押し売り 浮浪者 詐欺

2018-04-23 12:04:57 | 想い出
うちの猫は1日に数回私の膝を求めて激しく付いて回り、気づかぬふりをして家事をしていると、元々のタレ目を更にタレ目にして、恨めしそうにわたしを見つめてくる。

その目を見たら仕方ない、家事をそこそこで切り上げて猫の床暖になってやる。
床暖になったら、まあ、ピンポンとか電話が鳴らぬ限り、半時間以上は動けない。
そんな時間にはブログでもカクベエ。

押し売り

子供の頃、定期的に我が家には押し売りのおじさんがやってきた。
別に強面でもない普通のおじさんが、風呂敷に何や彼やと細々した日用雑貨品を包んでやって来る。
玄関の上がり段に座り込んで、風呂敷を広げる。
母は、世間話をしながら、歯ブラシくらいを買っていた。
おじさんが帰ってから、
押し売りのおじさんや
と、母が教えてくれたから、
ああ押し売りさんか
と、私は押し売りという職業を知った。

寺にはいろんな人がやってくる。

近隣農家のお檀家さんは
阿弥陀さまにお供えしておくれやす
と、お米を重箱に入れて来られる。
私は、重箱からさんぼうに上手に山型に移せるようになった時は嬉しかったものだ。
空になった重箱にマッチ箱を
おためです
と、ふたつ入れて風呂敷に包んで返す。
そして
南無阿弥陀仏〜
と唱えながら本堂の阿弥陀様の前までしずしずと運んでお供えする。
ロウソクを灯して、所謂、私がガマゴンと呼んでいるお坊さんが読経の時に左手でゴンガン〜と鳴らす鐘のようなものを3回高らかに打ち鳴らす。

田舎の寺は大体こんな呑気さ。

ある日、私がひとりで留守番をしていると、

こんにちは〜

と、男の人の声がする。
出てみると知らない顔の大男が情けなさそうな姿で立っていた。

お腹が空いて……

と、その大男はモジモジしている。

私は、母がこんな時にいつもしているように、

ちょっと待ってて下さい

と告げて、台所に走り、ご飯やあり合わせのおかずを弁当箱に詰めた。
果たして大男は開けっ放しの玄関でおとなしく待っていた。
私は弁当箱を手渡し、更に、私の小遣いから二千円を半紙に包んで渡した。
これも母がやっていたことだ。

大男はニタニタ笑いながら何回もお辞儀していた。

暫くしてまた玄関で声が聞こえる。
出てみるとお巡りさんが先程の大男を連れて立っている。

誰かがお寺の階段を登っていくこの怪しげな見知らぬ大男を目撃して通報したらしい。
お寺が危ない‼️ってね。

お巡りさんが

お寺のお嬢さんに貰ったと言うてますが、ホンマですか?
と、尋ねる。

ホンマです。
お腹が空いたといわはるさかい、大変やと思って。
おっちゃんは何も盗ってはらへんですよ、

と、私は答える。
やはり、大男はヘラヘラニタニタしている。

お金もあげたんか?

はい。

おい、おまえ、ちゃんと礼いうたんか!

へぃ。

手にろくなおかずも入っていない弁当箱を大事そうにを持って大男はぺこりとお辞儀した。

お巡りさんは

大男の腕を捕まえて引き揚げて行った。

あのおっちゃんどうなるんやろ……


また、ある時は、本堂の縁側で寝っ転がってるおっちゃんがいた。
汚いおっちゃんや。

私は冷たいお茶を運んだ。どこから流れて来はったんやろ。

こんなおっちゃんらことは、呑気な時代だったなぁと思うくらい。

思い出して一番ムカつくのは詐欺師だ。

私の高校一年生の時。留守番していたら、

消防署から来ました。消化器の交換です。

と、パリッしたスーツ姿の男がやってきた。
一本五千円だという。お寺ですからね、何本もあるし、大事な事だと私は思った。

はいさようですかと、人を疑わないちょっとトロい私はお金を取りに奥へ行こうとした。
その時、廊下のガラス戸越しにもう一人の男が寺の門をくぐってくるのが見えて

課長!民家全部終了しました!

