はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

中学・高校の親友O

2017年07月10日 | 同窓会
昨夜博多の友人から連絡がありました。
6月18日に中学高校の同級生だったOが亡くなったそうです。
5年前から食道癌との戦いを強いられていたようです。

彼は精神科医として天神でビルクリニックを開業していました。
百道中学校3年生の時のクラスメイトだったのですが、そのクラスには後に眼科医となったRと、歯科クリニックを開業したSもいました。
私を含む、この四人で仲良しグループを形成していたのですが、リーダー格はOでした。
強面でゴリラのような体格でしたので、グループがトラブルに巻き込まれることは皆無でした。

4人とも修猷館に進学したのですが、そこでも時々集まっていました。
私たちが高校三年生だった夏休みにRの家に3人で泊まりに行きました。
そして、その夜は、みんなしてラーメン屋でテレビを観たのですが、画面にはアポロ11号による月面着陸の瞬間が映し出されていました。
その記憶は、青春の一シーンとして時折思い出されることになりました。

高校では4人とも水泳部に入りました。
一時期ではありますが、私と緒方は部活を終えて、一旦家に帰り、食事を摂った後に、修猷のプールに忍び込み、真っ暗なプールで400m泳ぐという特訓を続けたこともありました。
一方で、私とOは余りにもハードな練習に耐えかねて、逃げだしたこともありました。
逃げてはみたものの、翌日にはガられる(博多弁で怒られるの意)のを覚悟で練習に参加したのですが、意外にもお咎めなしでした。
喜んで、いつもよりも気合いを入れて練習し、整理運動を終え、シャワーを浴びていると、キャプテンが声をかけてきました。
”長谷川とOは昨日の分の5000を今から泳いでこい!”
疲れた体に鞭打って泳ぎ始めたのですが、次第に意識が朦朧としてきました。
考え事をしながら泳ぐのですが、それが考え事なのか夢なのか判然としなくなっていったのです。
ターンするときだけは先輩達の ” とばせっ! ” という怒声で目を覚ますのですが、再び、泳ぎながら夢を見始めます。
しかし、その時思わぬ僥倖に恵まれました。なんと、定時制の連中が体育の授業としてプールに入ってきたのです。
結局2200mで中止となりました。プールから引きずり上げられてOと目を合わせたのですが、お互いに喜びを隠せないような表情だったことでしょう。

昨夜はテレビも消して、一人で静かにOとのことを思い出しながら延々と飲みました。
当時の百道中学校の運動場は、その一端が海水浴場みたいなロケーションでした。
昼休みにはOと二人で、砂浜に座って毎日のように語り合いました。
最近で言うコイバナでしょうか。
お互いが思いを寄せる女性のことを延々と語るのです。
ある時、Oは思いを寄せる女性を待ち伏せして、手紙を渡そうと試みたのですが、直前でビビッてしまって実行できなかったとのことでした。
そこで、次回は私についてきて欲しいと頼んできたのです。
私は承諾して、Oと二人で待ち伏せ場所に隠れました。
私はOに言いました。” 今日、手紙を渡せなかったら、お前は卑怯者だ。 ”
実は、このセリフは私のオリジナルではありません。
ガキの頃読んだ児童文学全集の中にあった、同じような状況でのセリフを拝借したのです。
確かではありませんが、その小説はケストナーの ” 飛ぶ教室 ” だったと思います。
卑怯者と呼ばれるのを最も忌み嫌う年頃ですので、背中を押してやるのには最適なセリフです。
それが功を奏したのか、Oは手紙を渡すことに成功したのです。
その後、我々のコイバナがエスカレートしたことは言うまでもありません。

久し振りにSと連絡を取り合って、8月5日に私が博多に赴き、Rを交えた3人で飲むことにしました。
3人でOの通夜を執り行います。

百道中学校42年卒同窓会

2016年11月14日 | 同窓会
12日の土曜日、12時から天神のホテル西鉄ソラリアで開催されました。
私も診療を11時で切り上げて参加しました。



(私は遅刻のせいで、この集合写真には参加できませんでした。)

65歳にも関わらず、みんな元気で、ジジイ特有の落ち着いた雰囲気も無く、大いに盛り上がりました。
まあ、元気だからこそ出席して来るのかもしれませんが.....
歳はとっても、皆、どこかに昔の雰囲気を宿しているので、ちゃんと見分けがつきました。
面白いことに、静かで寡黙だった少年が、社交的で雄弁に変身しているケースが多々見られました。
長い年月がパーソナリティーに修飾を施すということでしょうか。
そういえば、私も昔は内気でシャイな文学少年だったような気がしますが.....

