鳳凰シャジン
八王子茂木さんにいただいたもの
南アルプス鳳凰三山の岩場に咲くという 霧の中で小さな水滴をまとった姿を想像した。
岩シャジン
昨日の演奏会で、祝い花として子供たちが届けてくれたフラワーバスケットに一鉢入っていた。
ツリガネニンジン
ブログでも紹介した土手に生育する野草 若芽は美味である。
鳳凰シャジン
八王子茂木さんにいただいたもの
南アルプス鳳凰三山の岩場に咲くという 霧の中で小さな水滴をまとった姿を想像した。
岩シャジン
昨日の演奏会で、祝い花として子供たちが届けてくれたフラワーバスケットに一鉢入っていた。
ツリガネニンジン
ブログでも紹介した土手に生育する野草 若芽は美味である。
赤とんぼ
正派創始百周年記念筝曲演奏会
子ども3人に孫一人を加えて演奏会を聴きに行き、休憩時間にホールの喫茶店で子供たちとコーヒーを飲んだ。
こんな形のコーヒータイムは今までありそうだけれど、なかったと思う、多分初めてだろう。
いろんな話を聞いた。
隼人は夏休みに西穂山荘でアルバイトしたこと、冬山登山の装備購入に充てるのだという。
危ないことするなよ、というのが正直な気持ち
高齢者施設で働く子供の話
「90歳をこえるショウトステイ利用者が午後になって、かたくなに家に帰ると云いだした。
この人は神奈川県大和市からS市の孫に引き取られそこで生活している、曾孫さんの行事に家族で出かけるので、施設で預かった。
午前中楽しく過ごしたのだが、午後になると急に人が変わったようになってしまった。
もう遅いから、家(大和市)に帰ると駄々をこね、もうすぐ自動車が迎えに来るからといっても納得せず、歩いて帰ると云いだした。
そして、電源が切られた自動ドアを、体全体で開き、外に出てしまった。
後を追うと、外に佇んでいた彼は、何かを探すように目の前にそびえる山を眺めながら「あの山はなんというのか」と聞いた。
山の名前を聞き、遠くにいることに気が付いたようだ、すっかり萎れて「中で待たしてくれ」といって室内に入り、廊下の片隅の椅子に座った。
「若い者が一生懸命働いているのに、私が一日遊んでいるわけにゆかない、早く帰らないと申し訳ない」と迎えの車が来るまでいい通した。
話を聞いて、私は『何とも切ない話だね』とだけいった。
JR原宿で下りて会場までのケヤキ並木を10分ほど歩いた。
若者と外人さんが多かったが、気を付けて見ると、背筋をピンと伸ばした高齢者も結構歩いている。
強い日差しを遮るケヤキの並木が快かった。
表参道 ケヤキ並木
青山のピーターラビット
小さな子供たちが群がった中心に、兎に紐をつけて散歩している人がいた。
田舎から出て行った私も久しぶりに生きている兎を見た。
秋晴れ 槍 常念に朝日差す 最低気温観測
夕日を浴びて無数の赤とんぼ飛翔 写真に写らない不思議
昨日 白馬山頂に、ひと時雪が降ったという。
日が沈む方位から太陽がスピードを上げて遠ざかってゆくのがはっきりとわかる。
北極圏ではもう冬が始まっているのだろう。
離れていった太陽が接近モードに変わるのは3ケ月も先である。
昨夜会合の帰り、にわかに吹き始めた寒風に首をすくめながら、遠い南の国を思った。
一朱金
先年家の改修の折、唐紙の引手金具を外した僅かな隙間に小さな布袋を見つけた。
端切れを千代紙細工の様に折りたたんで縫った袋の中には、日本紙にひねられた一朱金貨が入っていた。
金貨とはいえ金含有率が10%程度のためか、光沢はなく銀銭の様に黒ずんでいて、刻印の一部に申し訳程度の山吹色がかすかに残っていた。
江戸末期の一朱は現在の金額に換算していかほどの金額になるのだろう、あらゆる基準が変動しており比較は難しいが5千円から1万円というのが近い数値と思われる。
引手の奥にしまい込んだのは誰だろう、この貨幣が流通した文政 天保当時の当主は助衛門で、その妻(室)は天保12年2月に没している。多分亡くなられた室方の細工だろうと思う。
