水泳の世界選手権がロシアで開催されています。
昨日の渡部香生子選手の200個人メドレー決勝は素晴らしいレース展開での銀メダルでした。
100のターン時にはビリだったのですが、150で4位に上がってきました。
しかし3位の選手とは、まだ一身長近くも差がありました。
なんとか銅メダルに手が届かないかなと期待して観ていたのですが、残り25mで3位に追いつきました。
さらに残りの10mで2位に追いつき、タッチの差で銀メダルをゲットしたのです。
水泳のレースでこれほど感動したのは久方ぶりでした。
私の少年時代は、やっと全国の小学校にプールが建設された頃でした。
小学校の5年6年には水泳部で随分と練習した記憶があります。
しかし、ほとんどの中学校には未だプールは有りませんでした。
私の母校である百道中学校にもプールは無く、私はバスケット部に入りました。
バスケットは面白くはあったのですが、シューズやユニフォーム、ジャージなど、結構金がかかります。
そこで、修猷館に入学した時に、一番金がかからない水泳部を選択しました。
修猷館のプールが新築されたばかりということもあって、入部希望者は30人を超えました。
しかし先輩たちの過酷な指導に音を上げる者が続出し、1か月後には10人も残りませんでした。
さて、同期で入部した中に虎石龍彦というスーパースターがいました。
彼が通っていた中学校には、珍しくもプールがあって、彼は水泳部上がりだったのです。
彼の素晴らしい泳ぎを眺めながら、私は親友の緒方良と、” いつかは抜いてやる ” と話していました。
その会話を上級生に立ち聞きされてしまったようで、” 素質が違いすぎるから、その可能性は無い! ”と言われたのです。
その夜から、私と緒方良は、当時流行っていたスポコンドラマさながらの特訓を開始しました。
練習が終わったら、帰宅して、夕食を食べ、8時に再び集合して泳ぐというものでした。
プールは防犯のためか、2階部分に作られていたのですが、私たちは校舎の2階の窓を利用してプールに忍び込むルートを開拓していました。
そして6月に虎石と私の決戦の時がやってきたのです。
新人戦の4継( 400m自由形リレー ) のメンバーが2年生だけでは1人足りず、私と虎石との勝負で勝ったほうが選ばれることになったのです。
勝負に先立って、私は初めて作戦というものをたてました。
それまではペース配分などという概念を知りませんでしたので、最初から飛ばして、最後はバテるということを繰り返していたのです。
そこで、前半の50mを楽に泳いで、勝負は75mのターンからかけることにしたのです。
実際に、レースは私の思惑通りに進み、私の快勝に終わりました。
観戦していた緒方良は、50mで私が一身長離された時には、全然駄目だと思ったそうです。
しかし、虎石本人は75mのターンで追いつかれたときに自分の負けを覚悟したそうなのです。
この勝利体験で、私は確実に幸福になれる方法を理解しました。
それはコツコツと努力してスキルを上げ、それを自覚することです。
水泳という競技の利点は、自分のアチーブメントを記録として正確に把握できるということなのです。
当時は、練習を1日休んでも記録は落ちないが、2日休むと元に戻るのに3日かかるし、3日休むと1週間かかるような気がしていました。
そのせいか、ボウリングでもゴルフでも毎日練習を続けたがる傾向にあります。
また、水泳をやっていた者の習癖として、どんなスポーツをするにせよ、入念な準備運動を欠かしません。
ボウリングに関しては、ある程度の達成感があります。
しかし、ゴルフに関しては、まるでありません。
当分は、妹に勝利することによって得られる、ささやかな達成感でよしとすることにします。
昨日の渡部香生子選手の200個人メドレー決勝は素晴らしいレース展開での銀メダルでした。
100のターン時にはビリだったのですが、150で4位に上がってきました。
しかし3位の選手とは、まだ一身長近くも差がありました。
なんとか銅メダルに手が届かないかなと期待して観ていたのですが、残り25mで3位に追いつきました。
さらに残りの10mで2位に追いつき、タッチの差で銀メダルをゲットしたのです。
水泳のレースでこれほど感動したのは久方ぶりでした。
私の少年時代は、やっと全国の小学校にプールが建設された頃でした。
小学校の5年6年には水泳部で随分と練習した記憶があります。
しかし、ほとんどの中学校には未だプールは有りませんでした。
私の母校である百道中学校にもプールは無く、私はバスケット部に入りました。
バスケットは面白くはあったのですが、シューズやユニフォーム、ジャージなど、結構金がかかります。
そこで、修猷館に入学した時に、一番金がかからない水泳部を選択しました。
修猷館のプールが新築されたばかりということもあって、入部希望者は30人を超えました。
しかし先輩たちの過酷な指導に音を上げる者が続出し、1か月後には10人も残りませんでした。
さて、同期で入部した中に虎石龍彦というスーパースターがいました。
彼が通っていた中学校には、珍しくもプールがあって、彼は水泳部上がりだったのです。
彼の素晴らしい泳ぎを眺めながら、私は親友の緒方良と、” いつかは抜いてやる ” と話していました。
その会話を上級生に立ち聞きされてしまったようで、” 素質が違いすぎるから、その可能性は無い! ”と言われたのです。
その夜から、私と緒方良は、当時流行っていたスポコンドラマさながらの特訓を開始しました。
練習が終わったら、帰宅して、夕食を食べ、8時に再び集合して泳ぐというものでした。
プールは防犯のためか、2階部分に作られていたのですが、私たちは校舎の2階の窓を利用してプールに忍び込むルートを開拓していました。
そして6月に虎石と私の決戦の時がやってきたのです。
新人戦の4継( 400m自由形リレー ) のメンバーが2年生だけでは1人足りず、私と虎石との勝負で勝ったほうが選ばれることになったのです。
勝負に先立って、私は初めて作戦というものをたてました。
それまではペース配分などという概念を知りませんでしたので、最初から飛ばして、最後はバテるということを繰り返していたのです。
そこで、前半の50mを楽に泳いで、勝負は75mのターンからかけることにしたのです。
実際に、レースは私の思惑通りに進み、私の快勝に終わりました。
観戦していた緒方良は、50mで私が一身長離された時には、全然駄目だと思ったそうです。
しかし、虎石本人は75mのターンで追いつかれたときに自分の負けを覚悟したそうなのです。
この勝利体験で、私は確実に幸福になれる方法を理解しました。
それはコツコツと努力してスキルを上げ、それを自覚することです。
水泳という競技の利点は、自分のアチーブメントを記録として正確に把握できるということなのです。
当時は、練習を1日休んでも記録は落ちないが、2日休むと元に戻るのに3日かかるし、3日休むと1週間かかるような気がしていました。
そのせいか、ボウリングでもゴルフでも毎日練習を続けたがる傾向にあります。
また、水泳をやっていた者の習癖として、どんなスポーツをするにせよ、入念な準備運動を欠かしません。
ボウリングに関しては、ある程度の達成感があります。
しかし、ゴルフに関しては、まるでありません。
当分は、妹に勝利することによって得られる、ささやかな達成感でよしとすることにします。