送電線 信濃幹線
幕末のころ、母方の祖母は善光寺街道の宿場町刈谷原から、島立村字荒井へ
嫁いだ。
時代は移り大正末か昭和の初期、母の姉(伯母)が、荒井から刈谷原に嫁入りしている、その夫婦は従兄妹だったのかもしれない。
そのころ、荒井と刈谷原を隔てる刈谷原峠に、大きな鉄塔が立ち並び送電線工事が始まった。
鉄塔工事は山を越え、谷を渡り島立村のある松本平を縦断し、文明の息吹を伝えながらさらに南に延びていった。
嫁ぐ娘に対して母が言った「辛かったら帰っておいで、あの鉄塔に沿って山を越えればいいんだよ」
私は伯母から何度もそういう話を聞いた。
きっと伯母にも暗い峠を送電線に沿って走って帰りたいと思うことは何度もあったに違いない、だけれどその話は聞かなかった。
山を越え谷を渡る送電線をみると思いだすことである。
幕末のころ、母方の祖母は善光寺街道の宿場町刈谷原から、島立村字荒井へ
嫁いだ。
時代は移り大正末か昭和の初期、母の姉(伯母)が、荒井から刈谷原に嫁入りしている、その夫婦は従兄妹だったのかもしれない。
そのころ、荒井と刈谷原を隔てる刈谷原峠に、大きな鉄塔が立ち並び送電線工事が始まった。
鉄塔工事は山を越え、谷を渡り島立村のある松本平を縦断し、文明の息吹を伝えながらさらに南に延びていった。
嫁ぐ娘に対して母が言った「辛かったら帰っておいで、あの鉄塔に沿って山を越えればいいんだよ」
私は伯母から何度もそういう話を聞いた。
きっと伯母にも暗い峠を送電線に沿って走って帰りたいと思うことは何度もあったに違いない、だけれどその話は聞かなかった。
山を越え谷を渡る送電線をみると思いだすことである。