はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

初めてのリハビリ目撃

2013年02月26日 | リハビリ
カミサンが入院して40日が経過しました。
リハビリは順調で、ほとんど動かなかった左手は、リモコンを持ち上げて肘を曲げ、胸に近づけることができるようになりました。
もちろんそこから逆の手順で、元の場所に置くこともできます。
握手をしてみましたが、握力も5くらいまでは回復しているようです。
握力が20まで回復すればゴルフには十分ですので、右打ちのままのゴルフ復帰も夢ではありません。
歩行はといえば、昨日は右手で杖をつきながらではありますが、自力で体育館を2周したそうです。
左膝の装具も、太腿まであったものが、膝までのコンパクトな物に替わりました。
体重もBMI21.1とベストな状態です。

私にとって、この3、4週間は毎日夕食を持って行くのが日課となりました。
カミサンも糖質制限を始めたので、病院食には、ほとんど手を付けないことが多いからです。
豆腐とアゲと日替わりの野菜に半熟卵をいれた”具だくさんの味噌汁”が、カロリー的に必須です。
それにステーキや刺身、煮魚、唐揚げ、ケンタなどをリクエストに応えて持って行きます。
おかげで、私も味噌汁を飲む機会が増えて、今年になって今日までに、なんと29杯もたいらげています。

私は患者さん達がリハビリから復帰して来るのは何度も目にしていますが、実際にリハビリの経過を毎日、目のあたりにするのは初めてです。
リハビリの凄ましい効果を、毎日毎日、目撃し続けて、驚いています。

人は、失って初めて、その物の価値を知ると言います。
失った物を、努力によって取り戻せるのならば、そういう人生を不幸と呼ぶべきでは無いように思えてきました。


今月の検査結果

2013年02月22日 | 糖質制限食
GOT:23、GPT:17、γ-GTP:27など、いつものごとくに正常値が並びましたが、今月は中性脂肪が356と上昇していました。
原因は不明です。ケトンは1600も有りますので、糖質摂取は無かったはずです。
そして、白血球は5900と正常なのに、CRP(炎症反応)が1.15と初めて陽性になりました。
採血日時は2月の13日ですが、2月18日に軽い感染性胃腸炎を発症しています。
13日の時点で、すでに罹患していたのかも知れません。
しかし、そのコンディションにもめげずに、15日は、”たば鳥”に、16日はボウリング大会の二次会で、”安楽”に、
17日はゴルフの帰りがけに焼き肉屋の、”大盤振舞”に、18日は、”蔵”にと、妹と飲み続けました。
最後の”蔵”では、さすがに一次会でギブアップしてしまいました。

その反動で、今週は、火曜、水曜、木曜と3日続けて飲みに出ませんでした。
数えてみれば、今年になって52日が経過しています。
正月の3が日を除けば49日です。
その中で27日も飲みに出ています。
つまり、飲みに出る方が多いということのようです。
今夜は、”軽く”飲みに出るつもりです。
決して、”軽く”では終わらないのですが、こういう表現の方が、気がとがめられずに済むのです。


不幸の量と長さ

2013年02月20日 | 時事ネタ
18歳の少年が無免許運転で居眠りをして、登校中だった児童や母親ら10人をはね飛ばし、3人(プラスお腹の子)を死亡させた事件の判決が下されました。
5年から8年の不定期刑だそうです。
私は法律に関しては素人ですので量刑については何ともコメント出来ません。
しかし、裁判長が述べた量刑軽減の理由で、”本人も反省しているから。”というのは納得できません。
そもそも反省の意味とは何なんでしょうか?
”本当に悪いことをしました。心から謝ります。”と言うことでしょうか。
心の中では、”しくじった、ついてねーや。”と思っているかも知れないのです。
裁判官は本当に反省しているかどうかを判定できるのでしょうか。
”お前ら、何様のつもりじゃー!”と怒鳴りたくなります。

百歩譲って、本当に反省しているとしても、それを量刑に反映させるのは、”罪刑法定主義”に反するのではないでしょうか。
犯人の反省は、遺族にとって何の慰みにもなりません。
遺族は犯人が反省を表明し、量刑を下げられるのに納得するはずもありません。