と、大きな声で報告するのを聴いた。

これで私はおかしいと気づいた。

もう直ぐ母が戻ってきますから、それまで待ってください。

そう言って、お茶と茶菓子を出した。

任務ですから。

と、男はお茶にもお菓子にも手を付けない。

私は玄関に男を待たせておいて奥に引っ込み、時々顔を出して

お待たせしてすみませんね。

と、声を掛けた。

いえいえ、任務ですから。

男は随分粘った。
私も粘った。

見抜いていることを悟られてはいけない。願わくば穏便に諦めて帰って欲しい。
警察に通報するにも電話は玄関脇にあるし。
逆恨みされるのも怖い。

何回か、挫けそうになりながらも私は頑張った。

1時間以上そんな我慢比べをして、男は突然

お姉さん、出直しますわ。

と、帰って行った。

よしっ、勝った‼️
さいなら〜👋

第2の男登場、決め台詞で駄目押し、そして詐欺成功という筋書きだったのだろうけれど
演技の勉強して出直して来なはい‼️
次は1分で追い返したげるわ‼️

あとでお檀家さんのおじさんから聞いた。

消防署は消化器売りつけたりせえへんで、騙されたらあかんで‼️

実はあの時、奥に私の友人がいた。

あんなん絶対嘘やんなぁ…
と、ふたりでうなづきあいながら様子を伺っていたのだ。
この友人がいなかったら、もしかしたら私は挫けていたかも知れない。






ニッキのジュース ニッキ水

2018-01-16 20:16:19 | 想い出
日記のジュース
じゃない
ブログのジュースじゃない

ニッキのジュース

シナモンが血行を良くするというのをテレビ番組で見て思い出したお話。

私はニッキのジュースというのが嫌いだった。

母はニッキが好きだった。

前にも書いた事があるけれど、私の生まれた村は無医村で、「こうちゃん」という萬屋さんが一件あっただけ。
床屋さんと「こうちゃん」お宮さんとお寺。あとはゲコゲコカエルの鳴く田圃、 そして畑と畦道、小さな川。

母は時々私を自転車に乗せて町までお買い物に出掛けた。
往き帰り、自転車の荷台に乗せられて母の背中にしがみついている。
ある日、わたしがぐずったのだろうか?眠そうなのを醒まそうとしたのだろうか?
母が私にジュースを買い与えた。
ひょうたん型にくびれた容器に入った赤いジュースだった。

(Wikipediaで写真を発見!借用します。)




私に与えて母はまた自転車を漕ぎだした。
先端を噛み切ってひとくち飲んだ私は困ってしまった。
母がせっかく買ってくれたジュースなのに、私は飲めなない。嫌いなのだ。
ニッキの匂いがツンとして、私はいつまでも瓢箪を握りしめているだけ、しょんぼりして母の背中にしがみつくこともできず、

これいらん‼️

とか、

これ嫌い‼️

とか、正直に言うこともできないで悲しく困り果てていた。

しばらくして母が私の様子に気付いて自転車を止めた。

どうしたん?

と、訊かれても、申し訳ないという気持ちばかりで何も言えない。

嫌いなんか❓

と、ようやく母も気がついた。

あんたニッキ嫌いやったんか❓

母が知らなかったことにびっくりした。

地蔵盆など、子供が集まる時によく配られたけれど、私はいつも飲まなかったのに、母は知らなかったのだ。

自転車を降りてスタンドを立てた母は、電信柱の下の草むらにジュースを流し棄てた。
地面が私の代わりに吸い取ってくれた。

そして、母は、何事も無かったかのように自転車を走らせた。

ジュースを棄てている母の後ろ姿が今でも眼に浮かぶ。

本当に生きんがために今この食をいただきます。与えられたる天地の恵みに感謝いたします!

