昨夜博多の友人から連絡がありました。
6月18日に中学高校の同級生だったOが亡くなったそうです。
5年前から食道癌との戦いを強いられていたようです。
彼は精神科医として天神でビルクリニックを開業していました。
百道中学校3年生の時のクラスメイトだったのですが、そのクラスには後に眼科医となったRと、歯科クリニックを開業したSもいました。
私を含む、この四人で仲良しグループを形成していたのですが、リーダー格はOでした。
強面でゴリラのような体格でしたので、グループがトラブルに巻き込まれることは皆無でした。
4人とも修猷館に進学したのですが、そこでも時々集まっていました。
私たちが高校三年生だった夏休みにRの家に3人で泊まりに行きました。
そして、その夜は、みんなしてラーメン屋でテレビを観たのですが、画面にはアポロ11号による月面着陸の瞬間が映し出されていました。
その記憶は、青春の一シーンとして時折思い出されることになりました。
高校では4人とも水泳部に入りました。
一時期ではありますが、私と緒方は部活を終えて、一旦家に帰り、食事を摂った後に、修猷のプールに忍び込み、真っ暗なプールで400m泳ぐという特訓を続けたこともありました。
一方で、私とOは余りにもハードな練習に耐えかねて、逃げだしたこともありました。
逃げてはみたものの、翌日にはガられる(博多弁で怒られるの意)のを覚悟で練習に参加したのですが、意外にもお咎めなしでした。
喜んで、いつもよりも気合いを入れて練習し、整理運動を終え、シャワーを浴びていると、キャプテンが声をかけてきました。
”長谷川とOは昨日の分の5000を今から泳いでこい!”
疲れた体に鞭打って泳ぎ始めたのですが、次第に意識が朦朧としてきました。
考え事をしながら泳ぐのですが、それが考え事なのか夢なのか判然としなくなっていったのです。
ターンするときだけは先輩達の ” とばせっ! ” という怒声で目を覚ますのですが、再び、泳ぎながら夢を見始めます。
しかし、その時思わぬ僥倖に恵まれました。なんと、定時制の連中が体育の授業としてプールに入ってきたのです。
結局2200mで中止となりました。プールから引きずり上げられてOと目を合わせたのですが、お互いに喜びを隠せないような表情だったことでしょう。
昨夜はテレビも消して、一人で静かにOとのことを思い出しながら延々と飲みました。
当時の百道中学校の運動場は、その一端が海水浴場みたいなロケーションでした。
昼休みにはOと二人で、砂浜に座って毎日のように語り合いました。
最近で言うコイバナでしょうか。
お互いが思いを寄せる女性のことを延々と語るのです。
ある時、Oは思いを寄せる女性を待ち伏せして、手紙を渡そうと試みたのですが、直前でビビッてしまって実行できなかったとのことでした。
そこで、次回は私についてきて欲しいと頼んできたのです。
私は承諾して、Oと二人で待ち伏せ場所に隠れました。
私はOに言いました。” 今日、手紙を渡せなかったら、お前は卑怯者だ。 ”
実は、このセリフは私のオリジナルではありません。
ガキの頃読んだ児童文学全集の中にあった、同じような状況でのセリフを拝借したのです。
確かではありませんが、その小説はケストナーの ” 飛ぶ教室 ” だったと思います。
卑怯者と呼ばれるのを最も忌み嫌う年頃ですので、背中を押してやるのには最適なセリフです。
それが功を奏したのか、Oは手紙を渡すことに成功したのです。
その後、我々のコイバナがエスカレートしたことは言うまでもありません。
久し振りにSと連絡を取り合って、8月5日に私が博多に赴き、Rを交えた3人で飲むことにしました。
3人でOの通夜を執り行います。
6月18日に中学高校の同級生だったOが亡くなったそうです。
5年前から食道癌との戦いを強いられていたようです。
彼は精神科医として天神でビルクリニックを開業していました。
百道中学校3年生の時のクラスメイトだったのですが、そのクラスには後に眼科医となったRと、歯科クリニックを開業したSもいました。
私を含む、この四人で仲良しグループを形成していたのですが、リーダー格はOでした。
強面でゴリラのような体格でしたので、グループがトラブルに巻き込まれることは皆無でした。
4人とも修猷館に進学したのですが、そこでも時々集まっていました。
私たちが高校三年生だった夏休みにRの家に3人で泊まりに行きました。
そして、その夜は、みんなしてラーメン屋でテレビを観たのですが、画面にはアポロ11号による月面着陸の瞬間が映し出されていました。
その記憶は、青春の一シーンとして時折思い出されることになりました。
高校では4人とも水泳部に入りました。
一時期ではありますが、私と緒方は部活を終えて、一旦家に帰り、食事を摂った後に、修猷のプールに忍び込み、真っ暗なプールで400m泳ぐという特訓を続けたこともありました。
一方で、私とOは余りにもハードな練習に耐えかねて、逃げだしたこともありました。
逃げてはみたものの、翌日にはガられる(博多弁で怒られるの意)のを覚悟で練習に参加したのですが、意外にもお咎めなしでした。
喜んで、いつもよりも気合いを入れて練習し、整理運動を終え、シャワーを浴びていると、キャプテンが声をかけてきました。
”長谷川とOは昨日の分の5000を今から泳いでこい!”
疲れた体に鞭打って泳ぎ始めたのですが、次第に意識が朦朧としてきました。
考え事をしながら泳ぐのですが、それが考え事なのか夢なのか判然としなくなっていったのです。
ターンするときだけは先輩達の ” とばせっ! ” という怒声で目を覚ますのですが、再び、泳ぎながら夢を見始めます。
しかし、その時思わぬ僥倖に恵まれました。なんと、定時制の連中が体育の授業としてプールに入ってきたのです。
結局2200mで中止となりました。プールから引きずり上げられてOと目を合わせたのですが、お互いに喜びを隠せないような表情だったことでしょう。
昨夜はテレビも消して、一人で静かにOとのことを思い出しながら延々と飲みました。
当時の百道中学校の運動場は、その一端が海水浴場みたいなロケーションでした。
昼休みにはOと二人で、砂浜に座って毎日のように語り合いました。
最近で言うコイバナでしょうか。
お互いが思いを寄せる女性のことを延々と語るのです。
ある時、Oは思いを寄せる女性を待ち伏せして、手紙を渡そうと試みたのですが、直前でビビッてしまって実行できなかったとのことでした。
そこで、次回は私についてきて欲しいと頼んできたのです。
私は承諾して、Oと二人で待ち伏せ場所に隠れました。
私はOに言いました。” 今日、手紙を渡せなかったら、お前は卑怯者だ。 ”
実は、このセリフは私のオリジナルではありません。
ガキの頃読んだ児童文学全集の中にあった、同じような状況でのセリフを拝借したのです。
確かではありませんが、その小説はケストナーの ” 飛ぶ教室 ” だったと思います。
卑怯者と呼ばれるのを最も忌み嫌う年頃ですので、背中を押してやるのには最適なセリフです。
それが功を奏したのか、Oは手紙を渡すことに成功したのです。
その後、我々のコイバナがエスカレートしたことは言うまでもありません。
久し振りにSと連絡を取り合って、8月5日に私が博多に赴き、Rを交えた3人で飲むことにしました。
3人でOの通夜を執り行います。