元ラーメン屋店主のツイート集

ラーメン屋を10年経営し、今は閉店し、介護士をしています。

煮卵の改良版が完成

2006年03月14日 | れいんぼ~情報
当店のラーメンはスープと麺には全力投球でし
たが、具はスープを邪魔しないポジションに
留まっていました。

最近はチャーシューの改良を色々と試み、
先日から出しているチャーシューもなかなかの
出来ですが、もっと改良の余地がありそうなので
近日中にもっと美味しくさせる予定です。

魚介風味の和風味煮卵も同時進行で作っていましたが、
ようやくイメージに近い煮卵が完成しました。

今までの煮卵よりも若干味が濃い目ですが、ラーメン
の中での存在感もしっかりありながら、ラーメンの
バランスは崩れない仕上がりになっていると思います。

特殊な製法により、今までと同じ作業時間内で
毎日安定した味の煮卵が提供できます。

お客さまから半熟煮卵の要望が多いので、これから
考えていきたいです。

福岡ラーメン職人四天王②

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
今回でラーメン職人紹介シリーズを終了します。

まだまだ、有名職人はいますが、誰もコメントも
してくれないので一応終わります。

じゃ、最後の2人(2店)は、福岡の魁竜と、
大砲です。

■魁竜
「魁竜」の森山日出一さんは、福岡ではテレビ、
ラジオと大忙しで、時々全国放送にも出演されています。

見るからに豪快な九州男児で、スープをシャベルでかき回
している姿なんか、ラーメン作りとは思えぬ程です。

その森山さんは、1959年生まれで、20歳で、世良正則率いる
ツイストの付き人をやっていた。でも、付き人生活では
お金にならず、ショーパブ、スナックを始め、一時は
15店舗も経営している、夜の世界の王者だった。

帰郷後、よく食べていた小倉の人気ラーメン店「一竜軒」
が突如閉店したことにより、「一竜軒」を食べたい気持ちが
日に日に強まり、遂には森山さん自ら味を再現し小倉に
「一竜」というラーメン屋を開業。しかし、思うように
いかず半年で閉店。

再起を願いラーメン作りに没頭する。今は亡き父は、久留米
で腕のいいラーメン職人だったので、久留米ラーメンについて
父は息子に全てを伝えた。父が教えた味を引き継ぎ、
「魁竜」をオープン。前代未聞の超濃厚スープに、若い世代
を中心に飛付き一気に人気店になった。

魁竜はトンコツラーメンじゃなく、ド・トンコツラーメンです。

■大砲ラーメン
福岡のラーメンテーマパーク「ラーメンスタジアム」内で
群を抜いて人気を維持しているのが「大砲」です。
大砲の今の店主は2代目香月均さんです。

1958年生まれで、ラーメン屋が嫌いだった。
「満州やが一番街」の現大将も言っていたが、実家がラーメン
屋だと、ラーメンが嫌いになるみたいですね。

香月さんは、デザイナー、バンドマンを目指し精力的な
創作活動を行っていた。ライヴを見ていたスカウトマンから
声がかかり、プロへの道が開けそうな時に両親があいついでガンと脳卒中
で倒れた。「親父とお袋が守ってきた暖簾を、絶やすわけにはいけない」
と、「大砲」を継いだ。しかし、自分の可能性を閉ざした生き方に
後悔もあり、ミュージシャン、デザイナーの未練もあった。
(この時期同じバンドメンバーだった大内が、藤谷美紀との
デュエット曲「愛が生まれた日」で大ヒットし、デザイン仲間
北条のアニメ「キャッツアイ」がブレークし悔しさと辛さは相当だ
ったらしい)
その時期、福岡の人気店「一風堂」のラーメンを食べ、アーティスト
の未練は断ち切れた。これからは、ラーメンが表現の場と決め、
スープ作り、麺作りにも独自のアレンジを加えだした。

