はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

6パット

2013年04月30日 | ゴルフ
28日は由真の練習ラウンドを兼ねて、T君と3人で不知火カントリークラブに行きました。
T君もまだ不調からカムバックできていないのですが、私がどん底で私の大負けとなりました。

その後、反省会と称して、焼き肉の、”大盤振舞”でT君と飲んだくれました。
”大盤振舞”は由真の父親が昨年の暮れにオープンした店ですが、私のワガママが通ります。
ただし、ワガママは通しますが、勘定は十分以上に支払います。
その夜は、私の手作りのジンギスカンのタレを持ち込み、ラム肉も持ち込み、ジョニ黒と黒霧島まで持ち込んでガンガン飲みました。
そして由真との3人で1.5Kg近いラム肉を完食してしまいました。
牛肉と違って、ラム肉は、”ウッ”とこないので、いくらでも入るのです。
さらに、ラム肉を完食した後もさらに牛肉に走りました。
ある程度酔っぱらったタイミングで、明日もゴルフにしようかという話が持ち上がりました。
私は、連チャンはT君の奥さんの機嫌を損ねるのではと反対したのですが、T君は、”大丈夫です。”と言います。
T君は酔っぱらうと、”大丈夫です。”を連発する癖があります。

で、翌朝グランヴィリオに電話を入れたところ11時半スタートがとれました。
二人とも二日酔いも無く、元気にプレーできました。

プレー内容ですが、私の劣勢の中、8番のミドルホールに来ました。
このホールは左上が高く、右下が低い2段グリーンで、ナイアガラの滝のような高低差が1メートル以上も作ってあります。
その日はグリーンの真ん中にカップが切られていました。つまり上の段に上がってすぐの地点です。
私の2打目はピンの左手前の上の段にナイスオンでした。
T君の2打目はグリーン右奥のカラーでした。
T君のパターでの寄せは絶望的に難しく、とりあえずは上の段をキープするしかありません。
ところが、その寄せが急激にフックして球は下の段に転落してしまいました。
それを見た私もおそるおそるパットしたのですが、想像以上にスライスして球はT君と同じく下の段に転げ落ちました。
そこからの二人のパットは難し過ぎます。段差を上りきったすぐのカップですので寄るはずもありません。
なぜならばショートした場合は元の地点まで戻ってくるのが確実だからです。
オーバー目に打って、とりあえずは上の段に上げておくしかありません。
T君のパットは5m近くオーバーし私のパットも4mほどオーバーしました。
次のパットも大変です。チョットでもオーバーすれば、また下の段に逆戻りです。
T君が慎重に打ったパットは絶妙でトロトロとカップに近づきコロンと入ってしまいました。
そのスーパーパットを見せられた瞬間に、私はその日の負けを覚悟しました。
で、私のパットですが、ビビッて1mもショートしましたが仕方ありません。
そこから触るだけのパットを打ったのですが、なんとカップに触ることも無く球は再び下の段に転がり落ちるではありませんか!
頭が真っ白になってしまいました。
真っ白な頭のままに5回目のパットを打ったのですが、2回目のパットの感触が残っていたせいか、カップの左5cmに球は奇跡的に止まりました。
しかし結果は人生初の6パットでした。

このコースには何十回も来ていますが、このピンポジションは初めてでした。
おそらくはゴールデンウィークで予約も少なかったので、コース側の大サービスだったのかも知れません。
まあ、しっかりとサービスを享受できたぞと書いておきます。









スタッフ増員

2013年04月26日 | 仕事


4月から受け付けのR子が、みごと、看護学校に入学することができました。
二人の子供を育てながらの、30歳からのチャレンジです。
しかし今後は授業の影響でハーフタイムの勤務でさえ不可能ですので、正職員から時給のパートへとシフトさせざるを得ませんでした。
そして、もう一人の受付であるパートのU子も体調的にフルタイムの勤務は無理なので、新たな受け付けとしてN子が加わりました。
N子はかつて、中学校で英語を教えていたそうです。
一応はA大学の英文科卒業である妹が来院した際には、英語で話しかけるようにと命ずるつもりです。

また以前より募集していた看護婦も、やっとM子をゲットすることができました。
熊本市の看護婦不足は深刻で、私のクリニックだけでは無く、近所の医療機関は、どこも常に看護婦を募集し続けている状態です。
M子は市内のKクリニックに10年間勤務し続けていましたが、忙しすぎて体力的に持たないとの理由で当院に応募して来ました。
どこかで、当院が暇だという正確な情報?を耳にしたのかも知れません。

