主よ人の望みの喜びよ

2015-05-30 01:02:26 | ギターアンサンブル
ギターアンサンブルの日。
今日も 日付けは変わったが、9時から5時までの鬼の練習。
どうも、書かずに眠れない。
京都土産の「京ばあむ」を家で切り分けてお皿とフォークまで用意してお茶の時間に と思っていたのに、今日は最後の一曲に至るまで休憩無しだった。



バッハさんの「主よ人の望みの喜びよ」
練習も佳境に入ってきて面白くなってきた。
主メロ裏メロコラールの絡み合い。
それなのに一回目、4’th担当のおばあさんメンバーが一拍ずらして最後まで……
終わってからずれていたことに気付いたという顛末。パート譜を見ていると誰がどこを弾いているかわからなくなったり、少しミスると途端に迷子になり修正不能になる。でも、ありえない濁り方をベースが引き起こしていたら気付いても良さそうなのに。アンサンブルだから他のパートの音を聴かずに自分拍で突き進んでもらってはこまる。
私といえば、音色が不自然に繋がる箇所があり運指ポジションの変更だ。
休憩無しでやらなくちゃならないわけだ。

午後練は毎度の師匠とリーダーさんとわたしの練習。
このメンバーだと私が足を引っ張るので必死。
モーツァルト 管楽の為のディベルティメント。段々細かいところの指摘が増えてきた。
音一粒の長さ強さ響き、3人の音が揃うというのは一時の油断も許されない状況で可能となる。

ああむつかしい。

その音の違いがわかるときの喜びよ、主よ人の望みの喜びよ。

どんなに時間があっても足りない。
なんのためにやってるのかしら。
好きの一念。

小原巳恵子さん「瓦解」

2015-05-30 00:17:47 | 日記
著者が友人のお知り合いということで紹介された御本。

小原巳恵子さん著
「瓦解」
影書房



帯より
「敗戦とともに、楽しかった家族は無残に離散。
戦後、舞台女優の道をひたすら歩むが、愛した男の裏切りと娘を抱えての離別。
新たな人生で出会った男との幸せな日々は、彼の脳腫瘍の
死で断ち切られる。
その鮮烈な人生を描く短編小説5編。」

昭和7年生まれの著者の感覚に、同世代を生きた亡き母の姿が重なってきて、一気に読み終えた。


ピアノのお稽古5

2015-05-28 23:30:13 | ピアノ
北海道は札幌 、澄川という真駒内に近い所に住んでいた。
札幌駅から南北線澄川の駅、かなり急な坂を登った所にあるマンションが社宅だった。
雪の季節、この坂道は怖い。登りは兎も角、下りは大層に怖い。しかし若いお姉さんなどはハイヒールでカッカッとそのピンヒールで雪を突き刺しながら下っていく。移住して最初にしたことは靴底に雪道仕様の滑り止めをつけることだった。

ピアノに興味を持った娘に、私は子どもの為のモーツアルトをいきなり与えた。
一度弾いて聴かせると、楽譜の音符の読み方、リズムの取り方を吸い込まれるように娘は理解してくれたので、ついつい夢中になって教えた。
でも、親が教えるといずれはドロドロの闘いになる日が来るのを知っているのでどこか音楽教室を探さねばと思っていたが、とにかく坂道が怖いので近い所、坂道を通らなくてよいところに教室が無いものかとアンテナを張って彼方此方ウロウロ散策した。