と唱えて物を口にする習慣があったからというわけでもない。
とにかく忙しいキャリアウーマンの母と、とにかく甘ったれの私。
母が買い与えてくれただけで嬉しいのに、嫌いなんて言えない。要らないなんて言えない。
ましてや捨てるなんて‼️
あの時の私の気持ちを多分母は知らないと思う。
忙しい母にしたらなんて事ない話だ。
あ〜めんどくさい子やなぁ〜もじもじしてないで要らんなら要らん‼️とはっきり言いなさい!
程度だったと思う。

ごめんなさいと心の中で謝りながら振り返って見た電信柱。日がどんどん暮れる。

⏳ ⌛️ ⏳ ⌛️

昨日、仕事がお休みだった娘がなんやかやと片付けものをしていて、アクセサリーの整理を始めた。
そして、

ばあちゃんからもらったものがいっぱいあるけど、高いものか安いものか分からないから見て〜

と、食卓に店開きした。

どれどれ……

あ!それ!初めて買ってもらったブローチ!
あ!それ!初めての発表会に買ってもらったペンダント!
あ!それは!

なんて、身に覚えのあるものが出てくる。

お母さんの記憶にある物はお母さんが自分で処分してね😜

と、娘に返されてしまった。

甘ったれの私が結婚する時に全部棄ててきたはずなのに、
しっかり残しておいて、知らぬ間に孫娘に渡していた我が母。

なんやね〜ん💦💦

やっぱり捨てられへん〜😱

娘に

棺桶に入れてあげるから悩むな‼️

と、言われた。

忘れるのが先か棺桶が先か……😅

シナモン

と聞いて、パブロフの犬のように、いまだにあの赤いジュースと母の後ろ姿と自転車を思い出すのだもの😓

いい加減に古いものを追い出さないから、新しい情報を記憶できないのですかね。

追記

正しくは、ニッキのジュースではなくて、

ニッキ水

だったことを思い出した。
修正するのが面倒なので、追記としておく。
ハッカ水というのもあった。

あの頃本物のジュースを飲むことはほとんど無かった。
果物は腐るほどあったけれど。

ジュースというと、大阪万博のドイツ館で飲んだ100パーセントのオレンジジュースを思い出す。










京都駅50年前

2017-11-26 00:00:11 | 想い出
50年以上昔の………
と書くと、半世紀前の事!(◎_◎;)

半世紀以上も昔の京都駅の想い出。

当時の国鉄の硬い座席に座っている私。
トンネルに入る、
急に暗くなる。その閉塞感、息苦しさ
早くトンネルから抜けたいとじりじり身体を硬くする。

母はスマートで背が高く(167cmというのは当時の女性としては相当高い。)
合う靴が無いと困っていた。24cmなんて、今なら普通。22.5cmの私の方が合う靴がなかなか無いわ。

京都まで出かける時はたいそうお洒落をしていたと思う。
母の香水の香りが大好きだった。白くてすらっとしているのに柔らかい手も。

昭和30年代の庶民の暮らしは、とても厳しいうねりの中にあったと思う。
私が生まれたのは、こんにゃくからしばぼうきまで売る萬屋さんが一件あるだけの無医村。
小学校の教師だった母は、私を身ごもった時に退職した。
そして頼まれてピアノの教室を開いた。
学生時代は町の方に下宿していたようだし、田圃ばかりの田舎では、綺麗なものひとつ買えないから、
京都まで出掛けるのはきっとストレス解消の為もあったと思う。

私は甘えん坊で母にベタベタしたかったけれど、母は結構頑固な気紛れ屋で、夕飯時はいつも家族に当たり散らしていた。

そんな母がお出掛けする時はいつもご機嫌良かった。

高島屋とか、大丸でお買い物の時もあった。
映画館へ行く事もあった。
私が一番好きだったのは
十字屋
という楽器や楽譜のお店。
天井まである本棚や、ガラスケースの中でピカピカ光る管楽器。
木の床は焦げ茶色。靴が染み込んでいきそうなくらいしっとりした床。
聴いたこともない音楽が流れている。
母があれこれ物色している間、私はキョロキョロウロウロ。

さて、京都駅のことだった。

それは薄暗い講堂のような姿しか思い出せないのだけれど、
何度か目撃した忘れられない光景がある。ホームから階段を昇って行くと、
壁に沿って元兵隊さんが数人。傷夷兵さん。
その中に脚の無い人がいて、コロの付いた板に乗って乞食をされていた。
母が小銭を私に持たせるので、小走りに渡しに行った。
帽子を目深に被り表情の見えないその人は何も言わない。
私は母の元に戻り縋り付く。

