一つのいのちには生きていくかたちがあります。ヒトの営みとはいささかも関係なく,それぞれがいのちを全うするプロセスがあります。それを思うと,ヒトには尊重すべき人権というものがあり,生きものにも生きものとして生きる本来的な権利があると思うのです。それは動物にも植物にも当てはまる気持ちがします。
それをヒトの一方的なものさしで勝手気ままにバッサリ刻んでしまっては元も子もないのでは? 生きとし生けるもののおかげで穏やかに暮らせるというのは,わたしたちヒトがいつもこころしておきたい座標軸です。
ところが,この勝手気ままが往々にして出過ぎることがあります。ついこの間見かけた,わが市のケヤキ街路樹の手入れがその好例です。手入れというより,「エイッ! ヤーッ!」とばかりに切り刻む単なる伐採です。入札でより安く応札した施工業者がレンタル作業車を使い,剪定のノウハウを心得ていないと思われる作業員が木の高さを一律に揃え,バッサリバッサリ伐っていくだけ。機械的で物理的な手を加えるに過ぎない単純作業。そこには知恵の入る隙はまったく感じられませんでした。記憶にとどめるために,ついつい撮影してしまいました。
見ていて,わたし"自然となかよしおじさん"はケヤキの嘆きが聞こえて来そうな気持ちになり,やり切れなくなったほど。
並木の中に,枯れてずうーっと放置されてたままのケヤキが一本悲しそうに立っています。何年も。これ,ヒトの身勝手さでは?
こうなるのは業者の問題ではありません。作業内容を提示して業者入札を設定した行政の理念の問題です。街路をまちづくりとしてデザインする指針が欠けているのです。
経費削減? 思考が停止したままの状態ではなんら前向きの解決策は生まれません。もしかすると,落ち葉の苦情が多いのかなあ。それにしても担当部局もそうだし,幹部の皆さんも同じで,長年同じ風景を眺めてきて何も思えなくなっているところがそもそもの問題です。慣れというのはじつに怖いもの。
わたしには哀れな風景に見えますが。
ケヤキの権利は「ヒトの生活空間にあっても,できるだけ自分風に生きていきたい」というものでしょう。そうだとしたら,樹形を健全に保つほかありません。太枝をもっともっと整理して,何本かの枝が高く伸びることを尊重するだけでOK。大きくなると困るというなら,樹間を広げるために間引いてもいいでしょう。それらは電線や建物などの構造物がない場合の簡単な手です。それでも困るというのなら,そうした区間については樹種を変更したらよいのです。そもそもケヤキを植える当初の計画ではどんなデザインが描かれていたのでしょうか。
ふつうなら春以降は緑のトンネルがずうーっと続いて,誰の目にもここちよい景観が出現するはず。ケヤキ一本一本の個性的な枝ぶりがこころを和ませてくれるはず。緑は友だちのはずなのに。冬は冬で,枝ぶりが景観をゆたかにしてくれるでしょう。イルミネーションだってできます。ところが,作業が終わった通りに立つとこころには殺風景さが広がるだけ。これでは緑の季節は到底期待できません。
幹線から外れた支線。ここも同じ。若木にも地衣類が生えて,青息吐息の感。表皮がめくれあがって,その下から形成層ができつつある木があっちにもこっちにも。
申し訳ありませんが,錆びた感性からはゆたかな土壌は育まれないとわたしは強く感じています。