はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

2重螺旋の恋人

2018年09月10日 | 映画


昨日は電気館で上記を鑑賞しました。

以前にB級ホラー映画の手口として、恐ろしい場面が実は夢だったというオチが繰り返されることをアップしました。

この作品は、その手口を突き抜けていて、どこまでが夢や妄想なのかが見終わっても判りませんでした。
しかし冷静に振り返ってみれば....なにもかも....というオチなのでしょう。
現実は2割くらいで、8割は妄想でしたという、滅茶苦茶な作品でした。

主役のクロエという25歳の女性を演じたマリーヌ・ヴァクトは綺麗でスタイルも抜群でした。




例えれば、アンジェリーナ・ジョリーをスリムな白人にして、さらにAカップにしたような感じでしょうか。
したがって、ストーリーもオチもお粗末なB級映画でしたが、退屈することはありませんでした。

点数は付けようがありません。

ビューティフル・デイ

2018年08月24日 | 映画


アメリカでの子供誘拐件数は年間で数十万人だそうです。
そのほとんどは離婚した夫婦間での子供の取り合いだそうです。

しかし、一般的な誘拐の件数も、日本とは比べ物にならないほど多いそうです。

この作品の主人公であるジョーは、行方不明になった子供たちを取り戻すことで生計を立てています。



中年で独身のジョーは様々なトラウマを抱え込んでいます。
父親からの虐待に近い躾け、軍隊時代の戦場での悲惨な光景、昔の恋人との最期、
見つけた子供たちの死体.....などなどが繰り返しフラッシュバックとして画面に登場します。

ストーリーについてはネタバレさせないほうが良さそうな作品ですのでアップしません。

しかし、帰る場所も、行くあても失くして、レストランで呆然となった二人でしたが、ヒロインである少女のニーナが
Let’s go! It’s a beautiful day! と叫ぶシーンでこの映画は終わります。
それを拾って付けたタイトルであり、美しい一日が描かれるような作品ではありません。



まあ、退屈することのないアクション映画でした。
満足度は80点くらいでしょうか。




心と体と(ネタバレ)

2018年06月29日 | 映画


昨日は電器館で上記を観てきました。

ハンガリー映画なのですが、ジャンルとしては恋愛物なのでしょう。
しかしファンタジーの要素もあります。

ヒロインのマーリアは31歳の美人ですが、おそらくはアスペルガー症候群で、対人関係をうまく構築できず、職場でも浮いた存在になっています。
しかし、驚異的な記憶力と視力で、仕事は的確にこなしていきます。



ヒーローのエンドレは職場(場)のトップで1952年生まれですので65歳くらいです。
離婚歴があり一人暮らしですが、左腕全体が完全に麻痺しています。
障碍のためか、どこか人生を投げやりに過ごし、他人との深いつながりを避けています。



したがってこの作品には、障碍者同士のラブロマンス物という一面もあります。

ストーリーは、深い森の中を雄と雌の2頭の鹿が仲睦ましく歩き回るシーンで始まりますが、無音で幻想的です。

職場での盗難事件の犯人を特定するために精神科の女医が呼ばれて、全員の面接を実行します。
その時に、前の晩に見た夢を尋ねられるのですが、マーリアとエンドレが見た夢は全く同じものでした。
冒頭の鹿のシーンでマーリアは女鹿に、エンドレは牡鹿になった夢を見たのです。
牡鹿が雪を掘って、女鹿に、その下の葉を食べるように促したり、小川で一緒に水を飲んでいる時にお互いの鼻が接触したりとディテールまで一致したのです。
このことは、口裏を合わせたと診断した女医が二人を呼びつけて叱責したことで、二人が知ることになりました。
それでも二人は半信半疑のままでした。
ところが、それから毎晩、二人は鹿の夢を見るようになります。
ある日、お互いが見た前の晩の鹿の夢を紙に書いて交換したところ、完璧に一致してしまいました。
さすがに二人とも不思議な現実を受け入れるようになり、別れ際には、” 後は夢の中で.....” などと洒落たセリフを吐くようになります。
やがてマーリアはエンドレの部屋に泊まりに来ますが、マーリアは心ではエンドレを受け入れているものの、肉体的には拒絶反応を示してしまうのです。
エンドレもマーリアの病態を理解し、お互いの関係を友人のままでいくことを提案します。