戦争の事など大人は誰も話さない。
お檀家さんのお家に軍人さんの写真が並んでいるのを見ると、あゝ戦争で亡くなった人だなと思うけれど、子供から尋ねることもない。だいたいが大昔のことだと思っていた。想像できないほど大昔のことだと。
だって、私は6歳の時にレニングラードバレエ団の公演に連れて行って貰ったのだもの。
後ろを振り返ることなく新時代を切り開く為に大人が必死に突き進んでいた時代。

今の綺麗な京都駅、吹き抜け明るい大階段。

半世紀前の京都駅を知っているって、我ながら凄いと思ってしまう。





恋話

2017-10-18 11:39:29 | 想い出
想い出

大学に入学した頃、男子が多かったせいか、カーリーヘアで目立ったせいか、何故だか知らないが、人生最大のモテ期が来た。
三流大だけれど、個性的な人物が多く、特に何かの分野で才能を学生時代に開花すると、皆卒業を待たずに世に出ていった。
私に声を掛けてきた変わり者たちもそういう人達が多い。
同窓会名簿に名前の無い人にばかり思い出がある。

デーミアンと名乗る男子がいた。
だから、私はゴルトムントよ!
と、返した。
二人で漢字をあてて遊んだ。

ゴルトムントは
御留吐蒸都

デーミアンは
どうだったかしら?泥?庵
忘れた。
当時から文筆家、今はフリーの物書きの様子。本名でブログを書いていたのを最近見つけた。
私のハンドルネームを御留吐蒸都にすれば見つけてくれるかな?

半年ほど仲良くしていたが、間も無く強烈な人物(ハードロッカー)と、まあ運命の出逢いをして、デーミアンとは別れることになった。
正直に打ち明けると、人間の大きなことを見せたかったデーミアンが紳士的に受け入れてくれたのもあり、デーミアン繋がりの仲間の中に私の新しい彼氏を連れて宴会をした。最初は礼儀正しかったデーミアンだが、相当お酒を飲んで、遂に荒れ始めた。非常に体格が良いデーミアンなので、仲間が
「ここは引き受けた!逃げろ!」
と、叫んだ。
私は彼氏と手を繋いで東山通りを裸足で逃げた。
後ろから
「おお〜い!」
と呼ぶ声があり、振り向くと仲間のひとりが私のロングブーツを投げてくれた。
履いて逃げる時間が無かった、姉からのアメリカ土産のスエードのブーツ、拾う為に少し戻る、その向こうで何人かがデーミアンを抑えていた。

元々が優しく紳士的なデーミアンのこと、数日後にはほとぼりが冷めていた。
でも、もう楽しかったその仲間とは遊ばなくなった。
翌年の祇園祭は新しい仲間と繰り出した。

運命の出逢いと思った彼は、やはり大変な才能の持ち主で、親が大変苦労して学費を工面していたにもかかわらず、本人も夜中のアルバイトをして生活費を稼ぐのと音楽活動のために勉強する時間がなく、4回生の半ばで上京してデビューしてしまった。
芸能界は想像以上に恐ろしいところだ。
私は卒論を書かなくちゃならないので追いかけていく訳もいかず、暫くは遠距離恋愛という形をとっていた。
携帯電話のない時代の遠距離交際とはそりゃあもう聞くも涙語るも涙。「なごり雪」でごさる。

プロデューサーもマネジャーも私のことは承知、で、コンサートは勿論関係者枠で席が用意された。
最初の頃は衣装作りに協力したり、発売前の曲を聴けたり、メンバーとも親しくしてもらえて、その恋人達とも仲良くなったし、ワクワク愉快だった。
でも、ハードロッカーのようなカーリーヘアをしているとはいえ、その外見は天然物であり、中身は地味でフォークソングやクラシックが好きな私。
どんどん派手な生活に染まっていく彼には付いていけなかった。
彼は彼で、いきなり都会の遊び方を知り、私の垢抜けない田舎臭さに気付いただろう。
コンサートに私が着ていたコートをみて、
「それ、随分くたびれたな」
と言った。彼が気に入っていたコートだったのに。
確かに、都会の若い女の子のキラキラは、私にはただ驚く事ばかりで、自分には無縁な世界だと思っていた。
あるメンバーの彼女は高校生だが、金髪で逆毛を立てて、ボディコンの金ピカワンピで物凄い化粧をしていた。
その娘が
「おねぇ様〜」
なんて、腕を絡ませてきた時は、これはもう違う!やろ!
私はただの爆発頭の持ち主であるだけの純情な田舎娘。