量刑が5年から8年の不定期刑になりましたが、服役態度で出所時期が決まるのでしょう。
刑務所側にとっては、不定期刑は模範囚を作り出す制度として歓迎されるでしょう。

遺族は事故現場や、子供達が遊んでいた公園を見るたびに胸を痛めるでしょう。
5年後にも、死んだ子の歳を数えて、生きていたならばあの子と同じくらいかなと、他人の子をながめるでしょう。

5年後に犯人は出所し、ビールを飲みながらテレビを見て笑い、やがては結婚して子をもうけるでしょう。
もう事件を反省する必要にも迫られません。
事件を思い出し、胸を痛めるはずもありません。

圧倒的に被害者と遺族の、”不幸の量”と、”不幸の長さ”が多すぎるように思えます。


2月17日のゴルフ

2013年02月19日 | ゴルフ
日曜日は城南ゴルフクラブを妹と由真、それにT君とラウンドしてきました。
結果は由真が80打の32パット、妹が100打の37パット、私が105打の35パット、T君が106打の37パットでした。

インスタートだったのですが、T君は10番でのパー4でいきなり9打をたたくという最悪のスタートでした。
私もパーオンしたのですが3パットのボギーでした。
妹は作戦通りに3オンしていましたが、そこからの5mくらいのパットがスルスルとカップに吸い込まれて絶好のパースタートでした。
15番のパー4で私もT君もオーバーした寄せをチョロチョロしあってそれぞれ9と8をたたき、妹を楽にしてしまいました。
結局前半は妹が50 、私が53、T君が56でした。

後半はT君が奮起して、3番、4番の連続パーなどで5ホールを4オーバーで終え、7オーバーだった妹にくらいついていきます。
私はついて行けず、逆に、T君に1打差と迫られました。妹とは5打差です。
6番はハンディキャップ1の長いミドルです。
T君のドライバーショットは素晴らしい当たりで推定280ヤードさきのフェアウェーど真ん中に落ちました。
ところが、そこからグリーンを狙ったショットは右のサブグリーンのさらに右のワンペナゾーンに飛び込んでしまいました。
そこからのバンカー越えの寄せは届かず、バンカーからは2回出せず、3回目に出たもののグリーンオーバー。
そこからチョロしたりして、結局11をたたき、ゲームセットとなりました。
ボギーオンの妹の3パットで私との差は残り3ホールで4打です。

7番は140ヤードくらいの池越えショートホールです。
妹のショットはかろうじてバンカーを越えました。
スタンスがとれないと不平を言いながら放った妹の10ヤードくらいの寄せは、またまたスルスルとカップにすいこまれてナイスバーディーです。
このホールで勝負がつきました。
じつに面白さに欠ける展開でした。





轟沈

2013年02月18日 | ボウリング


2月16日の土曜日に第14回目の”はせがわクリニックボウリング大会”がラウンドワン田崎店で開催されました。
私の成績は、なんと、168、179、158で TOTAL:505 AVE:168.3で、5位に終わりました。
ラウンドワン田崎店を利用するようになって5年ほどになりますが、180AVEに届かなかったのは初めてです。
170AVEを打てなかったのはこの10年間でも記憶にありません。
惨敗でした。
歯科医の I 先生が221.7AVEで順当に優勝されました。
飛び入り参加の妹が139AVEでしたが、1ゲームにつき30ピンのハンディを活用し、5位の私と6位のT君をさしおいて4位にくいこみました。
うちの婦長も7位と健闘しました。

第一回大会からの約束で、業者がスクラッチで院長に勝てば、即、なんでも一品目納入する権利が発生すると決められていました。
今まで一度も無かったことなのですが、今回は2名も発生させてしまいました。
とりあえずは2次会で、その約束は今回をもって終了すると宣言しました。