でも弟子と意見が合わず、ラーメンを育てるより、人を育てる
事の難しさにぶつかった。

久留米に活気を戻すのにラーメンが使えると思い立ち、久留米
ラーメン屋の横の繋がりを深め、町と一丸になって大イベント
を開催した。それが「久留米ラーメン・フェスタ」です。
毎年、思考を凝らしたアイデアで、その祭り期間しか
食べれないラーメンを名店が提供したり、閉店している名店
が復活する等あり、全国のラーメン好きが集結する大イベント
になった。

株式会社大砲のデータによると従業員数500人で、
ラーメン屋9店舗、他3店舗を運営しているから結構大きな
企業にまで拡大したみたいです。



福岡ラーメン職人四天王

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
全国的な知名度、人気から独断で選出した、
一蘭(福岡市)、一風堂(福岡市)、魁竜(北九州)
大砲(久留米)の4店舗の店主にまつわる開業話を
書きたいです。

■一蘭
福岡ラーメンの代表格「一蘭」は、昭和33年に
中原貞之さんが福岡市早良区で創業をした。

他店の味には左右されない独自のラーメン開発の為、
他店のラーメンは一切食べなかった。料理としての
質が高い懐石料理を食べあるく事で、自らが開発し
ているラーメンに反映させていた。

唐辛子をベースにした秘伝のタレを開発した事に
より、食べながら味を変化させる新たなラーメン表現
を生んだ。

口コミで広がり、全国からラーメンフリークが来る
ようになり、北海道からの常連まで出来た。

やがて、中原さん夫婦は忙しさから体調を崩し、
廃業を考えるようになる。「辞めないで」と多くの客
から泣きつかれ、10年以上通っている常連だけを
会員にし、全国で初めての会員制ラーメン屋になる。

元一蘭の常連客だった吉冨学さんが、その後の一蘭を
大きく変えた。吉富さん
が後継者となり、福岡市那の川に「一蘭」をオープン
させた。替玉チャルメラ、集中して食べる為の仕切り
と目の前の暖簾、などの話題性もあり大繁盛。福岡市内に
ある程度の店舗数を立ててからは、全国展開を始めた。

吉冨さんは実業家として優れていて、マスコミの客導引
力もフル活用し、宣伝活動も積極的に行った。

■一風堂
福岡のみならずラーメン界に河原成美ありという、ラーメン
界の有名人です。ラーメン対決番組では、ことごとく優勝
し、ラーメン界の頂点を守り続けている。

河原さんは、1952年城島町で生まれ、1962年に
福岡市へと引っ越してきた。高校時代の演劇部で芝居に
魅了され俳優を目指す。俳優を目指し上京するが、都会の
誘惑に負け、夢を追う事を忘れて遊びまわっていた。
1年半の東京生活から目を覚ますべく、福岡に帰った。

そして九州産業大学に入学。なんとなく商学部を専攻し
大学以外は、マイナーな劇団、飲食店バイトと多忙な日々
を送る。

大学卒業後にスーパーに入社した。河原の3人の兄は、
パイロット、新聞記者、彫刻家と着実に夢を掴んでいるの
に自分は夢も目標も無いことにコンプレックスを感じた。

その頃から怒りの捌け口とし、悪友とつるみ窃盗行為を
繰り返した。反社会的な行為をやって、盗みが成功した
時の達成感に酔っていた、屈折した25歳だった。

河原さんは逮捕され拘置所にいた期間に、普通の生活のありが
たさを強く感じた。また、学校の教師だった父が、裁判で泣き
崩れ、ただただ謝罪し続けるのを見て河原さんは真人間の
心へと変わった。判決で執行猶予3年となり、4ヶ月ぶりに
シャバの空気を吸い、夢に向って突き進む事を決意する。

まず、コック見習になり、夜は福岡の劇団で練習に励んだ。
いずれは有名な劇団で芝居をする事を夢みて、下積み生活
を送る。そんな折、開業資金が殆ど必要なくバーを経営出来る
話が舞い込んできて、芝居の道を捨て1979年
「アフター・ザ・レイン」を経営する道を選ぶ。バーは河原さん
のステージで芝居小屋みたいなイメージだった。全裸で走り回
ったり、渾身のパフォーマンスで客を笑わせ続け、5坪の店で
月商150万円平均だった。そして、広い店舗を天神に構えて
からは月商500万円を超える大人気バーに成長した。