一年半以上もの間、婦長とK子だけという看護婦二人体制で切り盛りしてきましたが、無理は明らかでした。
特に職場検診が入ったときにはドタバタするのが常でした。
これで、少しは二人の負担が減るならば、私も、さらに余裕をかますことができるかも知れません。

集合写真をアップしたのはU子のリクエストによるものです。
彼女も昨年糖質制限を実行して10Kgの減量に成功したのです。
U子からは、過去の忌まわしい?写真の削除も求められましたが、却下しました。
興味がある方は一昨年10月21日の第一回目のブログである、”初めてのブログ”の写真を参照して下さい。

SSRI

2013年04月23日 | 医学
華原朋美が最近新曲をリリースして芸能界に復帰したそうです。
小室哲哉にふられてガス中毒を起こしたのが1999年の1月でした。
5月にプロダクションを移籍して復帰しますが、マンションのロビーで倒れ(報道では貧血が原因?)再入院となります。
6月に復帰のコメント映像が流されました。
御殿場の乗馬クラブから流されたその映像を私は今でもはっきりと覚えていますが、完全に、”行ってる顔”でした。
私は精神安定剤や抗うつ剤などの中毒患者に共通して見られる独特な顔貌を、”本人の本来の精神がどこか遠くに行ってしまった”という意味で、そう呼びます。
当時の華原朋美がどんな薬を処方されていたのかは分かりませんが、1999年の5月こそ、日本でSSRI の処方がスタートした時期でした。
SSRI とは Selective Serotonin Reuptake Inhibitor の略称で、訳せば、選択的セロトニン再吸収阻害剤となります。
商品名としてはパキシル、デプロメール、ルボックス、ジェイゾロフトなどがあります。
セロトニンは脳内の大切な神経伝達物質で、毎日セロトニンを十分に分泌して生き生きとした人生を過ごしている人達の表情を、
”セロトニン顔”と呼ぶことも有ります。
SSRI は、せっかく分泌されたセロトニンがすぐに再吸収されて消えてしまうのを阻害してやれば、
結果的にセロトニンが増えたことになるはずだという理論から作られた薬です。
発売当初は、”曇り空が、サーッと晴れわたった青空に変わる。”ような薬効があるとの喧伝で、私も数例ですが処方経験があります。
ところが数年後に、様々な問題点が明るみに出てきました。
まず、少数ではありますが攻撃的になる患者が出現し始めました。
1999年にアメリカのコロンバイン高校の銃乱射事件の少年二人がSSRIを内服中であったことは当時報道されませんでした。
日本でも、レインボーブリッジの橋脚をくぐり抜けたいとの願望から旅客機をハイジャックして機長を刺殺した男がSSRIを常用していました。
他にも世界中で、SSRI 内服中の患者が攻撃的になって起こした事件が多々報告されるようになり、裁判も多発しました。

それならば、SSRI の内服を中止すればいいのではと思うでしょうが、そう簡単にはいかないのです。
SSRI の内服を中止した患者の自殺に走る確率が異常に高いからです。
さらに、SSRI の内服を続けると、薬効が次第に低下していき、5年くらいで全然効かなくなるということも分かってきました。
その時は、さらに強い SSRI にチェンジする必要に迫られます。
まさに、一旦落ちると、なかなか抜け出せない、蟻地獄のような薬です。

大学病院の廊下には各科ごとに大勢の薬品会社の担当者(MRと呼びます)がドクター達に自社の薬を宣伝すべく待機しています。
昔の話ですが、精神科の廊下だけはMRの姿も無く、ガランとしていました。
精神科の薬は、どれも薬価が低く、うまみが全く無かったからです。
ところが SSRI の登場で事態は急変しました。SSRI の薬価は高く、現在でもパキシルとジェイゾロフトは100円を超えています。
さらに各メーカーは協力し合って患者を増やすべくCMを流し始めました。
そうです、例の、”うつは早めにお医者さんへ。”というやつです。
SSRI は世界中で発売されましたが、アイスランドを筆頭に、世界中のうつ病患者は激増しました。
最近の統計ですが、SSRI の発売後6年で、その国のうつ病患者数は2倍になるのだそうです。
蟻地獄から抜け出すのは至難の技ですので、当然かも知れません。