ストリーキング

2013年02月16日 | 昔話
昨夜は熊大医系水泳部の現役、OB数十名が、”銀杏釜飯”に集合して、水泳部の顧問である赤池孝章教授の送別会を開きました。
微生物(正確には、熊本大学大学院生命化学研究部微生物学分野)の教授である彼の、”活性酸素”に関する研究を評価した東北大学が引き抜きに成功したのです。
2回ほどアメリカでの客員教授を務めた経験はあるものの、それ以外は熊本から一度も出たことは無いそうで、ずいぶんと迷ったそうですが、東北大学側の、
”ただ、研究だけしてもらえれば結構だと思って下さい。”という申し出に心が動いたそうです。
熊本大学とは違って、旧帝大クラスになると、教授選考は、派閥も無く、縁故や自薦も無く、ただただその時点での日本における研究や論文や将来性で候補者を選び、
スカウトをしかけるシステムなのだそうです。
もちろん、”旧帝大からの勧誘を断れるはずも無い。”との思惑が見え隠れしますが....

彼との思い出で印象に残っているのは岡山で開催された西日本医系水泳部水泳大会(西医体)です。
閉会式の後は全大学が大広間に集まって大宴会が始まります。
もともとが裸に近い水泳部ですから、繰り出される芸は殆どが、”脱ぎ芸”です。
久留米医大名物の、”洗濯屋”(ただ単に全員で裸踊りをするだけの芸です。)をはじめ、次々と脱ぎ芸が続きます。
女子部員も2割近くは居るのですが、おかまいなしです。
熊大も女子部員を一人だけ連れて来ていたのですが、その娘は私の頭越しに、”脱げ!、脱げ!、全部脱げ!”と叫んでいました。

2次会、3次会と人数が減っていき、途中のスナックで脱ぎ芸を披露して追い出されたりもしましたが、6次会を終えた時点で残ったのは10名くらいでした。
岡山の繁華街を流れる川っぺりに来たときに奈良県立医大のキャプテンが突然、”泳ごう!”と言い出しました。
そこで、”よしっ!”とスッポンポンになったのは私と赤池だけでした。
川の規模は白川の半分以下だったように記憶していますが、それでも簡単には川まで降りれそうにもありません。
そこで、”赤池、走るぞ!”と叫んだ私は、岡山の川っぺりをスッポンポンでペッタンペッタンと走り始めました。
向かい側からタクシーが来て停車し、後部座席の客が窓を開けて私達に、”ストリーキングや、ストリーキングや!”と岡山弁で指摘してきますが、
気にせず、手を振って挨拶し、やり過ごしました。
そして、やっと川に降りることができ、二人で泳ぎ始めました。
赤池はその大会の200m背泳ぎで優勝するほどの達人でした。
ところが泥酔していましたので、水流に負けて流され始めるではありませんか。
私は一気に酔いが覚めて、”赤池っ!大丈夫かっ!”と彼を抱え上げ、土手まで運びました。

翌朝、なんだか騒がしいので目を覚ますと、私のフトンを4人のオバチャン達が取り囲んでいて、
”いくら何でも、もう起きてもらわないと....”と話し合っているではないですか。
まわりを見渡して状況を確認すると、私は200畳もある大広間の真ん中にたった一人寝かされていたのです。
毎年、大会最終日の晩は全大学が大広間に雑魚寝をするシステムなのです。
私は、”ウーン”と起き上がったのですが、ドブ川の臭いが鼻につき、髪の毛は爆発して固まっていました。

みんなは、どうしても目を覚まさない私を見捨てて、市内観光へ出かけていたのです。
後で、私が、”おまえら冷たいっ!”と怒り狂ったことは言うまでもありません。

”銀杏釜飯”での一次会が無事終了しましたが、赤池教授は私に二次会を希望しました。
そこで、彼をスナック、”安楽”へと誘導しました。そこに妹を待たせていたからです。
3人で楽しく飲んで歌って騒いだのですが、妹は彼が自分よりも年下だと知ると、なんだか上から目線で会話していました。
”つつましやかな性格”という日本語があります。
どなたか反意語をご存じの方があれば、是非、教えて下さい。

