はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

THE GIRL WITH NO NAME

2015年08月26日 | 読書


南米のコロンビアで5歳くらいの時に誘拐されて、すぐにジャングルに捨てられた女の子の実話です。
生き延びるために彼女が選択したのは、” 猿まね ” でした。
サルが食べる物ならば、自分が食べても大丈夫だが、サルが食べない物は、自分も食べてはいけないという単純なルールです。
やがて彼女はサルの群れの一員となり、四足歩行となり、人間の言葉を忘れていきます。
サルの群れでの生活は、詳細かつ精密に描写されていきます。
ときおり、自分たちの縄張りが、よそ者のアタックを受けることを除けば、生活は楽しく、安定しています。
食べ物は潤沢ですし、サルの群れは愛情に包まれており、彼女もその一員として溶け込んでしまいます。
そのジャングル生活は5年間にも及びますが、それは彼女の人生で最も幸せな時期であったかもしれません。

ある日、縄張りに侵入してきた白人のアベックハンターに拉致されて、田舎の村の売春宿に売り飛ばされます。
そこで、グロリアと名付けられ、腰まである縮れて団子状態になった髪の毛を切られ、二足歩行を強制され、人間の言葉も覚えていきます。
毎日、ひどい暴力を受けながらも、少しづつ掃除や洗濯などの家事もこなしていけるようになります。
しかし推定11歳になったグロリアは、客を取らされそうになった瞬間に、脱兎のごとく、全力で逃走します。

ククタという町にたどり着いた彼女は、大きな公園の木の下で寝ようとしますが、驚いたことには、たくさんの子供たちが、それぞれの木の下で寝ようとしていました。
ククタではストリートチルドレンは珍しくなかったのです。
彼女はストリートチルドレン仲間からポニー・マルタと呼ばれます。
ポニー・マルタとは小さなコーラのような清涼飲料水の商品名です。
ジャングルで鍛えられた俊敏性で彼女は頭角を現していきます。
生計は、かっぱらいで立てていました。
このストリートチルドレン時代も、彼女にとっては、人生に張りのある楽しい時期だったようです。

彼女の次の人生は、マフィアがらみの一家での召使生活で、ロサルバと名付けられます。
隣に住む女主人マルハの助けで、そこを逃げ出した彼女は修道院にかくまわれます。
ここで彼女はジャングルを出て以来、初めてベッドを与えられます。
しかし、その修道院での毎日は彼女にとって苦痛と退屈以外の何物でもありませんでした。

結局、彼女はそこも脱走し、再びマルハの助けで、首都ボゴタに住む、マルハの妹夫婦の家庭に迎えられます。

幸せな人生を送るための必要条件を深く考えさせられる作品です。
まずは食料と自由は絶対でしょうが、認められること、愛されること、自分の能力が発揮されることなどでしょうか。

彼女の推定年齢は私と同じくらいのようです。
現在はルス・マリーナという名前で英国に住んでおり、子供と孫にも恵まれています。



この作品は彼女の次女が、母親の思い出話を書き留めて、ゴーストライターに依頼したものです。




風速41m

2015年08月25日 | 日記
台風15号が珍しくも熊本を直撃しました。
16年ぶりの直撃だそうです。
熊本には滅多に台風が来ません。
九州山地のおかげで、宮崎方面にそれた台風の影響を、熊本はあまり受けません。
そして、長崎よりも左にそれた台風は、なぜか右にカーブせずに、直進して、台湾、中国の方へ行ってしまうことが多いからです。

今日は、午前中を休診としました。
開業以来初めてのことです。

瞬間最大風速41mは、木造2階建てのクリニックを震度3以上に揺るがせました。
これも初めての経験です。
クリニックの被害としては、駐車場案内の看板が、完全に破壊されて、吹き飛ばされたことだけでした。

ニュースを見た限りでは死者は出ていないようです。
雨が降らない、” 風台風 ” であるならば、熊本の台風対策は、高いレベルで完成されているということでしょうか。

振り返れば、平成3年に長崎を襲った台風19号の時も、熊本県での死者は1人だけでした。
40代後半の男性でしたが、強風に窓ガラスがたわみだしたので、ガムテープを使い、補強しようとしたのです。
その瞬間にガラスが破裂して、破片が胸腹部に突き刺さったのです。
その男性は、当時の私の職場に出入りするレントゲンや廃液関係の業者さんでした。
そして、彼の父親Yさんは私を主治医としておられました。
すぐに、おくやみを申し上げたのですが、Yさんの反応は、” 運命だから。 ” という淡々としたものであったことを記憶しています。
そのYさんは、その後20年近くも、私を主治医として追いかけてきてくれました。