これほど問題が多い薬ですが、マスコミからは、非難の声が全く上がりません。
理由は明白で、SSRI の製薬会社がスポンサーとして余りにもビッグ過ぎるので、敵に回せないからなのです。
ファイザー、グラクソ・スミスクライン、アステラス製薬、藤澤薬品、明治製菓ファルマ、アボットジャパンなどそうそうたる顔ぶれです。

例外として、一度だけ、スポンサーに縛られないNHKが SSRI の攻撃性を特集した番組がありました。
2009年6月1日のクローズアップ現代です。今でも SSRI でグーグル検索すると簡単に視聴できます。

私はまだ復帰した華原朋美を見ていませんが、彼女の顔が、”帰ってきた顔”になっていることを祈るばかりです。



反対語の夫婦

2013年04月22日 | 妹ネタ
私の妹の名前は裕子(ヒロコ)です。
以前に私はブログで、”つつましやかな性格”の反意語を教えて下さいとアップしましたが、先日箱根で飲んだ時に、
その問題を慎ちゃんが解き明かしておりましたので紹介します。

つつましやかとは、つつましいに基づいており、漢字で書くと、慎ましいとなります。
慎ましい生活の反対は、裕福な生活、余裕のある生活です。
すなわち裕子の裕なのです。

妹夫婦は、つつましやかな慎一と余裕の裕子という反対語を名前として持っているのです。

話は変わりますが、妹が生まれる前から、未だ新米の医師であったオヤジは、先輩の先生から、娘が生まれたらヒロコにするようにと命令されていたそうなのです。
オヤジはオフクロに、”ヒロコでいこう。”と提案しますが 、”そんなダサイ名前は嫌だ。”と一蹴されてしまったようです。
そこでオヤジは一計を案じて、”ユウコ”を提案します。
オフクロもユウコならば納得したようです。
そこでオヤジは裕子と書いて、ふりがなはヒロコにして出生届を出したのです。
そしてオフクロには、ユウコで出したと嘘をついたのです。
その嘘にオフクロが気づくには数年を要したそうです。
オヤジは妹を、”ヒロ来い、ヒロ来い”などと呼んでいたそうです。それを毎日聞いていたオフクロは、”ユウコなのに何でだろう?”と思っていたそうですが、
何でだろうで終わっていたそうです。結構、天然だったのかも知れません。

で、私は芳彦です。オヤジが芳巳で、じいちゃんが芳男、ひいじいちゃんが芳太郎で、その前が芳助ですので、オヤジは私にも芳の字を付けたかったそうなのです。
しかしオフクロは何故か、”渚”にこだわって譲らなかったそうです。
そこでオヤジは、”姓が長谷川だから、川で渚はオカシイだろう。”とオフクロを説得しました。
結局、当時としてはカッコ良カッタらしい、”彦”を付けることをオフクロが提案して一件落着となったそうです。

渚ですか。そういう映画監督もおられましたが、アブナイ、アブナイ。
そうなっていたらと思うとゾッとします。

ところで裕子という名前を、昔、妹は気に入ってはおりませんでした。
妹に言わせると、”裕子は主役の名前じゃ無い。脇役か意地悪な役の名前だ。”となります。
私も後半部分には賛成します。



水切りショット

2013年04月22日 | ゴルフ
昨日はT君と、”KON’S”のママである吏菜ちゃんとの3人で、城南GCをラウンドしてきました。
インからのスタートでしたが、最初の10番で、私はティーショットを右の林に打ち込み、一度で脱出できずにトリプルでした。
吏菜ちゃんもチョロ、チョロのスタートでダブルパーの8でしたが、これがその日の吏菜ちゃんのワーストスコアでした。
吏菜ちゃんは、続く11番のミドルでフェアウェイバンカーからガードバンカーへと渡り歩きました。
そこからのショットはピンまで30ヤードはあろうかという難易度の高いバンカーショットでしたが、やや低めの弾道で飛び出した球は
見事にグリーンに落ちて、バックスピンで止まりました。
さらに続く12番の160ヤードのショートホールでは何番かはわかりませんが、アイアンを使ってグリーンの僅か左にはずしました。
しかし距離的にはピンに届いていました。
私はこのホールで女性がアイアンを使用するのを初めて見ました。
スタートホールでT君はワンピンチョイに3オンし、みごとに1パットでパーでしたが、これがその日の彼の唯一のパーで、
11番のミドルで9を打つなど、その後は奈落の底へと突き落とされていきました。
とくに16番のショートホールでは、第一打がガードバンカーの手前で止まったのですが、第2打で、そのバンカーに入れてしまいました。
T君の口からは”どうせ入れるなら一発で入れとけよ...."という自虐的な発言も飛び出し、キャディーさんを笑わせたのですが、
そこから1発目は出ず、2発目はホームランでOB、結局ギブアップに近い8でのホールアウトとなりました。
私も12番、13番とたて続けにティーショットを池に打ち込み、続く14番の第2打はOBでした。
しかし、なんとかトリプルまでで踏ん張りましたので、この時点での吏菜ちゃんとの差はまだ3打でした。
15番からは距離のあるホールが続きます。吏菜ちゃんの乱れに乗じて17番で追いつくことができました。
ピンチは18番のロングで訪れました。
グリーンを狙った私のPWでのショットは僅かに届かず、ガードバンカーのあごに完全な目玉状態で突き刺さりました。
極端な左足上がりでピンまで10ヤードチョイです。
SWではヘッドが砂に潜れないと判断した私はAWを手にしました。
ピンの向こう側に立っているキャディーさんと吏菜ちゃんに、どんな球がでるかわからず危険だから、どいてくれるように頼んだのですが、
キャディーさんは迫力のある太鼓腹を叩きながら、”大丈夫、私が体で止めます。”と言うではありませんか。
面白いキャディーさんでした。
私のバンカーショットは奇跡的に大成功でパーパットこそはずしたものの、タップインしてのボギーで済みました。
結局午前中は吏菜ちゃんと私は同スコアでした。