マーリアは幼いころからカウンセラーに通っていて、その精神科医に恋愛をうまくこなすコツをコンサルトします。
答えは、AVを観る、恋愛の本を読む、恋愛の曲を聴く.....などでした。
それらの課題を着々と実行したマーリアは電話でエンドレにもう一度泊まりに来たいと頼みます。
しかし、エンドレは苦しむくらいなら友達のままでいた方が良いと拒否します。
悲観したマーリアは絶望的な悲恋のCDを聴きながら、浴槽でリストカットをします。
危ういところでエンドレから電話がかかります。
愛の告白と今から会いたいという内容でした。
マーリアは救急病院で傷口の処置を受け、エンドレの部屋に行きます。
今度はちゃんとセックスもできて、朝食もハッピーに仲良く食べます。
そして、お互いに鹿の夢を見なかったことに気づきます。

エンディングは例の森のシーンでしたが、そこにはもう鹿が登場しませんでした。


なんというか、シリアスなストーリーが最後にハッピーエンドを迎えるというちぐはぐさが印象に残りました。
昔のヨーロッパ映画は悲しいエンディングが多かったのですが、最近では傾向が変わってきたようです。

なぜ二人が同じ夢を毎晩見ることになったのかについては全く言及されませんでした。
ですから、ファンタジーでもあります。

マーリアは美人で口角が左右ともに上がっています。
日本人ではまず稀です。(板野友美を除く)
ただし、ガタイが良すぎてがっちりしており、デブではないのですがセクシーには見えませんでした。
エンドレはショボくてキモいジジイにしか見えませんでした。
若いマーリアとのつり合いがとれません。
これもファンタジーなのでしょうか。

最初の部分で、牛が屠られるシーンが続くことはあらかじめ知っていましたので、目をつぶって対応しました。

おすすめ度は70点くらいでしょうか。
最近見た映画は、「チャーチル」も「羊と鋼の森」も50点でしたので、チョットはましな作品でした。

チェット・ベイカー BORN TO BE BLUE

2017年01月29日 | 映画




26日の木曜日は午後休診を利用して、電気館で上記映画を観ました。

邦題は、”ブルーに生まれついて” とありますが、直訳すれば、”ブルーになるために生まれて”、チョッピリ気取って訳せば、”ブルーになるべく生まれて” でしょうか。
すぐに思い出してしまいましたが、私が中学生の頃、”野生のエルザ” なんていう映画があって、そのテーマソングが ”BORN FREE” でした。

さてチェット・ベイカーですが、1929年生まれのトランペット吹きで、歌手でもあります。
若くしてブレイクし、JAZZ界のジェームス・ディーンと呼ばれました。
しかし、酒と女とヘロインでボロボロになり、この映画にも出てきますが、前歯をすべて叩き折られてペットが吹けなくなります。
10年以上もJAZZ界から姿を消しますが、1970年代に復活してきます。
しかし孤独な青春を連想させるような独特のフレーズは輝きを失っていました。
このことについて村上春樹は次のように述べています。
ベイカーはジェームズ・ディーンに似ている。
顔立ちも似ているが、その存在のカリスマ性や破滅性もよく似ていた。
彼らは時代の一片を貪り食べ、得た滋養を世界に向かって気前よく、ほとんどひとつ残らずばらまいた。
しかしディーンとは違って、ベイカーはその時代を生きのびた。
ひどい言い方かもしれないが、それがチェット・ベイカーの悲劇でもあった。






もう少し村上春樹のベイカー評をアップします。
ベイカーの作り出す音楽には、この人の音色とフレーズでなくては伝えることのできない胸の疼きがあり、心象風景があった。
彼はそれをごく自然に空気として吸い込み、息吹として外に吐き出していくことができた。
そこには人為的に工(たく)まれたものはほとんどなかった。
あえて工むまでもなく、彼自身がそのまま「何か特別なもの」だったのだ。
しかし彼が「特別なもの」を維持できた期間は、決して長い物ではなかった。

輝きは夏の盛りの美しい夕暮れのように、いつしか闇に飲み込まれていった。

この、輝きは夏の盛りの・・・・・ の一文を、私はとても気に入って、毎年、夏の夕暮れ時には反芻するように思い出します。

さて、私が高校時代に買ってもらった世界ポピュラー音楽全集のJAZZ編にチェット・ベイカーの My funny Valentine が入っていました。
当初は女性ボーカルだと思いこんでしまいましたが、それほど中性的な声質なのです。
その曲はこのアルバムに収録されています。



私はこのCDを持っています。



もうすぐバレンタインデーです。
そこで、この曲の歌詞をアップして和訳してみます。

My funny Varentine, sweet comic Valentine, you make me smile with my heart.
Your looks are laughable, unphotographable, yet you’re my favorite work of art.
Is your figure less than Greek?
Is your mouth a little weak?
When you open it to speak, are you smart?
But don’t change a hair for me.
Stay little Valentine ,stay!
Each day is Valentine’s Day.  