Yさんの初診時の頃の様子も、昨日のことのように覚えています。
息子の嫁に連れられて来院されたのですが、主訴は腹痛でした。
診察すると、腹痛ではなく季肋部痛でしたので、胃か十二指腸のトラブルが懸念されました。
そこで、胃カメラ検査を施行したのですが、巨大な胃潰瘍ができていました。
おそらくは出来てから10日くらいは経っていると思われる所見でした。

私は、何故、もっと早く連れてきてもらわなかったのかと尋ねました。
Yさんの答えは、” また勝手に冷蔵庫を開けて、何か食べたんだろうと怒られるから..... ” というものでした。
確かにきつそうな嫁で、私もチョッピリ苦手とするタイプでした。

この国の空

2015年08月22日 | 映画














木曜日は電気館で上記映画を観ました。

この作品のジャンルですが、単なる恋愛映画とみなせば、ひどくみすぼらしい恋愛ストーリーです。

戦時中に東京の杉並で母親と二人して暮らす19歳の二階堂ふみがヒロインです。
隣の家には妻子を疎開させて一人暮らしを続ける財閥系銀行の支店長である長谷川博已が住んでいます。
長谷川は38歳ですが、やさ男ですので兵役検査では丙種となり、徴兵されなかったのです。
男は皆、兵隊に取られていますので、ふみの周りで恋愛対象になる男性は長谷川くらいしかいなかったのです。
長谷川ですが、ふみの心の奥の自分への好奇心を嗅ぎ取った時に、それを拾うのは中年男の性でしょう。( 私見です )

長谷川は19歳の光り輝くようなふみに対して、こう言います。
” 女の人には何をやっていても美しく見える時期ってあるんですよね。 ”

実は、この作品のエンドロールで、女流詩人・茨木のり子が19歳で終戦を迎えた経験を基に書いた詩が、ふみによって朗読されます。

「 わたしが一番きれいだったとき 」

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発って行った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのしあるいた

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね  

この作品の原作は1983年に芥川賞作家の高井有一が書いた小説でした。
そして、この小説は谷崎潤一郎賞を受賞しています。
この映画の監督を務める荒井晴彦が30年前に高井有一から脚本化のOKをもらっていました。
おそらく荒井晴彦は茨木のり子の詩を連想して、その2つをオーバーラップさせ、映画化したのでしょう。

確かに実年齢20歳の二階堂ふみは輝いていました。
その輝きこそが、この作品のすべてであるように思えます。

戦争が終わって長谷川の妻子が疎開先から帰ってくることになります。
映画の最後は、ふみの陳腐なセリフで締めくくられます。

” 私の戦争はこれから始まるんだ。 ”

速報 ・ 村上由真優勝!

2015年08月19日 | 由真ネタ
8月の17.18日に熊本空港カントリークラブで行われたTKUジュニア選手権で由真が、見事に優勝を飾りました。
熊本空港カントリークラブのホームページから、全選手の順位、スコアを閲覧可能です。
初日は雨の中をなんとか78と耐え、決勝当日は73にまとめてのプレーオフ進出でした。
プレーオフは7ホール目で相手を振り切ったそうです。
由真が、熊本県の中学、高校生ゴルファーのトップに君臨したのです。

昨年の春、熊本国府高校にゴルフ特待生として入学した由真でしたが、スランプに陥り、鳴かず飛ばずの状態が続いていました。
今回の優勝で吹っ切れたであろうことを期待します。

なお、この試合は8月29日(土)の午後3時からTKUで放映されるそうですので楽しみです。

初盆

2015年08月16日 | 妹ネタ
昨日はオフクロの初盆ということで、東京から妹夫婦と冬樹が、お参りに来てくれました。

冬樹は東京での司法修習も終えて、この4月からは、赤坂シティ法律事務所で5人目の弁護士として働いています。
熊本で司法修習を受けないかなと期待した時期もあったのですが、かないませんでした。
なぜならば、冬樹は司法試験を、なんと15番で合格していたからです。
すざましい偏差値でしょうね。
これだけの成績ですと、第一希望の研修地に配属してもらえるのでしょう。