午後は1番、2番ともにトリプルという最悪のスタートであった私に対して、吏菜ちゃんは2番こそダボでしたが、他は確実にボギーを重ねていきます。
私は3番のロングのパーで一打返したものの、4番でダボを打って帳消しにしてしまいます。
残り5ホールでの3打差が吏菜ちゃんの安定感から絶望的な差に思えてきました。
ところが5番ホールで思いがけないことが起こりました。
私の第2打はグリーン左奥にこぼれていましたが、パターで打てる状況でした。
その寄せのパットがそのままカップインしナイスバーディーです。
吏菜ちゃんはボギーでしたので、その差は1打となりました。
続く距離のあるミドルで吏菜ちゃんはチョロと3パットをやらかして、ついに3ホールを残して同点になりました。
そしてドラマは16番の140ヤード池越えショートで起こりました。
私のティーショットはシャンクしてこの日3度目の池ポチャでした。
吏菜ちゃんのショットもトップして、池に向かってまっしぐらでしたが、なんと水切りショットになって、水の無い砂地まで辿り着いたではありませんか!
これを見たT君は、”振り返ればあの二つのショットが明暗を分けたことになるかも。”と言います。
このホールで私はプレイング3からダボで上がり、吏菜ちゃんは見事なバンカーショットから、パーこそならなかったものの、OKボギーでした。
T君の言う通りで残る2ホールで追いつくことができず、勝負はそのまま私の1打負けとなりました。
先週の富士国際に続く1打差負けです。
私が勝負弱いのでしょうか?
それとも、私の周りにいる女性達に根性が有りすぎるのでしょうか?

泥仕合の末に

2013年04月16日 | ゴルフ
後半の私は10番でトリプル、11番のミドルでダブルスコアの8でした。
いつもなら、私の負けが確定してもおかしくないのですが、この日は妹もダボ、トリ、トリのスタートで1打のリードは変わりませんでした。
しかし13番のダボで追いつかれ、15番のトリで2打のリードを許してしまいました。
16番で1打返して、1打差のまま18番のロングに来ました。
私のティーショットは引っかけで、左のOB方向に飛び出しました。
絶望的な目で行方を見守りましたが、なんと木に当たった球はセーフゾーンにもどってきました。
とりあえず目の前の木を越えるためにPWでフルショットしましたが、残りは未だ250ヤードもあります。
しかし、そこからの5番ウッドがナイスショットでグリーン手前30ヤードまで進むことができました。
その時点では妹も3打を要してグリーンまで60ヤードの場所に来ましたので、寄せ勝負です。
まず、妹の寄せはナイスショットでピン手前3mに止まりました。
その瞬間に妹は勝利を確信してバンザイをするではありませんか!
私は全力を振り絞ってSWでピンの左上2mに寄せ返しました。
妹は2パットで先にホールアウトしました。
しかし、私が2mを沈めると引き分けです。
第一打が木に当たってセーフになり、第2打もPWでぎりぎり木を越えることができ、難しい5番ウッドのナイスショットが生まれ、妹の内側に寄せ返した流れからして、
そのパットが入る確率はかなり高いと思い、自信を持って下りのスライスラインを打ちました。
すると、なんということでしょう!!私の球はカップ左を、入りそうなそぶりも見せずに通り過ぎていくではありませんか!!
18番ホールの、これまでの流れは何だったのでしょうか。
この日のゴルフの女神は、私が最も忌み嫌うところの、”思わせぶりな女”であったに違い有りません。