俺の可愛いバレンタインよ、甘くておかしなバレンタインよ、おまえは俺を心からニヤリとさせるぜ。
おまえのルックスは笑かせ物だし、写真にも耐えないが、それでも俺にとっては大好きな芸術作品なんだ。
おまえのスタイルはギリシャ彫刻に負けてねえか?
おまえはしゃべくりがぜんぜんダメだよな、ちゃんと利口なのか?
しかし俺のために髪型を変えたりするなよ。
そのままでいいんだバレンタイン、そのままで居てくれよ。
そうすれば毎日が、俺にとってはバレンタインデーなのさ。

さて70年代に復帰したベイカーですが、ヘロインを絶つことができませんでした。
そのことはアメリカでは合法的に生きていけないことを意味します。
ベイカーは法律の緩いヨーロッパを中心に音楽活動を続けます。
晩年の残念な写真をアップします。



ベイカーは58歳でオランダのホテルから転落死します。
部屋にはヘロインが残されていたそうです。
事故か、自殺か、殺人かは不明のようです。
しかし、部屋はホテルの2階だったので、自殺や他殺は考えにくいのではないでしょうか.....

さて、この映画の評価ですが、B級にとどまります。
ベイカーに憧れてない方は、観ても面白くないでしょう。




海賊とよばれた男

2016年12月11日 | 映画






今日は小川のシネコンで上記を観ました。

この作品は2013年に本屋大賞をとった百田尚樹の原作を基にしており、
私も同年の8月8日に書評をアップしています。



小説では主人公である出光佐三に対して周りの様々な人々が、”意気に感ずる”というのでしょうか、
男気に惚れて協力し、それぞれの人生を豊かにしていくというストーリーでした。
読んだ直後の第一感は、”これほど女が出てこない作品はめずらしい。”というものでした。
彩りが欲しかったのでしょうか、映画では綾瀬はるかを最初の妻として登場させますが、子供ができなかったという理由で離婚します。
”2年子無きは去る。”なんていう言葉があったような時代ですから、綾瀬はるかが離婚を求めたようです。
逃げるように綾瀬はるかは実家に帰って行き、一生を独身で過ごします。

ところがラストシーンでは亡くなった綾瀬はるかの親戚が、彼女のアルバムを主人公に届けます。
そのアルバムには主人公に関する新聞記事の切り抜きが膨大なボリュームでストックされていました。
つまり、彼女は逃げたのではなく、生涯主人公を愛し続けたというオチなのです。

原作に全く無いラブストーリーを本線に据えたあげくに
こんな陳腐なオチを最後に持ってきて、観客が感動すると踏んだのでしょうか?
”なめるなよ。”と言いたくなりました。

本の面白さを10とするなら映画は2くらいでしょうか。

先に、この映画を観たとすれば、この本を読む気にはならなかったでしょう。
残念な映画でした。

1001グラム・ハカリしれない愛のこと

2016年01月12日 | 映画






昨日、電氣館で観たのですが、あまりの面白くなさに、" 時間ドロボー! " と叫びたくなりました。

ノルウェーの映画です。
あり得ないジャンルですが、皮肉を込めてネーミングすれば、" 移動モノ " でしょうか。
全編を通じて、延々とヒロインが移動するシーンが繰り返し流されます。
その中には、ヒロインが移動し終わって、建て物の中に入り、戸を閉めたにも関わらず、そのまま通行人を撮り続けるなんてシーンもありました。
フィルムの編集段階で、あまりにも内容がプアだったために、移動シーンを大量に残して尺を稼いだとしか思えません。
結果として、当然ではありますが、中身の薄い映画になってしまいました。

さて、そのプアなストーリーですが、各国に1個ずつ、" 1キログラム原器 " なる物があって、毎年パリで確認のために正確に測定されるイヴェントがあるそうなのです。
病に倒れた父親に代わって、ノルウェーからパリに派遣されたヒロインでしたが、持ち帰ったときに車の横転事故を起こしてしまい、原器のケースを破損させてしまいます。
あわててパリに戻って、修理を依頼するのですが、そこで世話してくれた同業者の男とくっつくというものです。