二次会でカラオケスナックに行き、6時まで飲んだのですが完全に出来上がってしまいました。
帰りの新幹線は予約してあって、そのキップはゲットできたのですが、
残念ながら乗り込んだ列車は、”さくら” ではなくて、各駅停車のつばめ号でした。
たっぷりと時間をかけながら熊本まで帰ったのですが、不思議と眠くはなりませんでした。
同窓会での久し振りの再会に興奮していたのかもしれません。

戻ってからもジョニ黒を飲んだのですが、さすがに酔いつぶれて11時に就寝となりました。
充実した一日でした。

Can you ?  Sure you can! ( 館友? 修猷館! )

2016年05月29日 | 同窓会
修猷館同窓会総会が5月28日に博多のホテル日航で開催されました。





博多一のキャパを誇るホテル日航ですが、例年の如く混雑してしまいました。

さて、この総会を取り仕切るのは、卒業後30年を迎える幹事学年の後輩たちです。

今年の幹事長はこの後輩です。



この日は彼の父君も出席されていました。



奥田という名札をつけておられます。

そう、あの柔道の奥田先生なのです。
お年は召されましたが堂々とした体格は昔のままです。

さて冒頭の館歌斉唱の前には、昭和17年卒業の名物大先輩が巻頭言を切るのが恒例です。
ところが、今年は、その名物先輩が、ほんのちょっぴり後輩らしき90代の先輩に、自分に先駆けて巻頭言を切るように命じました。
指名された先輩は壇上に登ろうとしたのですが、足がふらついてかないませんでした。
彼は自分の指定席まで引き返しました。
誰もが、だめだったかと不憫に思いました。
ところが彼が引き返したのは杖を持ってくるためだったのです。
杖を手にした先輩はみごと壇上に立つことができました。

そこで名物先輩が歩み寄り、マイクを渡そうとしたのですが、彼は大きく手を振って拒否しました。
みんなは、せっかく登ったのにどうしたのだろうとがっかりしました。
しかし直後に予想外の展開が待っていました。
なんと、彼はマイク無しで朗々と巻頭言を切り始めたのです。
広い会場の隅々まで届く素晴らしい声量の持ち主だったのです。
これぞ大先輩の修猷魂です。

全員が感動して盛り上がり、直後の館歌斉唱は例年よりも熱がこもったものとなりました。


修猷館野球部圧勝

2015年06月15日 | 同窓会
6月13日の土曜日は、濟々黌野球部と修猷館の定期戦が、濟々黌のグラウンドで開催されました。
6回を終えた時点で修猷館は6対4とリードしていたもののなかなかの接戦でした。
しかし7回に2番手ピッチャーを打ちこんで2点を挙げ、さらに8回には3番手ピッチャーから決定的な追加点をもぎとり、そのまま9対4で圧勝したのです。
甲子園の常連校である濟々黌に、甲子園に出たこともない修猷が勝ったのです。
正直、勝利など期待していなかったので、おおいに盛り上がりました。

その夜は、野球応援の打ち上げと称して、" 酒蔵まつとも " でT君を交えた6人が楽しく乾杯をしました。
さらには新しい後輩が参加してきました。
KABの若手アナウンサーである松田朋子さんです。
会話での受け答えや相槌の打ち方、話題を展開させる力などに長けており、さすがにプロだなと感心しました。

さて、その場に後輩の井上君が面白い本を持ってきました。



マイナーな本で、出版が成り立つかどうか心配してしまいますが、修猷だからこそ可能になったのでしょう。
ちなみにパソコンでしゅうゆうかんは一発変換で修猷館と表記されます。
校歌ではなく館歌と呼び、すべてのOBにとって神聖な曲です。

