ついでに,以上の話題を発展させて,わたしのこころに残る呼称にかかわる話題をすこし。
その1。ある保護者が学校評価アンケートに書かれたメモから。「学級で,担任の先生はみんなを『さん』付けにされているとか。わたしの子どもは男の子なので『君』で呼んでいただければ十分です。むしろ,そうしてください」。この方のように,意見や感想は多様なのです。一律に「『さん』付けにしましょう」式に枠をつくることに,怖さを感じてしまいました。学校だけが厳格にしても徒労に終わりそうですし,そういうことに精力を注がないに越したことなし,です。
その2。わたしが目にする行政からの定期配布物『市広報』,地域ミニコミ紙。名前の紹介では,堂々と「君」であったり,「さん」であったり。なんともチグハグというか,バラバラというか。学校とはまったく違っていて,ほとんど問題意識がないような。その点,ある自治体の広報紙は大したもの。何歳であろうと,「さん」付けで徹底しています。乳児でも! スパッと割り切っている姿勢があっぱれです。
その3。スポーツに関する催しや紙面では,高校男子生徒はほとんどが「君」付け。甲子園を沸かす高校野球では,場内アナウンスはすべて「君」付け。義務教育で見られた配慮はどこかに吹き飛んでしまっているような。でも,これは場内アナウンスマニュアルの定めにしたがったもの。定めは,若い世代に親しみを込めた表現配慮なのでしょうか,体力を使うスポーツを考慮して,“男らしさ”を強調する名残りなのでしょうか。
その4。全国大会に出場が決定した個人を称える横断幕が,有志応援団の名でよく沿道に掲げられます。小学生でも,中学生でも,さらには高校生でも,男子はおしなべて「君」付けで紹介されています。それが現実なのです。横断幕を見るたびに,なんだか学校は世間の感覚と乖離しているような気がして。
その5。2月28日付け全国紙にいじめ自殺関連記事が掲載されていました,それには「教師らの意識が変わらなければ」との見出しが。それを見てふと思ったのが,小学6年教室のある例。学習時も遊び時間も,いつもみんなが「ちゃん」付け。もちろん,担任が子どもの名を呼び,指名する際も同じ。これって,導く立場にある者として体質が甘すぎないかなあ。中学校との溝をついつい感じてしまいます。6年生は幼子ではありません。子どもが自立していく道筋をきちんと描いて対応しなくちゃ。
わたしは,ずっと学校の応援者であり続けたいと思っています。この気持ちからいえば,とにかく,「学校は限られた社会。ものごとの真を追求するのは学校の任務。しかし,常に社会の見方・考え方と共にあれ!」ということです。いくら真理をついていても,独りよがりでは辛い辛い。そして勿体ない,勿体ない。
で,今のわたしの立ち位置は地域人。そこから見ると,「やっぱり,まずは内容から。内容をしっかりつくっていくうちに,先が見えてくるんじゃないかなあ」「学校だけでしか通用しないことに,あんまり目くじらを立てなくても……」という気持ちです。それに尽きます。ほんとうに。
(注)写真は本文とは関係ありません。