そしてある程度の成功を掴み、新たなビジョンとしてラーメン屋
を志した。「しばらく」の流れをくむ「長浜一番」で1年の修行
を積み、夜はバーで馬鹿な事ばかりやって客が呼吸困難に成る
ぐらい毎晩笑わせた。「長浜一番」で修行中はラーメン食べ歩き
を全国全域で行った。「一風堂」開業までに150店を食べた。

1985年に「一風堂」を創業。
最高級の調度品でお洒落さをイメージし、臭くない、店員も
恐くない、店の清掃は徹底し清潔感がある、女性客がカフェ感覚
で来れるようにBGMもジャズを流した。1987年までは、毎日が
実験作で,味も製法も材料も毎日変えた。食べ残したお客さんから
は、何故残したのかを聞き、弱点克服に努めた。

そして、「黙っていても、美味しい店には客がくる」のには、
時間がかかりすぎる。と感じ、即効性を求め、河原のキャラを
活かし、マスコミ露出を頻繁に行い、徐々に客が増えた。

「一風堂」では飽き足らず、1987年「玄海ラーメン爽風亭」
をオープン。1989年居酒屋「岩戸町 松の湯」オープン。

周囲からは「バー、2つのラーメン屋、居酒屋まで短期間で
立ち上げて凄い」と言われ気分がよかったが実情は赤字経営で
借金が膨らむ一方だった。

1991年39歳の時に、お尻の疣を切除する単純な手術での
麻酔のせいで臨死体験をし、死に直面し「まずは「一風堂」
から大きくして、他の店はそれから」と堅実な経営に変える。

FCチェーンが普及しているが、一風堂や五行は全直営店で
今も店舗数拡大中です。


やはり、ラーメン界の帝王「河原成美」だけあり、書く事が
多く長くなってしまいました。魁竜と、大砲は次書きます。




ラーメン職人⑨くじら軒店主

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
本格中華ラーメン屋や、家系ラーメン屋が
立ち並ぶ横浜でも圧倒的に人気があるのが
和風ラーメンの「くじら軒」です。

そして今回の主役は田村満儀さんです。

1949年東京都目黒区生まれです。
家の隣がラーメン屋という事もあり、小学生
の頃から大好物でした。

高校の頃には、スープ作りにも興味を持ち、
自分で作ったスープにインスタント麺を入れては
よく食べていました。高校卒業時にはプロ並み
のスープとりが出来るようになっていて、
ラーメン屋開業の夢を持つ。

12年間サラリーマン生活を送るが、仕事の
忙しさから病気を負って死と隣り合わせの生活
を強いられるようになる。

45歳の時「たった一度の人生で、いつまで生き
られるか分からないから好きな事をやりたい」
と長年の夢だったラーメン屋を開業した。

開業と同時に口コミで広がり、日本を代表する
名店にまで登りつめた。店内のレトロさと、温かみ
が性別、年齢を問わず受け入れられた。

サイドメニューの充実さと、デザートもあり
塩ラーメン・ブーム、ラーメン屋のデザート・ブーム
の火付け役にもなっている。

ラーメン職人⑧井手商店店主

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
太平洋戦争で和歌山は焼け野原になり、
井手つや子さんの夫はマラリアで亡くなった。

女手ひとつで幼い2人の子供を養う為に
昼も夜も休まず働いた。夜に働いていた中華そば
の屋台では見て作り方を盗んでいた。いつか
屋台を引いて、生活を楽にさせたい気持ちがあっ
た。