近代 (このような形容詞が使えることに歴史を感じますよね ) の修猷館には修学旅行がありませんでした。
館生は卒業すれば、東京や関西に簡単に行けるようになるだろうという考えからだと言われていました。
その分運動会は毎年盛大に開催されました。
卒業OBの寄付と協力を頼んで大きなスタンドが設置され、毎年みごとなパネルが掲げられました。
赤、青、白、黄色の4つのブロックに分かれての対抗戦です。
各ブロックごとに夏休みから、応援歌を練習し、様々な競技の作戦を練ります。

私は水泳部上がりではありましたが、7月に2週間ほど自主トレに励み、陸上団へのセレクションにトライしました。
そしてみごとに合格したのです。
修猷の運動会では陸上団は特別待遇を受けます。
組み立て体操、騎馬戦、棒倒しなど様々なメニューから外されます。
つまり、走ることだけに専念すればよいのです。
私の自慢は、競技の最終プログラムであるブロック対抗リレーのメンバーに選ばれたことです。



写真は卒業アルバムからの転写ですが、ブロックリレーで、我が赤ブロックのスタンド前を疾走する私の勇姿?です。

百道中学校卒業生

2015年01月27日 | 同窓会
今朝、毎月一回、薬をもらいに来られる常連の患者さんが私に質問をしてきました。
" 先生は百道中学校卒業ではないですか? " と。
驚いて、そうですと答えると、" 私も百道中学校、修猷館卒業です。 " と言われました。
どうして分かったのかを尋ねると、私のブログを読まれたそうなのです。
私の7学年後輩でした。
砂浜に作られた運動場や百道浜の話題で盛り上がりました。

私は熊本市の白山小学校を卒業し、熊本市立出水中学校に入学しました。
当時の出水中学校はマンモス校で私たちの学年は16組までありました。
上の学年にいたっては20数組までありましたので、学校内の運動場では運動会ができません。
水前寺の陸上競技場を貸し切って開催されていました。
進学校としても名高く、頻繁に実力テストが繰り返され、上位50名の名前は廊下に張り出されていました。
私の成績はと言えばトップ10には入れないけど20位は出ないというものでしたが、
母数が800名を越えていますのでまずまずだったと思います。

そして冬休み明けの3学期から博多に引っ越して百道中学校に通い始めたのです。
引っ越し場所を決めた母親も私も、修猷館高校など聞いたこともなく、百道中学校が進学校であることも知りませんでした。
全くの偶然で、修猷館の校区内にある百道中学校に転校したのです。

知らないものですから、当初は、私語だらけのざわざわとした授業に驚き、
" とんでもなくレベルの低い、海辺の田舎中学校に来てしまった。 " と思いました。
そして初めての実力テストを受けました。
一学年は10組までしか無いし、このレベルならベスト10に入ったかもと思いました。
ところが、結果は51番だったのです。
ぶったまげました。

その後、次第に分かってきたのですが、当時の福岡市には学区制があって、修猷館校区、福岡高校区、筑紫丘校区の3つに分けられていました。
しかし、自分の子供をなんとしても修猷館に入学させたい親達は、こぞって百道中学校に越境入学をさせるという手段を実行していたのです。
私の同級生にも、香椎や二日市から一時間以上もかけて通学して来る者がおりました。
私も英語の塾に通うなどして20番以内に復活し、卒業間際にはベスト10に入っていました。

