いわゆる「ら抜き言葉」といわれることばが,しっかり市民権を得たような勢いで使われています。わたしはどうかといえば,それを“使わない”派です。
今回の話題はそれとは別です。
その1。つい最近,ある方から直接伺った話です。高校時代の同窓会が開かれ,恩師のK先生が招待を受けて出席されたそうです。K先生は国語教師。K先生には持ち時間10分が与えられ,なにを話されてもよいが,10分を越すのは困る,と伝えてあったようです。ごく普通の挨拶のあと,この「ら抜き言葉」について持論を展開されたのだとか。
その方の再現によると,「自分は国語教師だ。“ら抜き言葉”だけは,とくべつに許せない!」と口角泡を飛ばす程の熱弁だったらしいのです。おしまいに,持ち時間を越したため,司会者が告げて話を止めていただくのがたいへんだったとも。
この話でこころに残ったのは,世の中にはここまでことばにこだわる方があるという点です。国語教師としての自負心の大きさが窺われます。この方の,ことばの座標軸が確固としているといえば,そのなのでしょう。頑固なばかりに,といっては礼を失するかもしれません。
ただ,ことばは世につれて変わっていく側面があるので流行語が一時のブームで使われたり,逆に根をどっかと張って市民権を得たりしていきます。
この「ら抜き言葉」,学校においても,もう当たり前のように使われていることでしょう。だって,教える側の教師がそれを当たり前に使って育ってきた世代の人たちなのですから。この傾向,なるようになるし,なるようにしかならないものなので,まあ,防ぎようはありません。もっとも,教科書の記述もいずれそうなるかと思うと,首をかしげてしまいますが。
その2。NHKテレビの字幕の話を取り上げます。登場人物のことばを字幕で簡単に紹介する場合があります。ニュースなどでは多用されています。
登場人物が「ら抜き言葉」で話したときに,字幕で表示されるか,見ているととてもおもしろいことに気づきます。
話し手が「ら抜き言葉」を使った場合,例えば「見れるようになって」なら,必ず「ら」を入れて「見られるようになって」と表示されています。わたしが見てきた範囲では,どの場合もそうでしたから,それだけの注意が払われているようです。公共放送の軸足揺らがず,といったところでしょうか。
でも,NHKの字幕表示には間違いがよくあります。お詫びと訂正が入る例が後を絶ちません。人間のすることには勘違いがいくらでもありますから。なんとなく,人間らしいなと感じます。もしかすると,「ら抜き言葉」訂正も不十分なのかもしれません。
「ら抜き言葉」について2つの例を取り上げました。人によっては,まったく気にならない話題です。しかしこれに限らず,言語感覚を健康・健全に保とうとするなら,日頃からことばの使い方に関心を向けておくに越したことはありません。
(注)写真は本文とは関係ありません。