医師の国家試験には順番がつきません。
しかし司法試験では、何番で合格したのかという実績が、一生ついてまわるそうなのです。
弁護士として好調なスタートを切れたようです。

夜は、みんなして、予約をしていた和食の店 ” 蔵 ” へ繰り出しました。
本格的に飲む冬樹を見たのは初めてだったのですが、親の血を引いたのか、ちゃんとした酒飲みに成長していました。

今日は8月16日の日曜日なのですが、日曜当番医としてクリニックを開けています。
忙しくは無いのですが、ほとんどが新患さんですので、結構手間取ります。
天気はといえば、曇天ですので、絶好のゴルフ日和です。
チョッピリ悔しさを感じますが、どうしようもありません。
テレビで高校野球を観ながら、時々診察するという一日を過ごすしかありません。

裸眼に慣れたからか、新しいグリップの威力か?

2015年08月10日 | ゴルフ
昨日も阿蘇グランヴィリオの西コースを、猛暑で風も無い中、汗だくになりながらラウンドしました。

結果:85打の38パットでした。

85は自己記録タイです。

4月から老眼鏡をやめて、裸眼でプレーしています。
ボールは2重ににじんで見えるのですが、ちゃんとそこにあるわけですからシンプルです。
老眼鏡をかけて見えるボールは虚像であって、実際にはボール1個くらい手前に存在するのです。
したがって、ボールの1個手前に仮想ボールを想定して、それに対してスイングするという、ややこしい策を労する必要がありました。
老眼鏡の度数をどんなに薄くしても完全には虚像を排除できず、せいぜいクラブフェースの先っぽで打つつもりのスイングでアジャストしていました。

20数年間もそういうアジャストを続けていると、それが感覚的に刷り込まれてしまいます。
メガネをはずしても、その感覚は刷新されずに、にじんだ球を打つにもシャンクが怖くて、本能的に先っぽでヒットしようとしてしまいます。
すると、虚像では無く実像ですので、例えばフェアウェーウッドではフェースが球に届かず、先っぽでこするだけで、真右にチョロするということも数回ありました。

しかし、徐々に、シャンクの怖さを卒業することができて、クラブフェースの重心で球をヒットできるようになりつつあります。
とにかくシャンクがでてもやむを得ないと開き直って、クラブを振るのですが、不思議とでないのです。
なるほど、みんなは、こういう風にゴルフをしていたのかと思うと、この20年の遠回りが過酷すぎる修行であったようにも思われます。

さて、私のグリップはキングサイズの太いグリップでした。
昨年グリップを新調しようとしたのですが、その製品は製造中止となっていました。
仕方なく、擦り切れているのを我慢して、そのまま使い続けていたのです。
今回、winn社から、新しいキングサイズのグリップが発売されたので、すぐに食いつきました。
こいつがなかなか良い感じなのです。
これまでと違って、表面がやや柔らかく、指が少し沈み込むようなフィーリングでフィットするのです。
すっぽ抜ける心配はゼロになりましたので、思い切って振り切ることができます。
このグリップのデビュー戦での好スコアは、その性能の高さを証明しているのかもしれません。

winn社の neo DRI-TAC キングサイズ です。



さて、今回のスコアを考察してみると、ショットが安定していたことが見て取れます。
パーオンが9回もあります。( ただしその内の4回は3パットでしたが..... )
寄せワンのパーも2回拾っています。
4つの3パットを含めてボギーは9個でした。
パーが6個、バーディーは1個です。
残る2ホールは、ボギーオン3パットのダボが1回と、最終ホールでのボギーオン4パットのトリプルが1回だけでした。
昔85を出した時は32パットでし
今回は38パットですから、ショットで稼いだスコアだと思います。

ハイライトは3番のロングでしょうか。
ドライバー、5番ウッドが芯を喰って、球は左のガードバンカーの手前のフェアウェーにありました。
グリンセンターまで30ヤードでしたがピンは右奥です。
グリーン奥のOBを怖がって遠慮して売った寄せは奥の段まで上がり切れずに5mの登りのスライスラインが残りました。
寄せにいったパットだったのですが、するするとカップに吸い込まれて、ナイスバーディーでした。

さらに17番のショートホールでは初めての出来事を体験しました。
ピンまで120ヤードだったのですが、私のPWでのショットはベタピンに着地しました。
やったと思ったのですが、球にはバックスピンがかかって、2m以上も戻ってくるではありませんか。
こんなにもハッキリとしたバックスピンをライブで見たのはゴルフ人生で初めてでした。