私の時代の百道中学校の授業は体罰授業でした。
現在では考えられないでしょうが、冗談みたいに体罰が繰り返されていました。
例えば、教師が教科書を読み聞かせるのですが、途中でいきなり読みやめて、" 長谷川、続きを読め! " とくるのです。
私が、" 酸化したときに.... " と続けると、" 俺は酸までは読んでいた。化から読むのが正解だ。前に出てこい。 " となって竹のムチで打たれるのです。
そう言えば、" 富士山 " という体罰もありました。
教壇でみんなの方を向いて正座させられます。
教師は後ろに立って、" 富士山を見せてやる! "と宣言します。
そして私の両側のモミアゲを指でつまんで上に引っ張るのです。
痛さのせいで立ち上がっていくのですが、教師は、" 富士山は見えたか? " と質問し続けます。
オチには2通りあって、途中で、" 見えました " と言うと、" 嘘つくな! " と怒鳴られて頭にげんこつです。
へっぴり腰になるくらいまで我慢したならば、" よしっ、帰れ! " と尻に膝蹴りが来ます。
現代ならばテレビニュースになるかも知れませんよね。

さて、百道中学校の私の学年は歴史的な最優秀学年でした。
修猷館を96名が受験して93名が合格したのです。
付属中学校が常にナンバーワンだったのですが、初めて私たちが彼らを上回ったのです。
後にも先にも私たちの学年だけが達成した記録です。

M2

2014年11月18日 | 同窓会
今朝アメリカから絵ハガキが届きました。
差出人は修猷館の同級生Mでした。
Mについては昔話のジャンルで2013年5月19日にアップしています。
彼は私のブログを見つけて私の住所をゲットしたそうなのです。
実に40年ぶりに連絡が取れました。

Mは吹田市立豊津第一小学校の校長を経て、
現在はニュージャージー補習授業校の校長をしているそうです。
日本人の生徒たちに英語の補習授業をする学校のようです。

嬉しかったですねー!
かつてMでグーグル検索しましたが全くヒットしませんでした。
型破りな奴でしたから、なんとなく生きてはいないような気がしていたのです。

彼が日本のどこに帰国するのか知りませんが、どこであろうと飲みにいくつもりです。
私の人生をジグゾーパズルに例えるならば、何としてでもはめ込んでおかねばならない重要なピースなのです。

平成26年度修猷館同窓会総会

2014年05月31日 | 同窓会




昨夜は上記が博多のホテル・ニュー大谷で開催されました。
金曜日の6時開催でしたので、診療を早めに切り上げて、新幹線で駆けつけました。
1600名が参加したとのことでした。(タクシーの運転手さんの話では。)
卒業年度ごとに机が与えられるのですが、昭和39年以降の学年は、丸テーブルが一つだけで、椅子はありません。
つまり、70歳未満のOBは立ちっぱなしで2時間半の宴会を乗り切らねばならないのです。
私には来賓としての席が用意されていました。

3年連続の出席ですので、九州沖縄各県の会長の顔も少しは把握していて、とりわけ長崎代表とは懇意になってきました。
例によって濃い目の水割りとストレートのウィスキーを注文して、ピッチを上げていきました。
45年卒業のテーブルに顔を出して、特に親しかった親友の消息もゲットできました。
二次会に誘われたのですが、日帰りの切符も買ってあったので断りました。来年は参加するつもりです。

水割りのウィスキー缶を手にして帰りの新幹線に乗り込みました。
つばめを利用したので、熊本まで40分以上かかります。
チビチビと水割りを飲みながら、ほろ酔いの頭で色んなことを考えました。
思えば、普段、私が一人で黙って飲むのは殆ど無いパターンでした。
外飲みに一人で行くこともありますが、必ず、ママやスタッフに冗談を言いながらの飲み方です。
家で一人飲む時もテレビを見ながらです。
これはヤバイ事態だなと思えてきました。
つまり、日常生活に一人思索する時間が少なすぎるのです。

犬を飼っている頃は、毎日の散歩中に考え事をする時間がたっぷりとありました。
しかし、もう2年間、ほとんど公園に行っていません。

酔った頭で考えた改善策は、
見知らぬバーにフラリと入って、カウンターの片隅で一人静かに飲むというものでした。
背中に初老期の哀愁が漂えば最高だと思うのですが......