続・パチプロ人生

2013年02月14日 | 昔話
その、ドラム回転型のセブン機は2年くらいで消滅しました。
おそらくは、私のように、仕組みを見破るパチンカーが増えてきたせいでしょう。

次に登場してきたのは、ドラム部分がデジタル表示に替わったセブン機でした。
ただし大当たりは111、333、555、777、999と奇数のゾロ目すべてとなりました。
左側のデジタル数字は一回の回転で3ずつ増えていきます。
つまり、0-3-6-9-2-5-8-1-4-7-0を繰り返すのです。
以下は全く根拠のない私の勝手な想像ですが、プログラムの内部には6つの、”島”があるのではないのか。
そして、大当たりがたくさん入っている島が一つ、少しだけ入っている島が一つあるだけで、他の4つの島には大当たりは一つも入っていないと考えたのです。
ある島に入ったら、しばらくは抜け出すことができません。
どういうきっかけで、その島を飛び出すのかといえば、惜しい目(773や114,332、994など)が出たときだと考えたのです。
さきほど紹介したように、左端のデジタルは偶数と奇数を繰り返します。
基本的に左デジタルが偶数では惜しい目は出ませんので、左デジタルが奇数の場合はストップボタンを押し、偶数の場合は押さないようにしました。
惜しい目が出たときは、その島がどういう島であるのか見極めるために20回はなにもせずに回します。
この単なる私の根拠もない仮定に基づいた作戦ですが、時給2000円くらいにはなりました。
ただ、医者になり、時給2000円が魅力的では無くなったので、次第にパチンコから遠ざかっていました。

ところが、当時行きつけだったスナックのホステスがパチンコマニアで、話題がパチンコに及んだ時に、私は、”毎日行けば30万くらいは勝つと思う。”と言いました。
すると、そのホステスは、”先生が本当に30万勝ったならば、なんでもしてあげる。”と言うでは有りませんか。
翌日から私は、6時に仕事を終えると、街中の、”まるみつパチンコ”に毎日通い詰めました。
毎日記録を取っていったのですが、30日通って、負けた日は一日だけでした。
TOTALで32万5000円のプラスでした。

意気揚々と、そのホステスに戦果を報告に行ったのですが、ホステスは私の手を握って、”ハイ、これで終わり。”と宣言するだけでした......

平成7年の7月にストップボタンが全面的に禁止になりました。
もう、工夫のしようがありません。きれいに足を洗いました。
その時点で振り返って、自分がパチンコで生涯いくら稼いだのかを計算してみましたが、どんなに低く見積もっても800万は超えているだろうと思われました。

パチンコを止めて暇をもて余した私は、代わりにゴルフに手を染めました。38歳の時です。

振り返れば、パチンコは、若い頃の私に、そこそこの稼ぎを提供してはくれましたが、人生の無駄遣いだったように思えます。
逆に、かなりの時間を消費させられたにせよ、ゴルフには,Quality Of Life を高めてもらったような気がします。

パチプロ人生

2013年02月13日 | 昔話
私は高校2年の春に初めてパチンコに行きました。
同級生に無理矢理連れて行かれたのですが、ビギナーズラックで500円ほど勝ちました。
以後、チョクチョクとパチンコ屋に出入りするようになりました。
振り返れば修猷館高校は煙草以外はすべてフリーパスというユルイ指導体制でした。
パチンコ屋や雀荘で教師と一緒になっても、おとがめは無く、普通に挨拶して遊んでいました。