タイトルの1001グラムですが、ヒロインの父親が死ぬ前に、" 人間の魂の重さは21グラムだそうだ。 " と言うことが伏線となっています。
この21グラムという数字は私も知っていて、アメリカのある病院で、精密に重さを量れるベッドを使って、臨終前後の差異を測定したものでした。
ヒロインは父親の遺灰を研究所に持ち込み、精密なデジタル測定機に洗面器を乗せます。
そして、そこに遺灰をすべて投入します。
デジタルは一旦1022グラムで止まりますが、すぐに下がり始め、1001グラムで止まります。
つまり、投入した時点では、父親の魂は、まだ遺灰の中にあったが、すぐに消失したというわけなのです。
なぜならば、ピッタリ21グラム軽くなったからです。
ヒロインはその部屋の中に居るであろう父親の魂を探しますが叶いませんでした。

実際には死亡した瞬間に魂は本人から離れるはずですので、遺灰に魂が宿るという設定には無理があると思います。

最初のデジタル数字を1021グラムにして、ちょうど1000グラムで終わらせたほうが観客には分かりやすかったと思うのですが......
1001グラムとした理由を考えると、人生ってピッタリしたものではないんだよ......
ちょっぴり重たい荷物もあるんだよ.......てなことでしょうか。
穿ち過ぎかもしれませんが....

さて、いくつかのコジャレタセリフもあったのですが、一つだけアップします。( うろ覚えで不正確ですが )

人生って、大事なことを理解するのは、いつも手遅れになってからなんだ。

ヴィンセントが教えてくれたこと

2015年09月06日 | 映画










今日は上記映画をTOHOシネマで観てきました。

子供がからんだハートウォーミングコメディーです。

この映画は昨年の秋にアメリカで封切られた作品です。

低予算の地味な作品ですので大ヒットは期待されず、当初は全米の、たったの4館で上映されただけでした。
ところが、口コミで人気が広まり、ついには全米2500館で上映されるまでになりました。
さらにはゴールデングラブ賞の作品賞と主演男優賞にもノミネートされました。

私自身は、昔から子供がからむ作品に、強く感動する傾向がありますので、今回も満足させられました。
主役のビル・マーレイの演技力が、この映画のキモです。
どっかで見たような顔だと思ったのですが、若い時の写真はこれで



さらに若いころにはゴースト・バスターズに出演していました。



物語は荒れ切った一軒家に一人で暮らす、初老の落ちこぼれ男であるヴィンセントの隣に、亭主から逃げ出してきた母親と少年が引っ越して来るところから始まります。
ヴィンセントは、いわゆる、飲む打つ買うという荒れ果てた生活を送っており、周りからは煙たがれる男でした。
母親は病院のCT技師で、帰りが遅いためにヴィンセントにベビーシッターの役割を頼みます。
ここから、ヴィンセントの少年に対する人生の家庭教師のような指導が始まります。
喧嘩の時のパンチの繰り出し方、馬券の買い方、バーでの注文の仕方などです。

この映画は、見るだけの価値があると思いますので、ネタバレを回避します。
お薦めの作品です。

この国の空

2015年08月22日 | 映画














木曜日は電気館で上記映画を観ました。

この作品のジャンルですが、単なる恋愛映画とみなせば、ひどくみすぼらしい恋愛ストーリーです。

戦時中に東京の杉並で母親と二人して暮らす19歳の二階堂ふみがヒロインです。
隣の家には妻子を疎開させて一人暮らしを続ける財閥系銀行の支店長である長谷川博已が住んでいます。
長谷川は38歳ですが、やさ男ですので兵役検査では丙種となり、徴兵されなかったのです。
男は皆、兵隊に取られていますので、ふみの周りで恋愛対象になる男性は長谷川くらいしかいなかったのです。
長谷川ですが、ふみの心の奥の自分への好奇心を嗅ぎ取った時に、それを拾うのは中年男の性でしょう。( 私見です )

長谷川は19歳の光り輝くようなふみに対して、こう言います。
” 女の人には何をやっていても美しく見える時期ってあるんですよね。 ”

実は、この作品のエンドロールで、女流詩人・茨木のり子が19歳で終戦を迎えた経験を基に書いた詩が、ふみによって朗読されます。

「 わたしが一番きれいだったとき 」

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発って行った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのしあるいた

