雪と寺の町公園
「高橋まゆみ人形館」は雪と寺の町公園の中にあった。
照明を落とした館内には、長い間忘れていた私の原風景が実物にまさる存在感で迫ってきた。
語りかける様な人形達が醸し出すこの明るさや温かさは何だろう。
現実を受け入れ、足るを知った柔和な口元から語る言葉を聞きたいと思った。
ガンギが続く飯山市の町並み
雪と寺の町公園
「高橋まゆみ人形館」は雪と寺の町公園の中にあった。
照明を落とした館内には、長い間忘れていた私の原風景が実物にまさる存在感で迫ってきた。
語りかける様な人形達が醸し出すこの明るさや温かさは何だろう。
現実を受け入れ、足るを知った柔和な口元から語る言葉を聞きたいと思った。
ガンギが続く飯山市の町並み
直江津の海
小さな団体の小さな旅行で上越に行って来た。
小学校の修学旅行は汽車に乗って直江津に行った。
その時 酷い乗り物酔いに苦しんだことを覚えている。
始めて海を見た、海は荒れていて高い波が恐ろしかった。
同じ海を水族館の展望台から見下ろした。
受賞を祝って近くに暮らす兄弟姉妹が集まりの機会を持ってくれた。
甥の息子たくみ君は保育園年長組で、来年四月には一年生である。
近くの温泉で祝いの膳を囲んだ、あまり遠くない距離に住んでいながら、このように集まることは少ないものだ。
柿すだれ
豊作と云える程に今年は柿がたわわに実った。
私が収穫し、カミサンがせっせと皮を剥き、糸に結んで干した。
干し場が満杯になって、残った柿は焼酎を吹いて密閉した、1週間後見事に渋が抜けていた。
柿は元気の塊だと子供のころから云い聞かされて育った。
それで朝と夜に1個づつ食べることにしている。
だから元気である。
行き付けの床屋さんが亡くなって10年は過ぎる、頭髪が著しく薄くなった事もあって髪形を気にする事もなくなった。
そんなことが重なってここ数年来、駅前の床屋さんに通っている。
駐車無料、所要時間10~15分 洗髪なしで 料金は2千円でお釣りが返って来る。
電機バリカンを器用に使いこなして、シャーッと小気味よく瞬く間に仕上げる。
まるでチェンソーを使う木彫家である。
ところが1年ほど前に、通りを挟んだ対面に同じつくりで200円安い店が開業した。
それとなく観察するとこの店の客足は減ったように思う、それは以前のようにソファーで待つことがなくなった事で客観的に判断できる。
それでも値下げをしない、その心意気に感じて、月にほぼ1度ドアを押している。
みせばや
一つの企業が清算に踏み切った。
要因は業績不振や放漫経営といえるものではない。
その企業は、昨年10月社長が急逝し、奥さんが経営を引き継ぎ、社業継承はスムーズに行くと思われた。
しかし ベテラン社員と新しい経営者の間に生まれた小さな亀裂は日を追って拡大し、6月に入ってついに首謀者の要求が暴発した。
首謀者は営業社員連名で、経営陣に即時退任を迫り、経営権の委譲要求を突き付けてきたのである
経営者はこの暴発に態度を硬化させ、交渉は平行線をたどった。
交渉の席で首謀者は常に冷静であったと云う、一方経営側は取り乱し、感情をあらわに時には激怒したらしい。
首謀者はその交渉課程を巧妙に歪曲し喧伝し、その結果、経営側は社員や得意先から、更に仕入先からも完全に孤立し、四面楚歌状況に陥った。
その時点で経営側は外部に向かって真実を伝える行動を起こさなかった。
8月に入り集団退職届けが提出され、日付は第一団が9月10日、第二団が9月20付けであった。
9月末 彼らから丁重な新会社設立の案内が私宛に届いた。
設 立 9月 1日
営業開始 9月21日
何のことはない、彼らは旧会社に在職中から総力を挙げて新会社設立に向け奔走していたのである。
抜けがらとなった会社は清算準備に入った。
裏山を尾根伝いに2時間ほど登り詰めると峠に着く。
秋の峠は空気が澄んでいて、山の彼方を彷彿とさせる展望が開けた。
普段、山に遮られて見ることができない景色が展開し、人家の影も見えない桔梗ケ原のその先にまた青い山並みが連なっていた。
桔梗ケ原は 有名な玄藩丞一家の狐達が住む広大な原野である。
中山道と北国街道をつなぎ、善光寺に善男善女を導いた北国西街道に沿って敷設された線路を走る汽車が、模型の様に小さく見えることもあった。
白い煙を後ろになびかせ松本方面に向かってゆっくり進んでいた。
そのころは、遠くの景色が手に取る様に見えるという双眼鏡にあこがれたものだ。
昨年3月の母校閉課程式を機会に、遅ればせながら年1回の同級会開催が決まった。
今年も幹事役の斎藤、中村両君の企画による鹿教湯温泉同級会が開催され、7人の同級生が各地から集合した。
それぞれ 昭和平成の激動する4分の3世紀を走りぬいた猛者達である。
紅葉が彩る山峡の露天風呂に過ぎた日を思いながら、程良く熱い湯船に体を深く沈めて目をとじた。
再会を喜ぶ宴、酔う程に少年時代の面影が言葉の端々ににじみ出る。
母の実家は信濃川の支流の支流である奈良井川に近かった。
明治40年(1907)の生れ、健在なら今年104歳になる。
その母が云った、奈良井川に大きな鮭が昇って来たと。
この川の緩やかな流れと、北アルプスの清らかな伏流水が湧出する環境を鮭が好んだのだろう。
新潟の河口から百数十キロを遡上し産卵して息絶える。
常念岳の頂に初雪が光るころ、海なし県の住人にとって、それは海神様からのビッグなプレゼントであっただろう。 「鮭影見ゆ」村人は総出で河岸に集まり、歓喜の声を上げて流れに飛び込んだものと思われる。 流域に発電用のダムがいくつもできて 鮭の遡上は途切れた。
霊泉寺
霊泉寺温泉は昔 霊泉寺の脇から湧出した温泉であり、現在の名前の由来である。
バス停から離れているので、停留に簡易電話機が置いてある、客はその電話を使って旅館に連絡する迎えに来てくれる。
デマンド交通システムの原型である。