そして見つけた。
坂道を登りつめて左折するとマンション、右折すると「札幌コンセルバトワール」というピアノ教室があったのだ。つまりマンションから真っ直ぐ数分で教室だ。
有名な先生が主催されていたが、とてもアカデミックな雰囲気なので、私達のような一般peopleに門戸が開いているようには思えなかったが、ある日、院長先生が坂道を長靴を履いて登っていらした。
その姿がとても普通のおじさまに見えて、というか、どうして院長先生だとわかったのかというと、コンサートのチラシでお顔に見覚えがあったので、思わず話しかけてしまったのだ。
4歳になったばかりの娘を紹介して、
「一般peopleですが(本当にこのセリフを使った)教えていただけますか?」
「勿論ですよ、見学にいらっしゃい」
その足でコンセルバトワールに案内して下さった。白を基調とした明るい内装で、階段には沢山のお花が並んでいた。院長先生の奥様がお部屋を全て見せて下さった。全国各地から、また海外からもレッスンを受けに来られるのでシャワー室まであった。

メトードローズの教本を渡され、「来週からでもいらっしゃい」
あ、バイエルじゃないんだ、メトードローズなんだ、教えるならメトードローズが良い。嬉しい。この時点でまだ自分が手ほどきをするつもりの私だった。

家に帰ってさあさあ……
私は自分自身が真面目に習い始めたのが遅かったから、何を最初にきちんと教えるべきかわかっていた。
私の先生は厳しかったし、嫌味も多かったが、効率良く学ぶ方法を教えて下さったのだ。
娘は既に楽譜の読み方をわかっていたので、一週間後にはメトードローズ上巻の中程以上を弾けるようになって初レッスンということになった。
先生はひたすら花マルをつけるだけ。
4歳の子どもには半時間の集中が限界なのだが、娘は何時間でも集中できた。
そこで、先生は一回間違えたら「も」と書いて「もう一度弾いてきてね」と仰った。
娘はこの「も」が大嫌いで悔しがった。家で完璧に弾けても一度つまづくと「も」がつく。意地になって集中していった。

夫は子どもを褒めることを絶対にしない人だった。逆に私は褒めて育てるタイプ。
夫に「ほらほらこんなに弾けるようになったよ」と報告しても
「それがなんや?」とどうやらピアノのお稽古には反対の様子。
習う前に娘は父親に「絶対やめませんから習わせて下さい」とひらがなのお手紙を一生懸命書いたのに。
音楽を学ぶのに父親の協力や理解がないと大変だ。これは最後まで影響する。
でも、娘はそんな事全く気にもならない様子で、幼稚園もお休みしてピアノを弾いて過ごすこともあった。
私は無理矢理やらせたわけでもない、幼い娘がやりたがったのだ。
2か月でメトードローズ上下巻終了。
バーナムの教本とギロックの練習曲に入った。
ギロックの「フランス人形」が大好きで、幼稚園のグランドピアノで毎日弾いていた。
実はその幼稚園は森の中のとても自由な幼稚園。カリキュラムはない、年齢別の部屋もない。好きなことをして過ごす。しかも親も一緒に遊べるのだった。親の教育も目的にしていたので私も毎日童心に戻って通っていた。

ピアノのお稽古4

2015-05-26 23:22:57 | ピアノ
久しぶりにピアノのお稽古の続き
高校を卒業してもピアノは続けていた。
音大に行かず、さらに下宿していたので、ピアノの練習場所に困った。
スタジオを借りるなんて考えもできなかった私は、なんと教育学部の教授に直談判しに行った。
教育学部には音楽の授業のために学生が練習するピアノ室が沢山あり、いつも幾つか空いていたからだ。
教授は少し考えてから、
「何か弾いてみなさい」
と仰った。
ちいちいぱっぱの男子学生が四苦八苦してバイエルを弾いている隣の部屋で、バリバリと
ファリアの「火祭りの踊り」を弾いてみた。
「空いていたら何時でも弾いて宜しい」
と言って下さった。
有難や有難や。
ある日ドビュッシーのベルガマスク組曲を弾いていたらトントンと教授がノックされた。
「グランドピアノを使ってもいいですよ。」
ええ~?ええのん?