芥川賞・又吉直樹・火花

2015年08月08日 | 読書
昨日、文芸春秋で上記を読みました。

何の文句も無く、面白く読み終わりました。

本人は否定していますが、主人公であるお笑い芸人の姿が、どうしても又吉とオーバーラップしてしまいます。
この小説に関しては、そのことが読者をストーリーに簡単に引き込んでいく要因になっていると思います。

お笑い芸人が小説を書いたという報道がなされていますが、そうではないようです。
文学少年が、ずっと文学を愛しながら、お笑い芸人を生業とする中で小説を書いたのです。

書こうと思ったきっかけは、昨年私もアップした西加奈子の、” サラバ! ” を読んで感動したことだったそうです。
直木賞の作品が芥川賞を誕生させたという構図でしょうか?

靴職人と魔法のミシン

2015年08月07日 | 映画






昨日は何の予備知識も無く上記映画を電気館で観ました。
ジャンルはと言えば、” お伽話 ” でしょうか。

ニューヨークの下町で4代目として小さな靴の修理屋を営む中年やもめのアダム・サンドラーは貧乏で単調な毎日に辟易としていました。
ある日電動ミシンがショートしてしまったので、親子代々使われてきた手動の靴専用ミシンを使って修理を続けました。
そして、たまたま修理をし終えた靴を履いてみたところ、その靴の持ち主に変身しているではありませんか。
魔法のミシンを理解した彼は、様々な客に変身して人生をエンジョイし始めます。

このエンジョイの仕方が、私に言わせれば物足りません。
チャイニーズに変身して中華街に入り込み、太極拳を踊って、楽しいのでしょうか?
黒人少年に変身して、思いを寄せる女性の仕事ぶりを眺めることに、何の意味があるのでしょうか?
不細工なオカマに変身してみるのは隠れた性癖なのでしょうか?
ハンサムな若者に変身してパブで逆ナンされるまではいいのですが、次にどこへ行くかと尋ねられて
母親との二人暮らしの自宅と答えて、彼女にドン引きされてしまうのは如何なものでしょうか?
アダムは美男美女のカップルの彼氏が外出するのを確認して、彼に変身し彼女の部屋を訪れます。
シャワー室呼びつけられたアダムは彼女の美しいヌード姿に感動します。
彼女に誘われたアダムはズボンを脱ごうとしますが、靴を脱ぐわけにはいきませんので果たせません。
あたふたしながら、ほうほうの体で退散します。
間抜けですよね。
私ならば別室で裸になり、靴だけを履きなおして、事に臨むでしょう。
悪徳ギャングから、5万ドルもせしめておきながら、それを返しに行くとは何事でしょう?
そのことから様々なトラブルに見舞われることになっていくのですから。

突っ込みどころ満載のストーリーですが、お伽話とみなせば、まあ、そこそこの作品かもしれません。
しかし、このてのストーリーは邦画ではありえませんよね。
考察してみれば、日本には魔法をかけるというコンセプトが存在しないのかもしれません。
おそらくはキリスト教の考え方なのでしょう。
ビビディバビディブーとか口元ピクピクで、カボチャを馬車に変えたり、王子をカエルに変えたり、食器を片づけたりするのが日常茶飯事なのかもしれません。

まてよ、日本にもチチンプイプイなんてのがありましたよね。
でも、あれは魔法では無く、おまじないでした。



水泳部の思い出

2015年08月05日 | 昔話
水泳の世界選手権がロシアで開催されています。
昨日の渡部香生子選手の200個人メドレー決勝は素晴らしいレース展開での銀メダルでした。
100のターン時にはビリだったのですが、150で4位に上がってきました。
しかし3位の選手とは、まだ一身長近くも差がありました。
なんとか銅メダルに手が届かないかなと期待して観ていたのですが、残り25mで3位に追いつきました。
さらに残りの10mで2位に追いつき、タッチの差で銀メダルをゲットしたのです。
水泳のレースでこれほど感動したのは久方ぶりでした。

私の少年時代は、やっと全国の小学校にプールが建設された頃でした。
小学校の5年6年には水泳部で随分と練習した記憶があります。
しかし、ほとんどの中学校には未だプールは有りませんでした。
私の母校である百道中学校にもプールは無く、私はバスケット部に入りました。
バスケットは面白くはあったのですが、シューズやユニフォーム、ジャージなど、結構金がかかります。
そこで、修猷館に入学した時に、一番金がかからない水泳部を選択しました。