修猷館高校・熊本県人会・平成の卒業生を集めて

2014年04月18日 | 同窓会
昨夜は、"居酒屋二貝"にて上記が開催されました。
7時半からだったのですが、することも無いし、喉も乾いたので、6時半に着いて一人で飲み始めました。
反則ですが、私が会長を務めるユルユルの集まりですので、個人的に可と判断しました。
十数名が、自己紹介の後、和気藹々と飲み方を繰り広げたのですが、T君は私が差し入れた日本酒を中心に飲んでいました。
私は最初から最後までジョニ黒を飲んだのですが、早くから飲み始めたせいか、10時半に店を出る時には、足取りがおかしかったそうです。

朝、目覚めると、シーツが血だらけでした。
左ひじを負傷して出血していたのです。
しかし、全く記憶にありません。
左ひざも痛いので、転倒したということなのでしょうか。
一生懸命に記憶をたどりましたが、結局思い出せませんでした。

その後、ポケットからスナック、"KONS"の領収書が出てきました。
行った記憶はまるでありません。

しかしT君と、どこかで腕相撲をした記憶がありましたので、KONSでだったのかもしれません。

今夜も明日も飲み会です。
明後日の日曜日はゴルフですが、その夜は、おそらく焼き鳥屋に繰り出すことになりそうです。
そして月曜日も木曜会の飲み方が入っています。
おとといの水曜日から6日間の連チャンとなります。

とにかく、自分で濃い水割りを作ることを禁止してみようと思いますが、さて、どうなることやら.....

第22回熊本修猷会総会

2013年11月17日 | 同窓会


昨夜は上記が、”銀杏釜飯”で開催されました。
昨年と同じく、奥山修猷館々長と川村同窓会常任幹事長にも御出席いただき、和気藹々と進行しました。
例年通り、担当学年が数名博多から参加して来られました。



来年、5月30日に博多で開催される修猷館同窓会総会のチケットとグッズを捌くためです。



私が毎年感心するのは、担当学年の責任者の人選が素晴らしいということです。
毎年確実に、人当たりが良くて、ユーモアもあり、やり手でもある人物が選ばれて来るのです。
このことに、修猷の良さを確認することができると思いますし、誇らしくも思えます。

来年5月30日は金曜日で平日なのですが、クリニックをさぼって出席することになりそうです。

修猷館対済々黌の野球定期対抗戦

2013年06月10日 | 同窓会




6月8日の土曜日に済々黌のグラウンドで開催されました。
二十数年前に始まった定期戦ですが、毎年、この時期に、互いのホームグラウンドを一年ごとに訪れるという形式で開催されます。
三塁側の応援席には博多から駆けつけた修猷生の父兄30名ほどが、お揃いのTシャツを身にまとい声援を送ります。
そのTシャツには修猷館のロゴと、修猷館の徽章である六光星がプリントされています。
私達が現役の頃には、父兄の応援など殆どありませんでしたので、私には異常な光景のようにも見えますが、最近では当たり前
なのだそうです。
私と、前会長の今村潔先輩は、熊本修猷会の法被を着用して応援しました。
卒業年度と名前もプリントされている代物ですが、父兄に珍しがられて、写真撮影のポーズをとらされる羽目になりました。
その修猷館の野球部OB会の会長は、なんと、一年後輩の眞鍋治彦君でした。
熊大医学部出身ですので、学生時代からよく知っている男です。
現在は北九州市立医療センターで副院長をしているそうですが、麻酔科を専門とし、熊本にも講演などで時々来るようですので、
一緒に飲みに行くチャンスを狙ってみるつもりです。

さて試合の方ですが、済々黌の先発は昨夏と今春の甲子園でおなじみのエース大竹君でした。
初回の修猷館の攻撃は3者3振だったのですが、内容が悪く、3人とも大竹君の球をバットにかすらせることもできませんでした。
6回まで終わって、フォアボール1個にデッドボール1個だけのノーヒットに押さえられました。
しかし修猷館のエースもピンチはあったものの6回まで0点に抑えましたので、なんとか接戦という形には持ち込むことができました。
そして7回に修猷館待望の初ヒットが生まれました。
それまでは、三振かボテボテのゴロかポップフライの山で、まともな当たりは皆無でしたので、ノーヒットノーランを心配していたのです。
しかし結果的には、このヒットがこの日の唯一のヒットであり、唯一の、まともな当たりでした。
済々黌は7回に連打で2点を入れて試合を決しました。
2対0という結果以上に、実力差を感じさせられる試合でした。