その夜は箱根のリゾートホテル、”リカーブ”に4人でチェックインしました。
ゆっくりと温泉に浸かった後は、互いに350mlの缶ビールを購入して、T君と部屋にもどりました。
7時のバイキング開始時間まで30分以上あったからです。
ピーナツをつまみに、チビチビとやりながら時間がくるのを待ちました。
途中で洗面所に行ったのですが、帰ってくるとTくんが、”先輩、ビール未だ残ってますよ!”と言います。
そういえばT君はものの5分もかけずに、ビールを飲みあげて、ピーナツを食べ尽くし、違うナッツの袋を開けていました。
私は、”君にはペース配分というものが無いのか?”と一応、説教はしたのですが、T君の余りにも物欲しそうな表情に負けて、残ったビールを与えざるをえませんでした。
T君いわく、”アルコールは最初からガバガバ飲んだ方が、楽しい時間を長く味わえる。”のだそうです。

バイキングは糖質制限中の私達(私は厳密、慎ちゃんと妹はチョイユル、T君はユルユル)にとって最高の形式です。
90分の制限時間を有効に活用して楽しく飲むことができましたが、T君と妹は最後の方で、”追い込み”と称してさらに食べ物を詰め込んでいました。

その後は、そこから歩いて行ける慎ちゃんの別荘マンションに移動して、飲み続けました。



結局、その夜は4人でウィスキーを2本、焼酎の4合瓶を2本飲み上げました。他に生ビールや赤ワインも飲んでいます。
ベロベロに酩酊した足で、また4人でホテルまで歩かねばなりません。
結構しっかりしていた妹の話によれば、私達は3人で腕を組みながら修猷館の応援歌を歌い、ヨロヨロと歩いていたそうです。
もちろん、私達3人とも、歩いた時の記憶はありませんでした。

さらに、ホテルに帰り着くと、3人で、私とT君が非常用に1本ずつ持ち合っていたサントリー角のポケット瓶(180ml)
を飲み直したようなのです。
朝起きたら、1本半が空になっていました。

熊本空港に無事に着いて、自宅までTくんを送り届けたのですが、2泊3日がいろんな事がありすぎたせいか、ひどく長かったように思えて、
その反作用でしょうか、出発する前のことが、遠い昔の出来事のように、記憶のかなたに消えていました。

日本内科学会総会

2013年04月15日 | ゴルフ


出席を大義名分として、二泊三日の東京へのゴルフと飲み方の旅に行ってきました。
同犯者(?)はT君です。
12日の金曜日の夕方に東京で妹夫婦と合流した私達は、一路、御殿場のビジネスホテルを目指しました。
そこに宿を確保して、その近所にある、”さかなや”という居酒屋で一杯やるのが、富士国際GCでプレーする前夜の恒例行事なのです。
飲み始めたのは10時半に近かったのですが、2時間チョイでウィスキーを2本チョイ空けて、私達の祭りはスタートしました。



4人全員が修猷館の卒業生です。
そして翌朝はメインイベントである、ゴルフ決戦です。





残念ながら富士の頂上が姿を現したのは、ほんの短い時間だけでしたが、天気そのものは晴天で、絶好のゴルフ日和でした。
アウトからのスタートでしたが、私は1番でいきなりの池ポチャに空振りつきのトリプルスタートでした。
ところが妹もチョロや3パットでトリプルにつきあってくれました。
2番ホールでの妹の40ヤードくらいの寄せはスーパーショットでOKパーとなりました。
一方、私の30ヤードの寄せは5mくらいに乗せるのがやっとでした。
しかしこの5mのロングパットをねじこんで私もパーとし、一歩も引きません。
3番4番まで、すべて全くの同スコアで戦いは始まりました。
勝負が動いたのは5番の長いショートホールでした。
180ヤードをピン手前8mくらいにワンオンさせて2パットのパーだった私に対して、妹は左に引っかけたティーショットが災いしてトリプルとしてしまいました。
続く6番のロングでも私はパーオンしてパーをとり、その差を4打にしました。
しかし、7番をトリプル、8番をダボとした私に、妹は連続ボギーで食い下がり、結局アウトは49対50で私の1打リードで終わりました。
この富士国際GCのアウトは距離が短く、その分狭くて罠が待ち構えていますので、妹が有利な設定です。
そのアウトで勝てたのは望外の結果でしたので、気分良くステーキを食べて、ジョニ黒を飲むことができました。(続く)


