元ラーメン屋店主のツイート集

ラーメン屋を10年経営し、今は閉店し、介護士をしています。

ラーメン職人②中村屋店主

2006年03月12日 | ラーメン総合研究所
今やラーメン界の頂点に立ち、同業者にも想像が
つかないような全く新しいラーメン製法を築いて
いる。フレンチ料理の巨匠も「彼(中村)はこれ
からラーメンのみならず、料理界を背負って立つ」
と絶賛していた。

中村屋店主の中村栄利さんは、近年ブームの完全
独立ラーメン屋です。ラーメン業界の経験を全く
積まず、独学のみでオープンさせた。中村さんの
師匠はインターネットと、インスタントラーメン
の成分表であった。

幼少期から料理が好きだった中村さんは、アメリカ
の大学時代に日本のラーメンが恋しく、牛スジや
丸鶏でスープを作っては、インスタントラーメン
のお湯代わりに使っていた。そうする事で
インスタントを本格的なラーメンっぽくする手法が
天才中村栄利の原点であった。


中村さんのラーメンは深い愛情により創作された
ラーメンです。彼女(現妻)がラーメンが嫌いだっ
たのをキッカケに、彼女が好む味も模索した。
家の裏の物置をラーメン研究室に改装し、4ヶ月
こもりっきりで彼女の笑顔を思い浮かべ没頭した。

1999年に神奈川県の好立地条件の場所に中村屋を
オープンした。内装が昭和40年代の蕎麦屋をイメージ
した黒を貴重にしたお洒落さもあり、開店時は1日
400杯をも売り品切れ閉店の日が続いた。

しかし、オープン1ヶ月後には1日4人なんて日もあり、
店を一時休業した。休業中は、必死でスープ作りと
味見を繰り返した。そして、料理界に今まであった常識
を破り、昆布を煮てダシを取る製法で(通常は水に浸して
ダシを出し、沸かしてからは沸騰直前に昆布を抜くのが
常識)旨味の時間差を発見する。

そして休業中に「中村屋」名物の湯きり「天空落とし」
が編み出された。当店の湯きり「オーバー・ザ・レインボー」
は一瞬で完全に水分を飛ばす為、遠心力作用を利用して
いるが、「中村屋」の「天空落とし」は落下作用を利用し
完全に水分を飛ばしている。湯きりは、短時間で
完全に水分を飛ばす事が重要です。

そしてラーメン界初、ラーメン調理時にチャーシューを炙っ
て熱々の状態で出す製法も編み出した。

中村さんは次に、ラーメン・バーの先駆けみたいな店を作り、
今はラーメン・フルコースのお店もされている。中村さんの
後を追うように類似の店が多く出てきたが、次々と1歩先を
リードし、未来型ラーメンを創作している中村さんに追いつ
ける職人はまだいない。

多分、天才とは彼みたいな人の事を言うのだろう。

ラーメン職人①:竈(KAMADO)店主

2006年03月12日 | ラーメン総合研究所
新宿の大繁盛店「竈」の店主は清水博丈さんです。
1967年生まれ
神奈川県出身

1983年に国学院久我山高校に入学し、高校1年で
東京中のラーメン屋を食べ尽くしました。高校2年では
名古屋、大阪、福岡、広島などまで遠征しラーメン食べ
歩きに専念していたラーメンフリークでした。

1986年に国学院大学文学部史学科に進学してからは
全国の有名店全店制覇をし、沖縄、佐賀、鹿児島以外の
ラーメンは食べ尽くした。また、フランス料理、イタリア
料理も数多く食べ、毎月40万円を食べ歩きに使った。

大学2年の時に「吉村家」の流れをくむ横浜家系のラーメン
店でバイトをした。そのバイト経験で、ラーメン屋経営の
厳しさとリスクの多さを勉強した。衝撃的なのが、
その店主は借金の返済に苦しみ自殺をした。

1990年國學院大學を卒業し、会社員生活をはじめる。
不動産会社、水産会社、家具輸入商社を経て、
1998年からラーメン修行をはじめる。

池袋の人気店「屯ちん」で4ヶ月バイトをする。辞めて次に
池袋の行列店「光麺」で2ヶ月修行を積み辞める。
そして、日本一の行列店「麺屋武蔵」で半年修行を積む。

無難な万人受けはやりたくなく、個性を全面に打ち出した
ラーメンで独立をする。清水さんは言う「10人中9人が
苦手だと言ってもいい。残る1人が徹底的にはまるラーメン
を作る」。そのコンセプトと、お洒落なラーメン・レストラン
イメージで「麺屋武蔵」から徒歩5分の激戦区に店を構える。