修猷館のプールが新築されたばかりということもあって、入部希望者は30人を超えました。
しかし先輩たちの過酷な指導に音を上げる者が続出し、1か月後には10人も残りませんでした。

さて、同期で入部した中に虎石龍彦というスーパースターがいました。
彼が通っていた中学校には、珍しくもプールがあって、彼は水泳部上がりだったのです。
彼の素晴らしい泳ぎを眺めながら、私は親友の緒方良と、” いつかは抜いてやる ” と話していました。
その会話を上級生に立ち聞きされてしまったようで、” 素質が違いすぎるから、その可能性は無い! ”と言われたのです。

その夜から、私と緒方良は、当時流行っていたスポコンドラマさながらの特訓を開始しました。
練習が終わったら、帰宅して、夕食を食べ、8時に再び集合して泳ぐというものでした。
プールは防犯のためか、2階部分に作られていたのですが、私たちは校舎の2階の窓を利用してプールに忍び込むルートを開拓していました。

そして6月に虎石と私の決戦の時がやってきたのです。
新人戦の4継( 400m自由形リレー ) のメンバーが2年生だけでは1人足りず、私と虎石との勝負で勝ったほうが選ばれることになったのです。
勝負に先立って、私は初めて作戦というものをたてました。
それまではペース配分などという概念を知りませんでしたので、最初から飛ばして、最後はバテるということを繰り返していたのです。
そこで、前半の50mを楽に泳いで、勝負は75mのターンからかけることにしたのです。
実際に、レースは私の思惑通りに進み、私の快勝に終わりました。
観戦していた緒方良は、50mで私が一身長離された時には、全然駄目だと思ったそうです。
しかし、虎石本人は75mのターンで追いつかれたときに自分の負けを覚悟したそうなのです。

この勝利体験で、私は確実に幸福になれる方法を理解しました。
それはコツコツと努力してスキルを上げ、それを自覚することです。
水泳という競技の利点は、自分のアチーブメントを記録として正確に把握できるということなのです。
当時は、練習を1日休んでも記録は落ちないが、2日休むと元に戻るのに3日かかるし、3日休むと1週間かかるような気がしていました。
そのせいか、ボウリングでもゴルフでも毎日練習を続けたがる傾向にあります。
また、水泳をやっていた者の習癖として、どんなスポーツをするにせよ、入念な準備運動を欠かしません。

ボウリングに関しては、ある程度の達成感があります。
しかし、ゴルフに関しては、まるでありません。

当分は、妹に勝利することによって得られる、ささやかな達成感でよしとすることにします。

久しぶりの勝利

2015年08月03日 | ゴルフ
今日はオフクロの四十九日ということで、金曜日から妹が帰熊しています。
昨日は久しぶりにT君も参加してのゴルフ対決となりました。

舞台はいつものごとく阿蘇グランヴィリオの西コースです。
1番ホールでの私はティーショットを右にふかしてしまってワンペナでしたが、そこから9番アイアンでなんとかグリーン右端に乗せることができました。
しかしピンは左端です。
妹はミスショットを重ねて私の球の少し内側に4オンするのがやっとでした。
そこからの難しいロングパットを私は2パットであがり、3パットの妹に2打のリードをもらって戦いはスタートしました。

勝負が動いたのは右にドッグレッグした6番のミドルホールです。
私のティーショットは引っかけて左の深いラフでしたのでアイアンで刻むしかありませんでした。
妹の球はフェアウェーにありましたが、ピンまではまだ170ヤードもあります。
ここで妹は意を決して、スプーンを持ち出したのです。
戦いをなかなかリードできない展開に焦りを生じたせいだったとその夜の飲み方で述懐しましたが、球は右にとんでOBとなりました。
普段ならばスプーンでチャレンジするなど考えられないことですし、魔が刺したと言うしかないようです。
以後私は一度もリードされることは無く、3打差で勝利しました。

結果は私が、101打の38パット、妹は104打の42パット、T君はドライバーを曲げまくって116打の36パットでした。

ハイライトは9番でのT君のユーティリティー4番にてのスーパーショットでしょうか。
グリーンまで190ヤードでしたが、高く舞い上がる豪快なショットでナイスオンでした。

その夜は焼き鳥のたば鳥で1杯やったのですが、妹はスプーンを持ち出すという、愚かな選択を反省し続けていました。