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね  

この作品の原作は1983年に芥川賞作家の高井有一が書いた小説でした。
そして、この小説は谷崎潤一郎賞を受賞しています。
この映画の監督を務める荒井晴彦が30年前に高井有一から脚本化のOKをもらっていました。
おそらく荒井晴彦は茨木のり子の詩を連想して、その2つをオーバーラップさせ、映画化したのでしょう。

確かに実年齢20歳の二階堂ふみは輝いていました。
その輝きこそが、この作品のすべてであるように思えます。

戦争が終わって長谷川の妻子が疎開先から帰ってくることになります。
映画の最後は、ふみの陳腐なセリフで締めくくられます。

” 私の戦争はこれから始まるんだ。 ”

靴職人と魔法のミシン

2015年08月07日 | 映画






昨日は何の予備知識も無く上記映画を電気館で観ました。
ジャンルはと言えば、” お伽話 ” でしょうか。

ニューヨークの下町で4代目として小さな靴の修理屋を営む中年やもめのアダム・サンドラーは貧乏で単調な毎日に辟易としていました。
ある日電動ミシンがショートしてしまったので、親子代々使われてきた手動の靴専用ミシンを使って修理を続けました。
そして、たまたま修理をし終えた靴を履いてみたところ、その靴の持ち主に変身しているではありませんか。
魔法のミシンを理解した彼は、様々な客に変身して人生をエンジョイし始めます。

このエンジョイの仕方が、私に言わせれば物足りません。
チャイニーズに変身して中華街に入り込み、太極拳を踊って、楽しいのでしょうか?
黒人少年に変身して、思いを寄せる女性の仕事ぶりを眺めることに、何の意味があるのでしょうか?
不細工なオカマに変身してみるのは隠れた性癖なのでしょうか?
ハンサムな若者に変身してパブで逆ナンされるまではいいのですが、次にどこへ行くかと尋ねられて
母親との二人暮らしの自宅と答えて、彼女にドン引きされてしまうのは如何なものでしょうか?
アダムは美男美女のカップルの彼氏が外出するのを確認して、彼に変身し彼女の部屋を訪れます。
シャワー室呼びつけられたアダムは彼女の美しいヌード姿に感動します。
彼女に誘われたアダムはズボンを脱ごうとしますが、靴を脱ぐわけにはいきませんので果たせません。
あたふたしながら、ほうほうの体で退散します。
間抜けですよね。
私ならば別室で裸になり、靴だけを履きなおして、事に臨むでしょう。
悪徳ギャングから、5万ドルもせしめておきながら、それを返しに行くとは何事でしょう?
そのことから様々なトラブルに見舞われることになっていくのですから。

突っ込みどころ満載のストーリーですが、お伽話とみなせば、まあ、そこそこの作品かもしれません。
しかし、このてのストーリーは邦画ではありえませんよね。
考察してみれば、日本には魔法をかけるというコンセプトが存在しないのかもしれません。
おそらくはキリスト教の考え方なのでしょう。
ビビディバビディブーとか口元ピクピクで、カボチャを馬車に変えたり、王子をカエルに変えたり、食器を片づけたりするのが日常茶飯事なのかもしれません。

まてよ、日本にもチチンプイプイなんてのがありましたよね。
でも、あれは魔法では無く、おまじないでした。



セッション

2015年07月24日 | 映画


昨日は、最近話題になっている、"セッション " を電気館で観てきました。

アンドリューは19歳でJAZZの専門学校としてはNY最高峰のシャッファー音楽学校に通うドラマーです。
ある日、ひょんなことからフレッチャーの目にとまり、彼のバンドに拾われます。
フレッチャーは学校No.1のバンドマスターでした。
しかし、彼の教え方は、怒りと罵りとサディズムにあふれており、生徒たちは全員が彼の恐怖に慄きながら耐えていました。
アンドリューは控えのドラマーでしたが、努力と偶然も重なって主席ドラマーの地位につきます。
コンクールの晴れ舞台に臨んだアンドリューでしたが、遅刻しそうになって交通事故を引き起こし、血だらけでドラムを叩きますが、失敗に終わります。
演奏直後にフレッチャーに、お前は完全に終わったと罵られたアンドリューは、彼に殴りかかり、学校を退学になります。

失意のうちに故郷に戻っていたアンドリューでしたが、そこのJAZZクラブでフレッチャーがピアノを演奏していることを知ります。
フレッチャーは音楽学校を馘首になっていたのです。
実は、フレッチャーの生徒で鬱になり自殺した生徒が出たのですが、
その生徒の弁護士が、アンドリューから匿名を条件に、サディスティックな指導の実態を聞き出し、学校に報告したからなのです。