1998年に開店し、開店記念の半額セール期間には順調な
客入りだった。しかし、セール後は急激に落ち込んだ。
「麺屋武蔵」からマスコミを紹介してもらい、度々雑誌で
取り上げてもらうも、単発的に客が増えるだけで、しばらく
するとアイドルタイムの数時間は誰1人来ない状況になって
いった。損益分岐点が1日8万円だった時、店を開けるたび
に6万円づつ損をする赤字経営が続いた。

ターニングポイントになったのは2000年「TVチャンピョン
第6回ラーメン王選手権」で優勝者の山本剛志さんが新店推薦
という形で紹介し、「どっちの料理ショー」でも紹介された。
この2番組の影響は大きく、開店前から数十人の行列が品切れ
閉店までつづいた。売上は10倍近く跳ね上がったら新たな
問題がでてきた。

長蛇の大行列に連日近隣からのクレームが来るようになった。
この行列が切れない事を信じ、近所の広い物件に移転をした。
床は大理石を使用しアイルランドのパブをイメージした店が
出来た。お洒落な店内に合わせプリンや、アルコールを充実
させた。

清水さんはマスコミ効果の凄さを痛感し、その後もマスコミ人
との関係を深めていった。

忙しくなってから、清水さんを一番悩ませている問題が従業員
の育成である。考えが合わずに辞めたり、優秀なスタッフが
退職したりした。ざらにあったのが、数日来たかと思えば、
何の連絡も無しに来なくなるケースらしい。

「竈」の人気を支えている要因に、ネットのラーメンフリーク
との交流を深めた事が働いている。普段は「麺屋武蔵」に出入り
しているフリーク達が、「麺屋武蔵」で働いていた事を知っていて
大々的にネット宣伝をしてくれたという。清水さんはネットの
ラーメンフリークには名刺を渡し、来店してくれた日には必ず
お礼のメールを送信していたらしい。ラーメンフリークとの
関係を強化した事もあり、ネット上でのラーメンランキングで
は常に上位を独占していた。

ネットの集客効果の大きさを知って、自らホームページを
作成し情報発信を行った。

ただ、ネットにはデメリットもあったと清水さんは言う。
「ネットの評価が高い
だけに、来る客の事前期待も高かった。大きく膨らんだ期待
にそぐわなければ「期待はずれ」「マズイ」とすぐに書き
込まれる始末。何も考えずに純粋に食べれば美味しいラーメン
も、情報肥大化の悪影響がでている。」

2001年に本が書かれた当時は、繁盛店の仲間入りをして
いる。今はどうなのかは僕はしりません。


有名ラーメン職人

2006年03月12日 | ラーメン総合研究所
ラーメンテーマパークの普及と共に、90年代
後期からご当地ラーメンブームになりました。

「ガチンコラーメン道」師範で「支那そばや」の佐野実さん
がレギュラー出演した事もあり、ご当人ラーメンブーム
が起こりました。

インターネット普及時からラーメンフリークの間では名物店主が
話題になる事が多かったらしいですが、一般的に広がったのは
ガチンコ、愛の貧乏脱出大作戦、マネーの虎(なんでんかんでんの
河原さん)などの高視聴率テレビ番組の影響です。
福岡の店では一風堂、魁竜、満州屋が一番、とかの店主は頻繁に
全国放送のテレビに出演をしています。

今やラーメン屋店主が書いた自書伝やエッセイは無数にあります。
殆どが東京の有名店の店主ですが、地方の有名ラーメン店主も
書いています。最近買ったラーメン店主のエッセイは、趣味
や家族の話が8割で、読んでいて嫌になてきました。

日本を代表するような有名ラーメン職人の人生もこれからは
紹介していきます。

僕も偉大なラーメン職人の生き方からは学ぶ所が多いです。
誰でも苦労に苦労を重ね、必死にやってきてやっと成功者と
言われるようになっています。過当競争のラーメン業界は
安易な考えでは通用しない時代です。

ラーメンを一度も作った事が無い人間から「骨を炊くだけで
金とれて、あんたらの商売はよかね。ラーメン屋程度なら
俺でも出来そう。」とか言われると凄く腹立たしいです。
接客業ゆえ怒りを言葉や態度で表す事は出来ないので、
自分のラーメンに魂を込めて喰らわします。ラーメン業
を、「たかがラーメン屋」「ラーメン屋の分際で」と
馬鹿にしている人らをラーメンで負かすのも僕らの仕事
ですが、まだまだ僕は未熟だから精進するのみです。

ラーメン屋を見下している人こそ、ラーメンに人生を
かけているラーメン職人の本を読んでほしいです。