思秋期

2013年04月06日 | 日記
そのタイトルは忘れましたが、映画の予告編で、”思秋期”という言葉が使われていました。
初めて目にした単語ですが、うまい表現だなと感心しました。

思春期を振り返れば、自分の人生の未来は光り輝いていて、たくさんの恋愛や成長や成功が待ち構えているように感じられていました。
それなのに、思春期はなんだか幸せになれない季節だったようにも思えます。
恋愛をしても何故か苦しく、自分も傷つくし、相手を傷つけることも多かったような記憶があります。
歌謡曲でも、”さわる物みな傷つけた”とか”胸にトゲ刺すことばかり”などどと唄われることが多いようです。
原因は、他人に対する期待や要求が大きすぎたことにあったのかも知れません。
歌謡曲で言う、”大人は分かってくれない”とか、”彼女の気持ちが信じられずに”などの表現です。
いまの私ならば、”君こそが大人を理解してやる立場にあるし、彼女に信じられるように努力する立場にいるんだよ。”と教えてやりたくなります。

で、現在私は思秋期にさしかかったのでしょうが、なんとも穏やかな季節です。
日々、体力や記憶力が低下していきますが、そのことにも慣れて、受け入れられるようになりました。
一年があっという間に過ぎていきますが、それをあたりまえだと思うようになり、もはや驚きは感じません。
仕事も楽ですし、スタッフ達も和気藹々と楽しそうに働いてくれています。
ゴルフも飲み方も行き放題ですが、唯一満足できないのはゴルフのスコアくらいでしょうか。
一年はあっという間に過ぎて行きますが、毎日はゆっくりと流れていきます。
その流れの中で、”有難う。”の気持ちを忘れずに、淡々と齢を重ねていこうと思います。

思春期の頃には想像もつきませんでしたが、思秋期の方が幸せを感じやすい季節のようです。

勤労感謝事件

2013年04月05日 | 昔話
まだ、みんなが医学生であった頃の話ですが、ある年の勤労感謝の日の翌朝にHから電話がかかってきました。
浄行寺のガソリンスタンドまで、すぐに来て欲しいと、切羽詰まったような口調でした。
何事かと車で駆けつけると、Hが女子大生と二人して待っているではありませんか。
Hは私の車に乗り込むなり、”薬学部まで急いで!”と言います。
薬学部で彼女を降ろした後、何事かとHに問いただしました。
Hの答えは、”彼女が遅刻しそうだったから。”というものでした。
私は、”なんだー、俺はタクシー代わりかっ!タクシー代も持たんのかっ!”と怒りましたが、Hは、
”マアマア、長谷川さん、ドライブでも行きましょうよ。”と言います。
”おまえと二人でドライブだとー!”と私は声を荒げました。
しかし、Hが免許取りたてだったのを思い出し、車の運転がしたいんだなと推測して、仕方なくRX-7を発進させました。
俵山を越えて阿蘇に上り、山脈ハイウェイまで行き、夕暮れに俵山にもどってきました。
Hは夕焼けの中、RX-7を運転しながらこう切り出しました、”長谷川さん、実は昨日、初めてしちゃったんだよね。”
その日の朝からの出来事が、パズルの正解が一瞬にして分かる時のように完璧に整理されました。
”お前は、それが言いたくて、俺を一日中連れ回したのか!”
”分かった。これを勤労感謝事件と名付けて、5年間は秘密を守ることを約束しよう。”と私は言い、それを実行しました。

Hにはその年の春に教育学部を卒業して郷里に帰って行った彼女がいました。
私も初心者水泳教室でのアルバイト中に、偶然二人を目撃したことがありました。
紺のスクール水着を着て、河合奈保子をスマートにしたような清楚な美人でした。
Hは彼女の卒業後、酔う度に、”あの時手を握る勇気があったならば展開が変わっていたかも知れない。”とこぼしていました。
初体験は、その彼女の友人に引っ越しの手伝いを頼まれたのがきっかけだったようですが、その女性とはそれっきりだったようです。

その後毎年、勤労感謝の日が近づくと、私はHに、”あれほど働いた勤労感謝の日は無かったろう。よく頑張ったな。”と言いながら乾杯を迫るのが常となりました。
Hは、”何がですかっ!”と怒りますが、私は、”いや、引っ越しの手伝いのことだよ。”と受け流します。


オカマの日?

