わたしが話したのは次のような内容でした。
「そういう形式論を先行させてこだわるのはとても疲れる話です。伝統的に続いてきた呼称が大問題だという意識が社会に根付いているわけでもないので,学校を挙げてどうのこうのと決めるのはいかがでしょうか。学校でしか通用しないルールづくりに腐心するのは疑問です。ことさら問題視するのは時期尚早だととらえ,もうすこし,緩やかに構えてはどうでしょう。わたしだって,一人の子に対してときには『君』,ときには『さん』を使ってしまいますよ。どっちが正しいかって,そんな杓子定規な見方をしたくないですね。概ね,どういう辺りで共通理解できるか,子どもやご家庭に違和感を感じさせないか,話し合ってみてください」。
人権教育推進の立場とかで,「まず教師が率先して“さん”付けをしなくちゃ」と,厳格に行動された同僚が思い浮かびます。わたしは,その厳格さとは程遠くって申し訳ないなあと感じていました。同じ男児に対しても,「さん」でも「君」でも両刀のように使っていました。そんなことで強引に統一する必要なんかちっともありゃせん,と思っていたからです。
要は,呼称統一をきっかけにして男女共生の意識をかたちのうえで強引に根付かせようとするか,あるいは従来型の呼称であっても男女共生の精神を教師と子ども,保護者のこころの内に育てていけるか,です。さらにいえば,形式論と内容論との差のような気がします。

回り道をしました。報道機関の姿勢の話に戻ります。マスコミの姿勢がわかれているのは,社会の一致した見方・考え方がまだできていない現状の裏返しです。社の方針(用語・用字の使用マニュアル)が社毎に異なっていることを物語っています。それはそれで,ことばの文化,社会の状況を反映しているので,止むを得ません。したがって,どれがよいとか,よくないとか,そういう話ではけっしてありません。
ただ,おかしな例があります。A紙の例ですが,同じ日付けの紙上において,別記事に出てきた同年齢の男児を「さん」付けにしているのです。スポーツ関係以外の記事の場合,高校生は「さん」付けです。A紙では日頃からこのごちゃ混ぜ,ばらばら表記が散見されるので,社のあいまいな体質を感じてしまいます。用語・用字上の統一事項に入っていないのでしょうか。記者任せ? それならそれで,困った話です。
わたしの今のスタンスは,やはり昔のわたしと変わりはありません。口頭で呼ぶときは両刀使い。交流している小・中・高校生には「君」で呼ぶ方がずっと多いです。ただ,文章表記では「さん」で統一しています。小学1年男児でも中学1年男子生徒でも,高校3年生でもそうです。このブログ記事でもそう(だったはず)です。
子どもの呼称については,問題意識を持ちながら自分の中である程度整理づけておいて,使えばいいと考えています。形式論だけで流れないようにすれば十分。そう,わたしは感じています。
(つづく)
(注)写真は本文とは関係ありません。