”ノーヒットノーランでなくて良かった。”というのが本音です。

修猷館同窓会総会

2013年05月27日 | 同窓会
25年度の総会が5月25日の土曜日に、博多のホテル日航で開催されました。









去年で慣れてはいたものの、1300人近くがワンルームに集まると、やはり壮観です。

今年は趣向として、合唱部OBが壇上に勢揃いして、チョッピリマイナーな応援歌を歌いました。
その時に音頭をとられたのは90がらみの大先輩だったのですが、その凛として迫力のある声量には感動させられました。

今回もT君と一緒に来て、一緒に帰ったのですが、計画的にではなく、偶然でした。
私は、総会が7時からだと思い、4時頃の新幹線に乗れば楽勝だろうと考え、バスに乗り込みました。
私が乗るバス停は本数も豊富で、すべて熊本駅に行きます。
一方、T君が乗るバス停は本数が少ないので、待ち時間を嫌うならば、一駅歩く必要に迫られます。
ざっと、最初に来たバスに乗り込んだ私ですが、なんと、そのバスにT君が乗っているではありませんか。
彼は、前もって新幹線の往復切符(びっくりつばめ)の指定席を購入しており、どのバスに乗れば間に合うのかも把握し、一駅走って、
やっとそのバスに間に合ったのだそうです。そして総会は7時ではなく6時からでした。
T君は酒や糖質制限はユルユルなのに、こうした旅行の計画や時間には、何故か几帳面なのです。
私のアバウトすぎる点を、さんざん指摘されてしまいました。

そういえば、昨年ですが、私は東京からの帰りの便に乗り損なった経験があります。
羽田に着いた時には、私が予約した便は、とっくに飛び立っていました。
私が、出発時刻の14時半を4時半と勘違いしていたのです。
数時間の待機と数万円の追加料金を余儀なくされました。

さて、新幹線に乗り込む時に、T君は500mlの糖質ゼロビールを、私は250mlのお茶を買い込みました。
T君はつまみも用意していましたが、チョコビスケット系とカカオ75%のチョコレートでした。
ビールだけを糖質ゼロにする意味があるのでしょうか?
さらに、最初の停車駅である玉名に着く前に、500mlの糖質ゼロビールは空になっていました。
彼の辞書にはペース配分という単語が欠落しています。
一方、私は博多駅に着いた時点で、一口分のお茶を残していました。

総会が終了した後は、T君の同級生の紹介で、住吉のスナックへ行きました。
きれいなママが一人でやっている感じがよい店でした。
T君はブレンドウィスキーをロックで、私はアイラ島のシングルモルトを生で飲みました。
かなり酩酊してきてヤバイなと思った私は、T君に、”タイムキーパーをまかせるから、汽車に乗り遅れないように頼むぞ。”と言いました。
T君は、例によって、”大丈夫です。まかせて下さい。”と言い切りました。
しかし結果的には、私達が、予約した列車に乗り込めたのは、出発の1分前で、滑り込みセーフでした。
途中で、タクシーをすぐに拾えたし、そのタクシーがUターンしてくれたし、缶ビール選びもすぐに新製品に決定できたし、
つまみもゴチャゴチャとは買いませんでした。
そのうちの一つでも狂っていたならば乗り遅れていたはずです。
すぐに動き出した列車の中で、この奇跡的な滑り込みセーフを祝って、私達が乾杯したことは言うまでもありません。



熊本修猷会

2012年11月26日 | 同窓会


11月24日の土曜日にアークホテルで開催されました。
最初の議案で、私の会長就任が正式に認められました。
その結果、記念撮影では最前列の真ん中に座らされてしまいました。
ちなみに、最後列の向かって右端がT君です。
向かって、私の右に座っておられるのが、現在の修猷館長であられる奥山訓近先生です。
学年では私の3年後輩にあたるので、妹の学年なのですが、残念ながら修猷館では無く、城南高校卒業だそうです。
いつのまにか妹の世代が校長に就任するような年齢に達していたのですね。
自分がジジイになってきたことに、随分と慣れてきたつもりではあるのですが、いまだにギャップを感じてしまいます。
振り返れば、30代にフィットできたのは35歳くらいからでしたので、私の場合、65歳でジジイが完成されるのかも知れません。