昭和28年から井手つや子さんは氷屋、駄菓子屋、
文房具屋をするもののうまくいかなった。

昭和30年、念願の中華そばの屋台を引く。
1日5杯程度しか売れない赤字の日が続き、他の
仕事と掛け持ちでハードな生活を送っていた。

生活は一向に楽にならぬまま5年もの間、日暮し
の極貧生活を送った。

昭和43年に店舗を構え「井手商店」の営業を
はじめる。次第に忙しくなり、息子が手伝い、
仕込み全般を息子が担当するようになっていった。

昭和53年までは、あっさり醤油ラーメンだった
が、客が「閉店間際がよう煮込まれて、ええコク
でとる」という言葉を聞き、閉店間際のコクを常
に出す為に、長時間煮込んでみた。

でも、あっさり醤油ラーメンが普通である和歌山
では受け入れてもらえず、常連からクレームばかり
がついた。試行錯誤の末、24時間炊き込む事で
白濁したトンコツスープを完成させた。

しかし、客の反応は悪く、考えた末にストレート
多加水麺を柔らかく茹でる事で、絶妙なマッチさ
を生む事を発見する。

こうして、和歌山トンコツ醤油が完成し、その味は
全国的に噂をよんだ。

今も和歌山には、高山光二さんの流れをくむ、あっさり
澄んだ醤油ラーメン(車庫前系)と、井手商店の
濃厚なトンコツ醤油味(井手系)が同居しています。

ラーメン職人⑦大勝軒店主

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
昭和25年山岸一雄さんは16歳で長野から上京し
工場勤務をしていたが、大好きなラーメンを
たらふく食べたくて親戚が経営する「栄楽」
で修行を積む。その親戚とは「丸長」「丸信」
をも経営する青木一族です。

昭和26年に「栄楽」の兄弟子で、親戚の
坂口正安さんが開業した「大勝軒」で修行を
積む。昭和29年、仕事ぶりが評価され
中野「大勝軒」の店長に任命された。
とても繁盛し、忙しい時に従業員がちゃっちゃと
食べれる「つけめん」が客の間で噂になり、
昭和30年に「特製もりそば」という名で
正式メニュー化をした。瞬く間に大人気メニュー
になり、丸長グループ全店でも「つけめん」
という名でメニュー化した。

昭和35年に結婚をし、丸長グループからは
独立した、自分の店「池袋大勝軒」を開業。

山岸さん、奥さん、山岸さんの妹の3人で
大繁盛店を切り盛りしていた。山岸さんは多忙
さと体重から、下腿静脈瘤になり昭和49年に
大手術を行った。店が再開してからは、客が
自発的に出前を取りにきたり、飲みものは
客が自分で冷蔵庫から取ったり、食べ終わっ
たら客が片付けたり、山岸さんの負担を
軽くするようにお客側から行った。

忙しくて幸せな日々は、昭和61年の奥さん
の胃がんによる急死により一変した。
幸せな日々や、苦労を共に分かち合った事を
回想し、脱力感で半年店を休業した。もう
店をたたむ決心もし、店に行ってみると、

「早く再開して」「やめないでください」
「もりそばが食べたい」「いつまでも続けて
ください」「いつもの笑顔を見せてください」
「毎日きています。再開を信じてます」

などのお客さんからのメッセージ張り紙が
無数に貼ってあった。店の前で泣き崩れ
自分のラーメンがこんなにまでも愛されていて
自分を必要とされている事に感激し元気が
蘇ってきた。

弟子を2人採用し、昭和62年に再開させた。
今も大繁盛店ですが、今年「池袋大勝軒」は
都市開発により立ち退きをしないといけません。
移転をするのか、惜しまれつつ閉店するのか
分かりませんが、全国にファンクラブ会員が
4000人もいるラーメン屋なんて他に無い
と思います。

ラーメン職人⑥春木屋店主

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
明治43年に創業した「来々軒」の流れをくむ
醤油ラーメンが、戦後に和風ダシの関東風醤油
ラーメンを創作して関東の味になっていった。