[一朱金について(Wikipediaより)「形状は正方形。表面には、五三の桐紋と下部に「一朱」の文字が刻印されている。 裏面には「光次」の署名が刻印されている。額面は1朱。その貨幣価値は、1/16両、また1/4分に相当する。 二朱金、二分金とともに小判、一分判に対し一両あたりの含有金量が低く抑えられ、補助貨幣的に用いられた。金純度が最低水準であり、他の小判および分金同様に製造時に表面の銀を溶解する色揚げ操作が行われていたが、流通による磨耗からすぐに銀色の地金が姿を現し、さらに火災に遭うと固体拡散のためか銀貨同然の光沢となったという。 また通常、小判および分金は製造過程で一枚ずつ厳密な量目(質量)の検査が行われるが、この一朱判に関しては、五両ないし十両一括で量目の検査が行われるという始末であった。文政7年(1824年)5月から鋳造が始まり、同年7月2日より初めて発行されたが、金純度も低く偽金貨のような色を呈し割れやすいもので、 その上、小さくて扱いづらく紛失しやすい事もあり不評であった。 天保3年(1832年)に鋳造終了、天保11年(1840年)9月末には通用停止となった。」]
底抜けに明るい菊芋の花
台風の余波で、里山の空は蒸し暑い雲に覆われているけれど、菊芋の黄色い花の明るさは、そこだけ日が差しているように輝く。
詳しいことは判らないが、菊芋は大戦末期、軍の奨励で耕地の隅や土手の傾斜地に植えられたようだ。
食糧増産の一環だったかもしれないし、今風に云えば芋からバイオ燃料を精製する計画があったのかもしれない。
芋は煮ても焼いても食べられたものではなかったが、唯一味噌漬だけは独特の歯ごたえがあって旨かったように思う。
しかし 一時の物珍しさ的なもので、常食には至らなかった。
やがて菊芋は人間から見放され、放置された雑草のように繁茂したが、誰も掘り出して食べることはしなかった 。
先年里山に猪が異常に増えたことがあり、菊芋が彼らの味覚に合致したのか、ブルトーザーのような鼻先で菊芋が茂る土手が掘り返されて、食べつくされた。鼻ブルトーザーの馬力はすごく、一抱えもある大石が無造作に転がり出ていた。
最近菊芋に血糖値を下げる特効があるとされて栽培する農家が出てきた。これも今は下火になった、もっと良い薬が開発されたのかもしれない。
我が家では猪が食べ残した菊芋が再生し、薬効を信じて手入れをしたので、途方もない大きな群落となって明るい花が今を盛りと咲き誇っている。
膝のトレーニングを兼ねて里山に入った。
魅惑的な茸があちこちに出ていた。
今まで見かけなかった種類である、噂にたがわず茸の生育は良いようだ。
しかし茸音痴はただ見るだけ、松茸で無いことは確か
もしかしたら珍品の美味しいきのこかもしれない
森の気配
日が西に傾区と、遠くで落ち葉を踏む音がしたり、枯れ枝の折れる音もする。
それらはある距離でぴたりと止まる、茂みの向こうから視線を感じる。
獣か、森にすむ人か、山の神様が見ているのかもしれない
東の空 朝焼け
茸の便りがちらほら
松茸も平年並みに出ているようだ
膝の故障で、山道の上り下りだけでも難儀をしているのに、道なき山の茸取は諦めている。
それでも、名のある茸が、足の踏み場もないほどに群生していた雑木林が忘れられずにいる。
昨日のあずさ部会の第二部で「わくわく歌の広場」という催しがあった。
約300曲のタイトルリストが配布され、出席者のリクエスト曲を集計し、順次全員で歌う仕組みである。
歌詞はスクリーンに投影され、ピアノ伴奏がつく。
事前配に布され300曲の選曲が素晴らしい、歌える歌えないは別にして、私にとってほぼ全曲どこかで出会いのあった歌である。
その中で「小さい秋見つけた」に多くの人がリクエストを寄せた。
晴天に恵まれた東京は暑かったけれど、東京YMCA山手センターに向かう道すがら、早稲田通りは秋の色彩が濃かった。
我が家の庭先で沙羅の紅葉が小さく始まった。
水引
草むらを覆うように、水引の鮮やかな花穂が結ばれて、何かおめでたいことがありそうだ。
紫式部
夏 薄紫の小花が散った後に、仁丹程の緑色の玉がついていた。
秋の訪れとともに、その緑の玉が少しづつ紫色に変わっていって、彼岸の中日には本当に美しい紫に変わっていた。
石山寺の紫式部は、この小さな秋を知っていただろうか
萩の残り花もわずか
花蜂が残り少ない花を巡って、斜光を受けてせわしく飛び回っていた。