クラブでの演奏中に、フレッチャーは客の中にアンドリューを見つけます。
フレッチャーは2週間後にカーネギーホールで開かれる新人JAZZ MEN のコンサートにアンドリューを誘います。
現在のドラマーのレベルが低いことと、曲目が、以前にアンドリューが必死に練習した、WIPLASHとCARAVANだったからです。
新人にとってはスカウトされるチャンスもある、願ってもない晴れ舞台です。
アンドリューは参加を決心します。

以下、演奏会に突入するのですが、ネタバレにするのがもったいないのでアップしません。

私が、もともとJAZZが好きということもあって、面白く感動できました。
お薦めです。

さて、最近話題になっていると紹介したのは、菊地成孔という52歳のJAZZ演奏者 ( サックス ) がそのホームページで
16000字もの長文で、この映画をさんざんにけなしたからです。
私もそれを読もうと努力してみたのですが、あまりにも稚拙な文章に辟易として、すぐにギブアップしてしまいました。

まあ、プロの耳には演奏が2流の物に聴こえるのでしょうが、これは映画なのです。
上から目線で、" 演奏はイマイチだよね " などと威張るのはいかがなものでしょうか?

るろうに剣心・京都大火編への投稿

2015年01月08日 | 映画
昨年の8月4日にアップした上記記事に対して、unknownさんから投稿をいただきました。
まさにその通りで、私こそ素直に謝る必要があるようです。
unknownさんには、これまでにも何回かコメントをいただいており、感謝しております。
今回のご指摘も的を得たもので、気持ちよく受け入れさせてもらいます。
有難う御座いました。

100歳の華麗な冒険

2014年12月19日 | 映画








昨日は電気館で上記を鑑賞しました。

スウェーデンでのベストセラー小説を映画化したものです。

老人ホームに住むアランは100歳の誕生日に、部屋の窓から逃げ出します。
逃げ出したというよりも、出発したという表現の方が正しいのかも知れません。
ひょんなことからヤクザの大金入りのカバンを手に入れたアランは仲間を増やしながら
ヤクザや警察の追跡を振り切るというストーリーです。

そのストーリーの合間にアランの若い頃からの数奇な人生が紹介されていきます。

少年時代のアランは、何故か爆弾作りにはまってしまい、偶然通りかかった男を爆死させます。
刑務所に収容されたアランは出所後にスペインの内戦に参加し、次々と重要な橋を爆破していきます。
そして偶然ではありますがフランコ総統の命を救います。

その後の第二次世界大戦では爆弾作りの腕前を見込まれて、アメリカのマンハッタン計画に参加し、
原爆の完成直前で壁に突き当たり悩んでいたオッペンハイマーにさらりと重要なヒントを提示します。
原爆は完成し、喜んだ当時の副大統領トゥルーマンからライターをもらいます。
終戦後は原爆製造を目論むソ連に招聘されますが、酔っぱらってスターリンに罵声を浴びせて収容所送りとなります。

冷戦時代はレーガンとゴルバチョフの間で二重スパイとして、綱渡りとでも呼べるような危険な任務を数年間も遂行していきます。

この作品のジャンルは、" 大人のおとぎ話 " でしょうか。
とぼけたコメディーですが、アランの、" なるようにしかならない。 " という開き直った人生観が渋く光ります。

少年時代を除けばアランは30歳くらいから100歳までを一人の俳優が一回70万円とも言われる特殊メイクを駆使して演じきります。
で、一体何歳の俳優なのか検索してみると49歳でした。
ノーメイクの写真をアップします。




悪童日記

2014年10月31日 | 映画








昨日は電気館で上記を鑑賞しました。

原作者はハンガリー人女性であるアブタ・クリストフです。
1935年生まれですので、生きていれば78歳くらいでしょうか。
1956年のハンガリー動乱でスイスに亡命しました。
彼女は1986年に悪童日記をフランス語で執筆しフランスで出版しました。
彼女の処女作ですが、計算すれば51歳でのデビューだったことになります。

第二次世界大戦下のハンガリーの田舎町のはずれにある農家が舞台です。
ブタペストに住む母親が、田舎に独り住む祖母のもとに、双子の兄弟を疎開に出したのです。

この作品は、質が高く、お勧めですのでネタバレを避けます。
とにかく主役の双子の少年のキャラクター付けに感心させられてしまいます。
異常な環境の中で、泣きわめくことも無く、クールに経験値を積んでいき、やるべきことについては、ためらいを見せません。
戦争映画ではありませんので、無理やりジャンルを当てはめるならば、" 子供版のハードボイルド映画 " でしょうか、
全編に、ハードボイルド特有の、 " 抑制 " がよく利いた作品です。