当時は椅子もなく、立ち打ちで、左手で一個ずつ球を穴に放り込んで、右手ではじくという仕様でした。
勝ち負けは釘を読む能力と、素早く連射できる器用さで決まりました。
私はすぐに、”乱れ打ちのハセガワ”という異名をとり、釘を読む能力も短期間の内にレベルアップさせていきました。
現在でもそうですが、パチンコ屋の釘は毎日変わるわけではありません。
1/3から1/4の台しか変わらないのです。
したがって、前日によく球が出た台は、次の日も出る確率が高いのです。
夏休みに補修をサボッて、私は連日のように中洲のパチンコ屋へ通いました。
そして、よく出た台(終了台)の番号をこっそりとメモし始めました。
この頃から、パチンコは私にとって、ギャンブルでは無く、仕事のような感覚になってしまいました。
朝イチで入店して、前日終了させた台の釘が変わってないことを確認すると、キョロキョロとまわりを見回しながら打ち続けます。
前日、終了させるのに2時間かかったならば、今日も、それくらいで終了させられるはずだから、
その次に打ちたい台をキョロキョロと注目していたのです。
同級生が力仕事(ドカタ仕事)で丸一日こき使われて1800円しかゲット出来ない時代に、
私は2時間のパチンコで1600円ほど稼いでいたのです。
20歳の時ですが、私は初めて入ったパチンコ屋で、釘を読みながら、出そうな台を探していきました。
そして、ついに一台も見つけることができずに、その店を後にしたのです。
打ちたい台が無いならば打たないというプロ意識のようなものが芽生えていました。

やがて時代は進み、”セブン”というパチンコ台が登場しました。
台の真ん中に、スロットマシンのようなドラムがあって、777が揃って、上のデジタル表示の数字も7になると大当たりが完成するという仕様でした。
いまでこそ様々な攻略本が売られていますが、当時は皆無でした。
私は、まず3つのドラムの展開図を作成しました。
そして、一回の回転で第二ドラムと第三ドラムが2個ずつずれていくことを発見しました。
第一ドラムには3つの7が描かれていますがその上の図柄がすべて違うので区別がつきます。
次の回転で、表か裏の方でかは分かりませんが7が3つ揃うような状態(テンパッテいる状態)は8.5回に一回あることもつきとめました。
そして、その時に、第一ドラムの3つの7のうちの、どれを正面で止めれば7が揃うのかもつきとめました。

朝10時にパチンコ屋に入ります。
100円分だけ球を買います。
8台か9台のうちに1台ある、”テンパッテいる台”を探します。
1回だけ回して目標の7が正面に来るようにストップボタンを押します。
目標の7が画面の下に消えたタイミングでボタンを操作するのがコツでした。
うまく第一ドラムに目標の7を止められた瞬間に7が3つならぶことが約束されます。
上部のデジタルは操作できませんが半分近くは7が出ます。
場内放送で10時1分に、”123番台スタート”の声を聞くことも珍しくはありませんでした。
一度大当たりが出ると、連チャンが来ることがかなり期待できるようなプログラミングでしたから、しばらくは何もせずにただ回すだけでOKでした。
ドル箱(大箱)は足下に5個重ねるのが限界でしたので、球売り場のそばに、私専用の玉置場できました。
上通りにあった、”巨人会館”というパチンコ屋でしたが、常連さんたちとも仲良しになりました。
しかし、私はメカニズムの秘密を決して口外しませんでした。
気のいいおじさんとも仲良しになりましたが、彼は一年足らずで退職金の600万円を使い果たして姿を消しました。
稼いだ金は飲んでも遊んでも無くなりません。
スーツや靴を買い、バイクを買い、県外にアベック旅行を楽しむという贅沢な学生生活でした。

(次回に続く)



勝負の週末

2013年02月12日 | ボウリング
昨日は打ちっ放しとボウリングの連チャンにチャレンジしました。
今週の土曜日に、はせがわクリニックのボウリング大会が、日曜日には妹とのゴルフ対決が控えているからです。
40代の頃には普通にやっていたことなのですが、この歳だとこたえます。
今朝は、足腰にかなりの痛みが残っていました。

ラウンドワン田崎店 5番、6番レーン 使用球:ブラックウィドウ・バイオレント
結果:203,203,182,248,174,214 TOTAL:1224 AVE:204 ストライク率:52% でした。
ある程度はオイルが入っていたので、ブラックウィドウを使用することができました。
右足25枚目からの12枚目膨らませです。
久しぶりですので、指が細くなったせいか、3回ほどボールを落としてしまいました。
10番ピンのスペアも8回のトライで3回もミスってしまいました。
歯科医のの I 先生との一騎打ちになりそうですが、このままでは勝ち目は薄そうに思えます。
最近の I 先生の投球は、スピード、回転、ともに素晴らしく、完全に実力は逆転しているようです。
しかし勝負は水物です。しっかりと210AVEを残して結果を待ってみます。