2013年04月04日 | 昔話
今日4月4日は医者仲間のHの誕生日です。
彼自身が昔から喧伝しているのですが、4月4日はオカマの日なのだそうです。
3月3日が女の子の日で、5月5日が男の子の日なので、中間の4月4日はオカマの日だというわけです。
彼はオカマとは無縁ですが、よく観察してみるとその性格は、”中年のオバチャン風”かも知れません。

Hと私は学生時代に二人でよく飲みに出かけました。
二人とも酒が強いので、お互いに、相手を気遣う事無く飲めるからです。
ある夜、酔っぱらったHが、”知り合いの女子大生のアパートに押しかけよう。”と言い出しました。
私は、”もう11時を回っているので止めろ”と言ったのですが、Hは、”たたき起こせばいい!”と強気です。
仕方なく付いていったのですが、まずは裏側に回って彼女が勉強中であることを確認して、手を振り、入り口にむかいます。
彼女がドアを開けたとたんに、それまでは強気だったHの態度が豹変します。
”ゴメンネ、ゴメンネ、こんなに遅くにゴメンネ。”と低姿勢で謝るのみです。
結局、上げてもらえずに玄関払いされたのですが、その時、私には、ある予感がひらめきました。
それは、”コイツは女を口説けない性格ではなかろうか?”というものでした。
残念ながら、その予感は的中して、彼は青春時代を、ほぼ彼女無しで過ごすことになりました。

”女子大生たたき起こし事件”の翌日、私とHは街に飲みに出ました。
2,3千円しか持ちませんでしたが、いつもの如くパチンコで増やせばOKです。
ところが、その夜は、ことごとく運に見放されました。
ドラムの777は何度か完成させたのですが、1/2以上の確率で7になるはずの上部のデジタルが一度も7になりませんでした。
負けてしまって、トボトボと歩いて大学迄戻るのですが、その途中でHが私に言いました。
”長谷川さんは女遊びばっかりしているから金が無いんよ。”
ムシャクシャしていた私はキッチリと言い返しました。
”お前は女もおらんくせに、なんで金が無いんや!”

その後もHの、”彼女いない歴”は延々と続きます。
女性関係に忙しかった私を反面教師として観察し続けたのもまずかったかも知れません。
さらに、医者になって結婚適齢期を迎えると、Hは根本的にまじめですので、さらに女付き合いに慎重になります。
結局、Hの、”彼女いない歴”はギリギリ39歳で見合い結婚をするまで続きました。

Hの人生を振り返ってみると、弟がいるだけで姉も妹もいません。
中学高校は男子校であるラサールの寮暮らしです。
私には妹がおりましたので、女の実態は把握でき、それほど女性崇拝に走ることはありませんでした。
しかしHには女性の実態を知るチャンスも無く、”女性崇拝とブス蔑視”という幼稚で両極端な考え方しかできなくなっているように見えました。

男は生まれつき男なのでしょうが、少なくとも、”女に対しての男”という部分は、女との付き合いによって形成されていくような気がします。
女と付き合って、喧嘩したり仲直りしたり、祝いあったり慰め合ったり、誉めたり誉められたり、様々な感情のやりとりを重ねることで、
女をきちんと理解できるようになり、女に対する男としての自分もできあがっていくのです。
Hには、その部分が欠如していたような気がします。
そのことが今の彼の性格を、”中年のオバチャン風”に見せるのかもしれません。(続く)

診断書

2013年04月02日 | 仕事


受験、入学、就職の季節は様々な診断書の依頼が増えます。

写真は一例ですが、私の診断は、ただ単に、”あなたは、以下の事柄のうちで、何か当てはまるものがありますか?”と述べて、
診断書を読み上げるだけです。
統合失調症と認知症くらいは見抜けるかもしれませんが、それ以外は無理でしょう。
たとえ、それらに該当していたとしても、”有りません。”とシラをきられるに決まっているからです。
診断書の提出を求める側は、ただ単に診断書という体裁をととのえて、後で事件が起きたときに使うつもりでしょう。
診断書を発行する病院側も、”ちゃんと質問したが、本人が否定した。”と言うしか無いでしょう。