悪童日記はアブタ・クリストフの3部作の1作目だそうです。
例によって?映画化は絶対不可能と言われてきた小説でした。
2作目、3作目も期待できるかもしれません。

この映画は2013年に完成したのですが、アブタ・クリストフはそれを見届けることも無く2011年に死亡しています。

ジゴロ・イン・ニューヨーク

2014年08月25日 | 映画
昨日はT君に、KONS の吏菜ちゃんと阿蘇グランヴィリオに行ったのですが、雨のためにプレーを断念し引き返しました。
2週前にもT君と二人で同じ目に遭いました。
今年の夏は6月10日にプレーして以来、雨のために一度もゴルフができませんでした。
一度だけスタートできた日もあったのですが、10番のグリーン上で土砂降りとなり避難するような状況で中止となりました。
結局、3か月間ゴルフが出来なかったのです。こんな夏は記憶にありません。

夕方の6時に焼き鳥屋に集合して飲むことになったのですが、それまではすることがありません。
そこで、映画を観て時間をつぶすことにしました。









ジョン・タトゥーロが脚本、監督、主演を務めています。
ウッディー・アレンが共演ですが、彼が他人の監督する映画に出るのは十数年ぶりなのだそうです。
それだけ、この脚本が気に入ったということなのでしょう。

この作品には好印象を持ちましたが、ネタバレが作品鑑賞の妨げになるようなストーリーでは無いので紹介します。

ニューヨークの下町で古びた本屋を経営するアレンですが、店は暇で、もうたたむしか無いような状態です。
ジョンも花屋と配管工などを掛け持ちしながら貧乏暮らしを続けています。

アレンには毎週通う皮膚科があって、そこの女医がシャロン・ストーンです。
ある日シャロンは、自分はレズだけど3Pの相手をしてくれる男を探しているとアレンに告げます。
アレンは即座に、" 1000ドルの男を知っている。 " と答えます。

アレンはその話をジョンに披露し、" 1000ドルの男は君だよ。 " とビジネスコンビの結成を呼びかけます。
最初は抵抗したジョンでしたが、演技をすればいいんだというアレンの説得に従うこととなります。

そして、まずは、シャロンと寝ることになるのですが、それまではショボい花屋に過ぎなかったジョンが
素晴らしくイケテるチョイ悪オヤジに変身します。
女の話に耳を傾けるが、クールで深入りせず、ウィットとユーモアにあふれたセリフを連発します。
ジョンに満足したシャロンはレズの相手を紹介し、ポン引きアレンと男娼ジョンのコンビは順調にビジネスを展開していきます。

ところで、アレンの住んでいる地区には敬虔なユダヤ教信者が数多く住んでおり、アレンも信者ではありませんがユダヤ人です。
その中に、6人の子供たちを育てる未亡人のバネッサ・バラディがおり、アレンとは顔なじみです。
彼女のストイックな生活に不憫さを感じたアレンは、ジョンをユダヤ人のヒーリング施術師に仕立て上げてバネッサを受診させます。
敬虔なユダヤ人女性は他人と握手することを禁じられており、自分の髪の毛さへ見せてはならないのでカツラをかぶって外出します。
バネッサを迎え入れたジョンはユダヤ教で許された食材のみを使用した手料理をふるまい、優しく彼女をねぎらいます。
そして、マッサージ台にうつ伏せになった彼女の背中を優しく撫で続けます。
すると、バネッサは泣きじゃくり始めます。そして、 " 長い間、誰も私に触ってくれなかった。 "と言います。
背中を撫でるだけの関係ですが、ジョンとバネッサは恋に落ちてしまいます。

さて、ジョンはシャロン達との3Pにチャレンジしますが、途中で、" 無理だ。 " とギブアップします。
そこでシャロンは鋭く、 " 恋をしたのね。 " と見抜きます。
この時のシャロンの勝ち誇ったような表情は、さすがに名女優だなと思わせるものがありました。
そしてレズの相方と二人でジョンを祝福します。
祝福する彼女たちの不遇さ、寂しさがなんとなくクローズアップされます。

その後は私たち日本人には理解できないユダヤ教がらみの展開となりますが、まるで興味が湧きませんでした。

まあ、しゃれたコメディーと恋愛映画として結構楽しめました。お勧め度80%です。

夜は、" たば鳥 " で飲んだのですが、なんと吏菜ちゃんが禁煙していました。
仕事上、目の前でスパスパと煙草を吸われることが多々あるはずですので、すごいことだと思います。

ジョニ黒をみんなでガバガバと飲みながら、私は昔に作ったおやじギャグを披露しましたが受けませんでした。
自分ではなかなかの出来だと思っているので、やけくそでアップします。

牛丼屋で、 " つゆだく " という注文の仕方がありますよね。
では、それに唐辛子を大量に振りかけたら何になるでしょう?