2月の木曜会

2013年02月11日 | 木曜会
9日の土曜日に、駕町通りからチョットだけ入った所にある”ヒレ肉鉄板焼きのさとう”で開かれました。
とりあえず、ヒレ肉を1Kg注文したのですが、なんと1Kgの塊でドーンと持ってこられました。
表面だけは焼いてもらえるのですが、後は自分たちで適当に切って焼く必要がありました。
結局表面しか焼けていない、”タタキ”に近い料理となりました。
ヒレ肉自体はは、あっさりしているので、私も300g近くを胃の中にたたき込むことができました。

二次会は下通ダイエー裏のバー、”Thank”に行きましたが、翌日がゴルフということもあって早めの散会となりました。
私は一人で”KON’S”に寄ってから帰宅しましたが、なんと、まだ11時半でした。
実に上品な飲み方となりました。

芥川賞

2013年02月08日 | 読書
今朝、文藝春秋の3月号が郵送されてきました。
すぐに、今年の芥川賞を受賞した黒田夏子の、”abさんご”を読み始めました。
”受像者”を始めとして15の短編を集めたものです。
読み始めてすぐに、読むのに難渋する作品であることが分かりました。
冒頭の書き出し部分をアップしてみます。

aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが、
きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから、aにもbにもついにむえんだった。


これは小説というよりも、実験的な散文詩の寄せ集めのように思えます。
確かに日本語の柔らかさは感じられますが、読み疲れがたまっていきます。
頭の中でひらがなを漢字に変換して、高校時代の古典文学の解読を強制されるからです。
面白さを感じることもなく、半分でギブアップしてしまいました。

今日は日本中で文藝春秋を手にした人々が苦しんだことだろうと思います。


毒入りメニュー

2013年02月06日 | 糖質制限食
昨夜はT君とホテル日航で開催された勉強会に出席しました。
2年ほど前に糖尿病の新薬であるインクレチン製剤が日本で発売になりました。
一日に1回内服しておくと、食事を摂って血糖値が上がった時のみに作動するというタイプです。
2年前は小野薬品(グラクティブ)とMSD(ジャヌビア)の2社から発売されました。
その後ゾロゾロと他社からも同じタイプの薬が発売されました。業界用語でいう、”新ゾロ”です。
昨夜はその6番バッターとしてノバルティスから発売された、”エクア”の宣伝を兼ねた勉強会でした。
特筆すべきは、血中インスリン濃度が上がらないことと、心血管イベントを30%も減らしたという結果です。
実に興味深い勉強会でした。

会に先立ち、熊本大学代謝内科の荒木教授が推し進めている”ブルーサークル”のパンフレットが配布されました。
600キロカロリー以下で食塩も3g以下のメニューを提供する熊本県の飲食店の名前とメニューがすべて紹介されていました。
しかし、どれも、炭水化物が80g前後含まれています。
これでは糖尿病の患者さんの食後高血糖は避けられず、普通人でもかなりの量のインスリンが分泌されるでしょう。

糖尿病の人達にとって、炭水化物は食後高血糖を招く”毒”のようなものです。
”バランスのとれたメニュー”と称して、毒入りのメニューを与え、他方で解毒剤のような薬を処方するという
間抜けな治療がいまだに続けられているのです。



Tさんの糖質制限

2013年02月05日 | 糖質制限食
昨年の10月に糖質制限を始めたTさんの経過をアップします。

初診時の24年10月12日と、昨日の25年2月4日の血液データです。

GOT:61が43に
GPT:58が32に
γーGTP:657274
総コレステロール:150が181に
中性脂肪:535が82に、すべて改善されました。注:赤字は異常値です。

