分だったらしい息子は、張り切る私とは対象的にボーゼンとしていた。
それでもじわじわと現実を受け入れ、入学式の頃にはしっかり新生活が始まっていた。
入学式はやはり簡素だった。

息子が落ち着いたのを見届け1週間ぶりに帰宅すると、娘は既に仕事を見つけていた。
半年は試用期間、その後は契約社員。正社員になるのは諦めて取り敢えずの職。
それでも真面目に勤務した甲斐あって1年半で正社員に起用された。

こうして我が家は日常を徐々に取り戻すことができたわけだけれど、それは都心やその周辺だから。
東北の被災地。原発。復興はまだまだ遠い。

あの日のこと、今日までのこと、今のこと、
忘れてはいけないことだから、書いておこう。