それにしても、とても日本語とは思えないような”お役所言葉”ですね。
改行も目茶苦茶ですし、たったの6行に、”若しくは”が3回ですか。
”その他の自己の行為の是非を判別し、若しくはその判別に従って行動する能力を失わせ、若しくは著しく低下させる症状を呈する病気”というのは、
一言で言うならば、”知的障害者”ということでしょう。
”知的障害者”を、昔は”精神薄弱者”と呼んでいました。
そういう遠慮から、このような遠回しな表現になったのでしょうが、結果としては、一回聞いただけで理解するには、
かなり高度な国語力を必要とする文章になってしまっています。

オカミが最近、障害者を、”障がい者”と表記し始めましたが、これには訳があります。
もともとの漢字は、”障碍者”でガイは電柱などに見られる瀬戸物のような材質でできた白くて丸い碍子(ガイシ)の碍なのです。
碍が難しい漢字ですので、”障害物競走”などからの軽いノリで障害者と表記したのでしょう。
しかし、当然ながら、障碍者の方々から、”俺たちは障害物か?害虫か?”という声が上がってきたのです。


PET

2013年04月01日 | 糖質制限食
みなさんは”PET”という検査をご存じでしょうか。
体中の何らかの癌を見つける検査です。
メカニズムは単純で、体中のどこかの、ブドウ糖の取り込みが異常に昂進している部位を検出する検査です。

人間の細胞のエネルギー源はブドウ糖か脂肪酸かのどちらかです。
癌細胞は脂肪酸を取り込めません。エネルギー源はブドウ糖だけです。
すなわち、ブドウ糖の取り込みが異常に昂進している部位こそ、癌細胞が増殖、成長している部位だということになるのです。
糖尿病の患者さんの発癌率が高いのは、癌細胞のエネルギー源であるブドウ糖をたくさん供給できるせいだそうです。

私達の体内では、毎日いくつもの(いく千もの?)癌細胞が発生しているそうです。
ただ、免疫系の力によって、癌細胞は増殖すること無く死滅させられます。
ところが、稀に死滅させられなかった癌細胞は、徐々に成長していきます。
胃癌を例にするならば、増殖していった癌細胞が、”胃癌”として姿を現すには6,7年かかるそうです。
すると、糖質制限をすれば、癌細胞を兵糧攻めにできるので、癌細胞の成長を遅くすることができるかも知れませんよね。

江部先生のブログによれば、昨年12月にアメリカで、ある癌患者の経過がテレビ放映されました。
転移性癌の末期で治療の方法無しと、3つの病院で宣告された男性です。余命3ヶ月との診断でした。
ところが、ダメ元で、奥さんが極端な糖質制限食(脂質80%)を与え続けたところ、癌は消滅して、一年後の再発も無いそうです。

糖質制限食を続けている私は、癌が成長していくリスクが少し低いかも知れません。
そして、万一、癌を発症したとしても、ケトン食(野菜や植物繊維も食べないスーパー糖質制限、脂肪食)への移行も容易でしょうから、
癌に関しては、余裕で待ち構えることができそうです。

明日の空の向こうに

2013年04月01日 | 映画




30日の土曜日に、上記作品を観るために電気館に行ってきました。
今年初めての映画鑑賞です。

旧ソ連の浮浪児3人がポーランドの空の下には、もっと良い暮らしが待っているに違いないと信じて、危険な越境にチャレンジする物語です。
11歳の少年と10歳の兄、6歳の弟の3人ですが、なんといっても、この6歳の少年こそが主役です。

ペットボトルに水を汲み足しながらの、金も食料も無い旅ですが、もともとが浮浪児ですので悲壮感はなく、日常の延長のような雰囲気です。
6歳の少年・ペシャの演技力は完璧で、全く演技を感じさせません。
パン屋のオバチャンをおだてて、くどいて、パンをせしめるセリフ回しと媚び方は大人顔負けです。
最近は、日本でも子役のレベルが、芦田真菜ちゃんの例を持ち出すまでも無く、上がっていますが、この6歳のペシャには勝てません。
悲惨な境遇は少年達の魂を、ふさわしい年齢以上に成長させてしまうというストーリーなのでしょうか。

ストーリーとは別ですが、異常に喫煙シーンが多い映画です。
子供達の喫煙シーンもかなりの時間を割いて2回も出てきますし、終盤の警察署長は、最初の尋問シーンから最後まで、ずっと煙草を吸い続けます。
しかし、振り返れば、50歳以前の私も、そのように見られていたに違いありません。

映画としてはストーリーもエンディングも面白く無く、オススメではありません。
ただただ、6歳の少年の、演技か素地なのかわからない演技力に圧倒される作品でした。