体重も激減して、いまや肥満の面影もありません。
仕事柄、深酒を続けざるを得ないようですが、それでもこのデータです。

おめでとうTさん。
今夜は一緒に乾杯しましょう。




初打ち

2013年02月04日 | ゴルフ
昨日は阿蘇グランヴィリオホテルの東コースを、T君、由真とラウンドしてきました。
T君も私もスタート直後はボロボロで、泥仕合の様相を呈してきたのですが、徐々に、お互いに持ち直してきました。

16番ショートをむかえた時点では同点でした。
左に引っかけてグリーンをはずした私にたいして、T君は、ピン右5,6mにナイスオンです。
寄せででチョロした私は2mチョイに3オンするのがやっとでした。
私はそのパットを執念でねじこみました。するとT君が返しの1mをショートして、お互いボギーで17番へと進みました。

17番ミドルで、私の2打目はカラーに乗りました。
T君は4オンがやっとでしたので、引き離すチャンスです。
しかし、カラーからの私のパットは傾斜の読み違いで、5m以上もオーバーしてしまいました。
返しのパットを80cmショートした私はそれをはずします。80cmでもカップをはずす必要のあるフックラインだったのです。
結局二人ともダボでホールアウトし、同点で18番へ進みました。

18番のロングですが私はドライバー、クリークとナイスショットでしたが、8番アイアンでの3打目はグリーン右の花道に5mほどはずしてしまいました。
2打目を失敗したT君は3打目でグリーンを狙わずに、右にきざみました。
そして、そこからの寄せをピン上4mにつけました。
私も花道からパターで、ほんの少しT君の内側につけました。
二人とも下りのスライスラインです。
先に打ったT君の球は予想よりもスライスせずにカップ左10cmにとまりました。
次は私の番です。入れたら勝ちのパットですし、ラインも見せてもらったばかりです。
自信を持って打ったのですが、私も左にはずしてしまいました。
タッチが強すぎたのです。
2m近くもオーバーした返しをはずして、私の負けとなりました。

2ヶ月ぶりのゴルフでしたが、一番錆び付いたのはパットでした。
4パットが2回、3パットが4回ですが、カラーからのパターでの4パットが1回、3パットが2回です。
記録上は42パットでしたが、実際は45パットに近いという悲惨なものでした。

で、結局、TOTALはいくつだったかですって?
妹が安心するのでアップしません。2月17日の対決が待っているのです。

由真も不調で、フロントティーからのプレーだったにも関わらず、78打の31パットでした。


感染性胃腸炎

2013年02月01日 | 健康
昨夜、カミサンの見舞いと差し入れを終えて帰宅する途中で、胃が痛むのを自覚しました。
私の胃が痛むのは稀で、最近10年間では初めてだと思います。
水を飲んで胃液を薄めてみましたが、改善されません。
帰ってすぐに胃酸の中和剤を飲みましたが痛みは取れませんでした。
まあ、酒を飲めば収まるだろうということで、”たば鳥”に行き、飲み食いを始めました。
しかし、胃痛は濃いめの水割りを2杯飲み終えても変わりません。
焼き鳥も6本オーダーしたのですが、4本しか入りません。
少し、寒気もしてきましたので、”感染性胃腸炎”の初期症状であることを認めざるを得ませんでした。
すぐに帰宅して、熱い風呂に入りました。
さらに熱いシャワーを、我慢の限界まで腹にかけ続けました。
私流の、ウィルス撃退法です。(過去ブログで”ゆでだこ療法”を参照して下さい。)

汗だくになって風呂から上がると胃痛は10のレベルであったのが1か2のレベルまで改善されていました。
こうなればシメコノタヌキです。
ピーナツだけをツマミに、ウィスキーを心ゆくまで愉しみました。

今朝は下痢だけは残っていましたが、胃痛はゼロで食欲もOKでした。

今回、久方ぶりの胃痛で、胃痛持ちの患者さんの苦しみが、少し理解出来ました。
確かに胃痛に苦しんでいる時は、自分の意識、考え、人生観の99%が胃痛に占領されてしまいます。
美味しく食べ物がいただけるということは、人生のなかで、基本的人権と同じくらい尊重されるべきことがらかもしれませんね。