さらに、「追っかけ」というファンの存在。
その人達がどこまでやるか、私は初めて知って本当に驚いた。
首都高速をタクシーで追いかけて箱乗りして写真を撮ってくる!マネジャーが機転を効かせてまく。
彼女らは私をまで追いかけてきた。
京都駅でつけられていることに気付いた時、これはもう駄目だと思った。
そんな経緯で彼方は冷静に、私は大泣きで別れた。

暫くしてマネジャーから連絡があり大阪でのコンサートに来てくれと言われた。
彼等のファンであった後輩に招待券を渡して、ボディガードを頼みコンサートに行った。
終演後、舞台袖でマネジャーに言われた。
「戻ってもらえないか、大分参ってるんだ。」

翌日、ふたりが京都でよく行ったcaféで会う約束をした。
京都にいると、彼は非常に彼らしく思えた。何も変わっていないように思えた。
でも、私には変な意地が芽生えてしまっていた。「今更……」

彼を残して私は店から出た。

先日35年?ぶりの再会を果たした、当時とてもお世話になっていたフルーツパーラーのママさんの話によると、私と別れた後やってきて、
「今、別れてきましたねん」と、大泣きしていたそうだ。
それは本当に初めて聞くことで知らなかった。

お互いに凄い運命を感じていたのに、ふとした瞬間にずれてしたまう。
恋とはそういうものなのね。
もうすぐ還暦、こんな大昔の恋話、書いても誰にも迷惑かからないから書いておこう。
高校時代の数学の先生が、最初の授業の時に、黒板にこう書かれた。
「いのち短し恋せよ少女」
そうね、敗れても破れても、恋をして良かったと思うわ。











やんちゃ

2017-02-08 19:10:45 | 想い出
カテゴリーに
想い出
を 追加。

ふと思い出したことを書きたいままに。

昔、実家の本堂に黒い本棚があった。
それは、愛知の大きな寺の住職をしていた祖父が亡くなった後、どうやら遺産?として我が家にやってきた蔵書のようだった。
うすらぼんやりの小学生の私は当時の記憶がぼやけている。
両親が

「ちょっと行ってくる、御前さんが亡くなった。」
暗くて広い寺に小学生の姉妹は2人きりで数日間お留守番をした。
愛知での葬儀やら後始末やら一切が終わるまで。
その間、お檀家さんの中でも特にお世話になっていたお家のお婆ちゃんやら、おばさんやらが、毎日おかずを届けて下さった。
「これ食べ〜」
と、おばあちゃんがやってきて、庫裡の縁側で受け取るシーンは憶えているが、それがなんだったか、どうして食べたか、何日続いたか、全く憶えていない。
漸く両親が帰ってきて、日常が戻る。
程なくして、授業中に先生に呼び出され
「お姉さんが入院したから、学校終わったら☆☆病院に行くようにとお家から連絡がありました。」
と、言われた。
それは憶えているが、どう反応したかは憶えていない。

バスに乗って、病院までひとりで行った。
当時その近くのバレエ教室に通っていたのでひとりで行けるよく知っている所だ。
病室に行くと姉は手術を終えて目も覚めて、ひとりでいた。
母は週に二回ピアノのレッスンで近くの幼稚園に行っていたので、恐らくそのレッスンの日だったのだろう。
私と姉は手持ち無沙汰で、姉の「おなら」を待っていた。
姉は、盲腸が悪化した腹膜炎だった。