答えは、 " 汗だく " です........失礼しました。


2つ目の窓

2014年08月22日 | 映画




昨日は木曜午後休診を利用して電気館に行ってきました。
脚本、監督を河直美が一人で手掛けています。



45歳の女流監督で、この作品はカンヌ国際映画祭に出品されますが、彼女自身4回目の出品となります。

奄美大島に住む母子家庭の高校一年生界人 ( カイト ) と同級生杏子 ( キョウコ ) の微妙な恋愛がメインテーマなのですが、
杏子の母親を病名こそ分かりませんが、末期の病人に設定して、自宅で近所の人たちの沖縄音楽演奏に見送られて臨終させるサブテーマがあり、
さらに、界人の母親に男ができて、そのことに界人が切れて喚き散らすというベタなエピソードが重なります。
喚き散らしたその晩に、たまたま上陸した台風の中、界人の母親が行方不明になります。
結局、翌朝、必死になって探しに来た界人を母親が抱きしめてエンディングとなります。

このあらすじだけでは、カンヌに出品する内容には不十分でしょう。
そこで、何かの象徴かなと観客に推理させる、無駄なエピソードがちりばめられていきます。

まず、冒頭で奄美の海岸で水死体となっている男を界人が発見します。
男は全裸のうつ伏せ状態で、背中一面には見事な竜の彫り物が施されています。
そして、なぜか、界人は突然に、別れた父親に会いに行きたいと母親に言い出します。
界人が東京の父親を訪ねると、彼は入れ墨のデザイナーを生業としており、部屋には似たような竜の彫り物も飾られています。
さらには、冒頭の水死体となる全裸の彫り物男が、荒れ狂う海に自殺目的で入って行き、
その彫り物の後ろ姿を、これまた全裸の界人の母親が絶叫しながら見送るというシーンを流して、結局は界人の夢だったという
私が最も忌み嫌うB級映画の約束処方?を展開します。

また山羊を屠るシーンが10分近くも延々と続きます。
4本の足を縛られて逆さまに吊るされた山羊が頸動脈を切断されます。
動脈血が洗面器の中にポタポタと溜まっていき、山羊の鳴き声が次第に弱々しくなって死に果てるまでを執拗に撮り続けます。
あざとい手法だと思います。

これらのエピソードに加えてというか、混在させて、奄美の自然の美しさを映像で自慢し続けます。

このようにして、たくさんのコンテンツが押し込まれた作品となってしまいました。
しかし、私はこの内容に、反って空虚な印象を受けてしまいました。

原因は界人へのプアなキャラクター付けにあります。

作者は女性ですので、思春期の杏子へのキャラクター付けには目を見張る物があります。
エンドステージにある母親への心配と愛情、ぶっきらぼうで心を開かない界人への不満など
実に斬新で感心してしまいました。

それに引き換え、界人のキャラは、無口で、IQの低い中学1年性レベルで、何一つ自己主張が出来ないというものです。
唯一の自己主張が母親に対する喚き散らしですので話になりません。
作者は高校一年生の男子を全く理解していません。
理解していないので、ちゃんとしたセリフを与えることができなかっただけなのです。

この二人は杏子の提案で、ラストではSEXをして、全裸で手をつなぎあって海中を泳ぎます。
エンディングの映像としては審査員受けするものかも知れません。

しかし、物語のメインテーマであるヒーローの貧弱さが、この作品を空虚なものにしていると思います。

また、タイトルが何故 ”2つ目の窓 " なのか、とうとう分からずじまいでした。
もちろん英語タイトルの STILL THE WATER も意味不明です。
この映画を観て看破された方は是非、教えて下さい。

日本の素晴らしい入れ墨、奄美の自然、奄美の音楽、自宅で死を受け入れるということ、などなど外国人にうけそうなコンテンツ満載です。
カンヌグランプリを最初から念頭に置いて作られた作品ではないかと感じるのは私だけでしょうか?