「春木屋」も醤油ラーメン創作に多大な貢献を
した老舗名店です。

「春木屋」は今村五男により昭和25年に創業
しました。中華蕎麦1本で営業をやりたかった
が、世間は戦後混乱期で外食などする余裕など
無く貧しかった。それゆえ、酒場での営業しか
利益を得れない時代だから、家族を養う為に
飲み屋として営業をはじめた。

酒は売れるが、中華そばは全く売れなかった。
味を向上させる試作の日々がつづく。
今までよりも和風ダシを強め、原価の高騰に
合わせ他店よりも高額での販売価格にした。

「美味ければ、高くてもうちに来る」との
自信は的中し、数年間は大繁盛していた。
しかし、客足はしだいに途切れ初めてきた。
同業店が増えた事もあり、客が飽きだしてきた
事に気付き「本当に変わらない味を出し続ける
と、物足りなくなる」と、悟った。

そして、季節ごとに微妙に異なる麺を使ったり、
オリジナルブレンド醤油を特注したり研究の
日々が続いた。

「いつまでも変わらない味」ではなく、「いつも
変わらず美味しい味」の路線で、今もこれからも春木屋は
変わりつづける。今村さんの名言に「変わらぬ為に
変わりつづける」という言葉があります。

戦後間もない貧しい食料事情だった頃の製法を守り抜い
ていたら、いまだに繁盛店であり続けている事は
なかったと思う。進化しつづけ、客の舌が肥えている、
ラーメン業界では、古き良き時代なんて存在しません。

同じ味を出していたら、味が落ちた、材料の質を落とし
たと思われる。だから、少しづつ味を改良し、客の1歩
先を進み続けなければ駄目だと、ラーメン進化論には
僕も深く共感し、感銘を受けました。


ラーメン職人⑤なんつっ亭店主

2006年03月14日 | ラーメン総合研究所
日本中に熊本ラーメンブームを巻き起こした
「なんつっ亭」の店主、古谷一郎はラーメンの
お陰で人生を更正できた。

10代から暴走行為、喧嘩三昧ので警察行きを
何度も繰り返した悪だった。チンピラや、地上げ屋
行為も行い、命を狙われるような経験も繰り返した。

20歳を過ぎても定職に就かず、大酒を食らって
暴れる生活を送っていた。収入源はパチンコや恐喝
行為。

そんな日々を送っていた頃、ダンス留学を夢見る
女性と出会う。夢も無く、その日暮らしを送っていた
古谷の人生を変える女神であった。

ラーメン修行のTV番組を見て、衝動的にラーメン屋
を目指す決心をした。

思い立ったら行動が早く、九州のラーメンを食べ歩いた。
熊本の人吉市にある「好来ラーメン」の真っ黒スープ
(マー油)のインパクトと味に惚れこみ、近所にアパート
を借り、「好来」の近所の酒屋で働き出した。
何週間も毎日「好来」に通い、ようやく修行をさせて
もらえる事になった。

しかし、「好来」の店主は何も教えてくれず、口も
きいてくれなかった。しかも「好来」からは給料が
出るはずも無いから、酒屋の仕事の合間だけに見て覚える
だけだった。10ヶ月目から酒屋を止めラーメン修行
にのみ専念した。

「好来」の店主は日々の気温、湿度、天気によって製法
を変えていて、その調整は職人の勘にたよるものだった。
感覚で技を磨いた職人の手法を目の当たりにし、「好来」
のコピーラーメンを神奈川で出す構想を白紙にした。

「好来」で1年の修行後、
神奈川に帰ってから、「好来」のイメージで、自らの味を
模索し、試行錯誤がしばらく続いた。

1997年の独立開業した。仲間が集まり、暴走族の
集会場みたいになった。1ヵ月後には客足が途絶え、
古谷もヤケを起こしていた。そんな時、妻が妊娠をし
古谷は奮起し仕込み室にこもりっきりになった。
毎日の試行錯誤により、3ヶ月後には客足が伸びて
きた。雑誌掲載や口コミで、どんどん客は増え、
長男誕生後には寝食を忘れラーメンに全身全霊を
捧げた。

弟子志願者も増え、行列店の仲間入りをしました。