二次会は十数名をスナック、”安楽”に誘導して楽しく騒ぎました。
今回は嬉しいことに、久々に熊本大学の学生が3名出席してきました。
二十歳になったばかりだそうですが、やはり若者と飲むのは、ジジイにとって、とても楽しいことなのですね。
私も若い頃は先輩達を接待していましたので、今度は接待される側になったのかも知れません。
無邪気ですが、なかなか礼儀正しい学生達でした。

”安楽”を安い料金で飲み放題にしていただいたので、迷惑をかけないように2時間で切り上げました。
おかげで、私も泥酔の一歩手前で踏みとどまることができたようです? (と思います.....)


熊本修猷会

2012年09月15日 | 同窓会
昨夜は毎年11月に開かれる熊本修猷館同窓会の打ち合わせを、焼き鳥や”たば鳥”で催しました。
とは言っても、私と、私の18年後輩のT君と、6年後輩の井上君の3人だけでの単なる飲み会でしたが...
熊本修猷会が本格的に毎年開催されるようになったのは、私が36,7歳の頃ですので、25年くらい前のことでしょうか。
私は第一回から、殆ど毎年参加しています。当時、私は2番目に若い会員でした。
その私が四半世紀を過ぎて、会長職を務めるような年齢になったことには、一抹の淋しさを感じます。
過ごしてきた過去よりも、これからの未来の方が少ない年齢に達したことを思い知らされるからです。
20年前の私にとっては、還暦を過ぎた先輩達は皆すべて”ジイサン”の範疇にはいるものでした。
その私が、今や、”ジイサン”の仲間入りをしたのですが、不思議なことに、精神は年を取らないのです。
肉体だけが年老いていくような感覚です。

今朝、私は、左前腕の尺骨側に擦過症と皮下出血を認めました。
原因は不明ですが、おそらくは加齢によるものでしょう...
10年前までは一度も無かったことですから...

修猷館同窓会総会

2012年05月28日 | 同窓会
私の母校である福岡県立修猷館は1885年に設立されました。
もともとは江戸時代の藩校である”修猷館”(1783-1871)が明治維新の廃藩置県で消滅していたものを、新たに復活させたのです。
名前の由来は古代中国の尚書の”践修厥猷”(センシュウケツユウ)からとられたもので、”その(湯王の)道を踏み修む”という意味です。
日本で2番目に古い高等学校だそうで、有名人を多数輩出しています。
政治家では、昔は廣田弘毅や緒方竹虎、最近では昨年亡くなられた楢崎弥之助や、影が薄くなった山崎拓がいます。
オリンピックの金メダルはベルリンオリンピックの200m平泳ぎで葉室鐵夫がとられました。
芥川賞は宇野鴻一郎が、直木賞は梅崎春夫が受賞しています。
社長も多く、最近では、安川電機、東京海上火災、出光石油、読売テレビ、朝日放送、小田急、武田薬品、西日本新聞、西部ガスなどを占めています。

総会に参加したのは初めてだったのですが、ものすごいことになっているんですね。
何がかといえば、人数が多すぎて大多数の参加者には椅子が与えられないのです。
来賓を除けば、68歳以下の若輩?には卒業年度ごとに、たった1個の立食テーブルが用意されるだけでした。
私は熊本修猷会の会長代理でしたので来賓扱いとなり、ひな壇のすぐ前の一等席?でした。
その席から撮った写真を紹介します。

まず前方は



入り口付近は


後方は


まさに人、人、人としか言いようがありません。

この人数で館歌(校歌)を合唱するのですから迫力満点です。

来年も出席する可能性が高いので、近県の会長と名刺交換を済ませて、T君と博多名物の天婦羅屋台に繰り出しました。