その日から私は授業のない時間帯ならグランドピアノで練習できるようになった。
が、流石に少し不味かった。
快く思わない学生もいたのだ。それはそうでしょう。
それで、今度はサークル活動用のピアノを狙った。
そこはアコースティックバンドやらコーラスグループなどが良く利用していた。
丁度昼ごろなら誰も使っていない時間帯があったのだ。早い者勝ちで飛び込んで鍵をかける。
広い部屋でまたバリバリ弾いていたら、今度は聴衆が集まってきた。
凄いカーリーヘアの女子が昼にピアノを弾いている、それもクラシックを弾いているのを見物にくるのだ。ドアの向こうに男子学生がいつもニヤニヤしながら覗き込んでいるのがガラス越しに見えた。
勿論使いたくて「早く終われ~」と、せっつきに来ている学生もいた。

まあ、そんなことをしながら、時々は帰省して家のピアノで練習して、どうにかこうにか月一度のレッスンは受けに行った。

その頃先生は車の免許を取得されて、レッスンは琵琶湖の見える高台の豪邸と、結婚後の住まいである膳所のマンションを行ったり来たりして、その時の生徒に合わせて場所を決めていらした。
高台の家の方は、遠いけれどあの優しいお母様がいらっしゃるので嬉しい。
マンションの時はいつも先生はお留守で私はドアの前で立ちん坊していた。
「私の前と後ろには車が無いのよねえ~!」と先生がバタバタ帰ってらして狭い部屋でレッスンを受ける。
ご自分だけの閉鎖空間で本心が剥き出しになるからだろうか、先生の愚痴やら嫌味やらを黙って聞くこともあった。
そんな時は、例の如くぶらぶらされている組んだ足の指先の真っ赤なマニキュアに目を剥きながら辛抱した。
先生は子どもが大っ嫌いだと仰った。子どもを追いかけてくたくたになっている母親には絶対なりたくないそうだ。
国立大の教育学部を出て子どもにピアノを教えていながら何故そう仰るのか不思議だった。
今思うと子どもを産まないことの弁解だったのだろうか。
きっと周りから色々言われて面白くなかったのだろう。

私が結婚するまでレッスンには行って発表会にも出さして頂いた。
最後の発表会では
フォーレのバルカローレ3番
私が最年長となっていたので、ある日、私より上手なのに2歳下の大学生から電話がかかってきた。
ロングドレスを着るかどうかの相談だった。
母の主催するピアノ教室の発表会で、私がロングドレスを着たことがあったからだ。
彼女は私に遠慮して、私がロングならロング、違うならやめるとのこと。
私はどうでも良いことなのになぁと驚いたけれど、彼女にすれば大事だったのだろう。
結局私はワンピースにした。彼女はロング丈とミディ丈のどちらにもできるスカートを用意して、ミディ丈で弾いた。

結婚して東京に行きます
と先生に報告した時、先生は「良かったわねー」と目を丸くして仰った。やれやれこれでこの娘と縁が切れるとホッとされたのかもしれない。

東京の住宅事情は想像以上に厳しかった。
アップライトピアノを4畳あるかないかの洋室に、根来塗りの和ダンスと一緒に押し込んでギリギリペダルを踏み込めるスペースしかなかった。ピアノなんか嫁入り道具にして……と、姑に嫌味を言われてもそれだけは譲れないことだった。広い寺でそだったのに、46平方メートルのマンションに住むことになり、私は息が詰まりそうだったが、それでも夫の月給は家賃で半分飛んで行くのだから分不相応と言われても仕方ない。

ピアノの練習はぼちぼちしたが、先生を見つけるわけでもなく、ピアノ殺人事件とかも起きていて、マンションで弾くのはやはり徐々に難しくなってきた。
そして、子どもが生まれたらもうそれどころではなくて、ピアノ室はただの納戸と成り果てた。

ところがその後、夫が北海道に長期出張となり、住環境はいきなり改善された。
社宅扱いで80平方メートルだ!
6畳弱の洋室にピアノだけを置くことができた。
私がピアノを弾いていると3歳の娘も次第に興味を持ち始めた。
ここから私の第二のピアノ生活が始まった。 続く。