先日、用事で、谷六(谷町六丁目)に行った。
伺った先の前の道路は、熊野街道でした。
帰りは、近くにある「史跡 難波宮(なにわのみや)跡」を見に行きました。
何度も車では通っていたが、行ったことはない。
この史跡の現状は、大極殿の台座と八角堂跡、門の跡の台座ぐらい。
それらがないと、だだ広い野原の公園としか見えない。
この難波宮の歴史は次のとおり。
645年 都を、飛鳥から難波宮(孝徳天皇)に移す。
646年 大化の改新。
650年 孝徳天皇の命により、難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)<前期難波宮>を作り始め、652年に完成。
654年 孝徳天皇死去
655年 都が飛鳥に遷都
686年 難波宮が火事で焼ける
726年 難波宮(後期難波宮)再建が開始される
744年 都を恭仁京(くにきょう)より後期難波宮(聖武天皇)に遷都し、さらに難波宮から紫香楽宮(しがらきのみや)に、さらに難波京に移す。
745年 平城京に移す
784年 平城京から長岡京に都を移す
難波宮が解体され、長岡京に運ばれる
791年 難波宮が廃止される
詳細は、ここを参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3
この地は、当時、大阪の上町台地にあり、河内湖が近くにあった場所。
つまり交通の要の場所。
この日は、歴史探索グループの集まりがあり、私は、取り巻いている人たちの後ろからお話を聴いておりました。
説明している人は、戦後、この発掘調査をした一人の様です。
私が聞いた話の内容は、次のとおり。
・高速道路がこの跡地の場所だけ、高架でない理由は、史跡を保護するため。
当初は、高速道路の地下化とか考えたが、技術的に問題があった。
この場所は、地上を走っている。
高架から地上に下がるところの板状のコンクリート(橋脚)は、ただ、置いてあるだけなので、埋蔵物は保護している状態とのこと
・大阪城からの景観、また、この場所から大阪城が見えるという景観を考えて、高速道路を地上とした
・200億円ぐらい掛かったが、今から思うと、このような形で保存できて良かった。
話を聞いた後、目の前にある大阪歴史博物館で、弥生時代の土器、難波宮の復元模型から、大大阪まで、大阪の歴史を学んできました。
大阪歴史博物館の詳細は、ここを参照
http://www.mus-his.city.osaka.jp/
史跡難波宮から歴史博物館見学と、2時間半の有意義な散策でした。
大阪歴史博物館は、なにしろ展示物が豊富。
じっくり見ることをテーマにした博物館で、多分半日以上かかります。
大阪城見学と合わせると、1日、時間をつぶせるエリアです。
余裕のあるスケジュールで、見学、散策されることをおすすめします。