
金曜ロードショーで、千と千尋の神隠しを やっておりました。
実は、この映画、あまり真剣に見たことがなかったです。
たまたま 娘と孫が 見ていたので、途中からですが、ちょっと見ていたら・・・
あああ、そうか!が たくさんありました。
今日は 映画の内容、特に顔ナシのことを通じて、波動でまなんだことを
つないでかいていこうとおもいます。
顔ナシについては、ウィキペディアにも 書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%81%A8%E5%8D%83%E5%B0%8B%E3%81%AE%E7%A5%9E%E9%9A%A0%E3%81%97
・「か細い声を搾り出すだけで言葉は話せず表情も無い
・「己」を持たず、手からどんなものでも出す力を持つが、それはただの土くれが化けているものに過ぎない。
・他人を呑み込んでその声を借りてでしかコミュニケーションが取れない。
・・・千尋に喜んでもらいたい一心で番台から薬湯の札を盗んだりした。
・・・・千尋にも砂金を差し出したが断られたため、絶望して次々と湯屋の従業員を飲み込んでいき肥大化していく。
その後千尋と対面するが彼女に拒絶され、苦団子を食べさせられた怒りで暴走し、
千尋を追いかけている途中に飲み込んだ人々を全て吐き出し元の姿に戻った。
・・・・・彼の正体は人間の心に潜む孤独や寂しさらしい。」
己を持たない
受け入れてほしい・・・そのために 人が望むものを提供するいろんな人の想いを取り入れることで、(人の情報を取り入れる) 受け入れてもらおうとする。生きる主軸が「自分以外」
人を呑み込んでその声を借りてでしかコミュニケーションが取れない。
人の情報を取り入れて生きている。自分がない。自分一人ではどうすればいいのかわからない。
すべて吐き出して元の姿に戻った。
自分の中の他人の情報、受け入れられるために作った別の自分を吐き出してしまえば、本来の自分に戻る。
正体は人間の心に潜む孤独
強烈な孤独が、人間を本来の自分から分離させる。
波動ワークでは、人の心の中に孤独について 先生方のレクチャーがあったり、ワークの中で扱ったりします。
孤独は、ある時期には必要になことがあります。
しかし、「孤独」の恐怖から、本来の自分を嫌って、別の自分を作り上げようとする。
その別の自分が受け入れられないと さらに別の自分を作る。そうやっていくうちに
自分がなんだかわからなくなってしまう。
波動ワークでは、「本来の自分を取り戻し、本当に願うことを明確にし、それを手に入れる」ことを目的とし、
そのために 人生において取り込んできてしまった他人の情報を吐き出し、
今と未来を生きる自分を作るために必要なものを掘り出していきます。
顔ナシは、銭婆(ぜにーば)のもとで、やっと本来の自分のままで生きていけることになるのかしら。
この映画の宣伝文句「あなたのそばにも顔無しはいます」は、
まさに その通りで、自分を殺して、周りにけ入れてもらうことが人生の主になっている人はたくさんいるのだい言うことを
宮崎さんは言いたかったのかしら?(私のフィルターを通した意見です)
本来の自分を認めて受け入れるのは、自分だけ。
だれかに 認めてもらったり、受け入れてもらうための人生ではなく、
自分で自分を受け入れて 本来の自分として 自分の人生のかじ取りを自分ですることを決意する。
これが 人生のシンプルな法則なのかと感じています。
そして 湯婆婆(ゆばーば)
彼女もまた 私たちのそばにいる
湯婆婆(ゆばーば)は、「人の名前を奪って、自分のコントロール下におきたがる」という特徴があります。
人の名前を奪うというのは、その人がその人であることを侵害する ということ。
無意識に 人のエネルギーを吸って 意のままに人を動かそうとする人もまた、 人間の姿。
でも、最後の 湯婆婆(ゆばーば)のことば
「振り向かずに行くんだ」
過去を引き合いに出しては、今の自分のふがいなさの理由にするのではなく
今 そして 未来をどう生きたいのかを
明確にすれば、
きっと未来は開けるね。
過去にどんなことがあっても それがあったから 今 この学びに出会えているとしたら
なんとすばらしい「今」を、人生は プレゼントしてくれたことでしょう。
ちょうど、今 映画が終わりました。
エンディングの歌 「いつも 何度でも」が 流れて
うわぁーっと体が反応しています。
この曲は、
第6期の 京都 願望実現五カ月コースの最終講のラストに
山崎さんが かけてくださった曲。
最近は聞いていなかったのですが、
今 このタイミングで
再び耳にすることに 意味を感じています。