祖父のことで留守がちだった両親、ボケボケの妹、姉としての責任。
小学六年生の姉はギリギリまで我慢していたらしい。

でも、
小学四年生の妹は、そんなこと知る由も無い。手八丁口八丁の姉がいるのだから、私は何も考えていなかった。
お気楽なもんさ〜

病室で何とはなく姉と話しているうちに、いつものように喧嘩が始まった。
手術後とは思えぬ姉の勢い。流石だ。

家で喧嘩になると私は家中逃げ回って逃げ回って、最後の最後はお便所に飛び込む。
トイレではない。お便所だ。男便所 女便所 子供便所があり、子供便所にこもる。暫くドンドン!だのバンバンだの攻防する。
そして、鼻をつまんで我慢していたらやがて敵は諦めて立ち去る。
立ち去ったら悠々出てきて知らぬ存ぜぬを通すのだ。
大概、先に帰宅する私が姉のおやつをガメ?ることから喧嘩になるのだけれど、何故私が姉のおやつをガメ?たかというと、口下手な私には語り尽くせぬ妹としての口惜しいあれやこれやがあったのだ。

一言でいえば、まあ、

お姉ちゃんは、ズルイ!!!

と、言いたかったのだ。

姉の言い分など知らない。

とにかく、病室といえど、喧嘩はエスカレートして、

「帰れ!」

と、姉が叫んだ。

「ほな、帰るわ!」

売り言葉に買い言葉で私は飛び出す。
飛び出したは良いが、さて。

私が病院に姉を見舞い、仕事を終えた母が病院に迎えに来るのを待つように母が手配したのは分かっていた。
しかし、もう走り出した私の足は止まらなかった。

バス代は往きの分だけしか持っていなかったので、歩いて帰るしか無い。
バスで15分程の距離を私は夕暮れという時間に追われながら追い越されながら帰宅した。お腹がこそばかった。

すっかり暗くなってお腹が空いて、もうアカンと、冷蔵庫の上の食卓塩味塩を舐めていたら母が凄い形相で帰ってきた。

「あんた!何してんの!」

「かえれ!て言われたから帰った。」

その後のことはさっぱり憶えていない。
母は忙しかったし、無事を確認したらもう叱っても仕方ないと思ったのだろう。
呆れこそすれ、さほど怒らなかったのだと思う。

と、まあ、祖父の死の記憶と言うと、姉の入院しか思い出さない。

その祖父の蔵書は「大蔵経」が黒々と冷たく、黴臭く場所を取っていたが、その中に、西村京太郎やらもあり、なんやらかやらごちゃ混ぜだった。今思うと、誰の蔵書か定かではなかったのだ。
とにかくその重苦しい本棚の中から、漢字ばかりで無い本を見つけては適当に読んでいた。
ある日、
「破戒僧」
という本を見つけた。
キリスト教の神父の同性愛についての本である。
まあまあびっくりして、でも好奇心の誘うままに読み進みていくと、乱丁である。
さあ、これからどうなるか!というところで乱丁である。
やれやれと諦めた。


数年後、たまたま友人にその話をしたら、大学の図書館で探してくれた。
W大の図書館にその本があった。
が、持ち出し禁止だったらしい。コピーをとるのはOKだという。

当時、タモリが「中洲産業大学」教授だとかをジョークでやっていて、W大学の文化祭に講演しにやってきた。
私は友人に誘われてW大に遊びに行った。
「W大は中退した方が有名になる!中退しても有名になれば大学に呼んでもらえる!」
とか、タモリは豪語していた。

で、その立派な講演を拝聴した後、図書館に行った。
勿論図書館に部外者の進入は許されない。
友人のアドバイスは
「大丈夫!見やしないんだから、なんか見せる振りして入ればいい」
だった。

学生証に見えるだろうと思われる物を手に、友人の後に続いた。
「そこの君!」
すかさず捕まった。
仕方ない、てへぺろをしてみせて、臭い芝居をする。
「あ!これ違った〜!学生証忘れました〜すみません〜」
とかなんとかテヘペロォ。

「捕まった人を初めて見た〜」
と友人。

ちゃんとお仕事、チェックしていらっしゃるのです。

でも、何故か無罪放免?私は図書館に入れた。
そして、本の乱丁で欠落した部分をコピーして私はミッション終了。
図書館から出るのは無問題。

「破壊僧」違う、「破戒僧」
のお話は予想通りの内容で繋がり完結した。
この本の内容よりも、これまた、このW大の図書館で呼び止められたことの方が生々しい記憶として残っている、