【2006年の記事】
阪神淡路大震災から11年。
たった20秒弱で、多くのものが失われました。
この震災の時、多くの学校が避難所となりました。
避難所として秩序を失ってしまった学校もありました。
そんな中で、最大の避難所となったある中学校の当時の校長先生が、全国を後援して回っていらっしゃいます。・・・近藤豊宣先生。
7月26日 蒲郡市で、第17回愛知県養護教育研究会 が開催されました。
愛知県内の公立小中学校養護教諭が集まるビッグイベントです。
研究発表や調査研究の報告のあと、この近藤先生の講演会がありました。
ここでの、いのちの闘いと校長としての決断、行動、そして先生や生徒達との心のつながりによる救援活動のようすを、語ってくださいました。
断水した中での水洗トイレの便や尿を木屑や板きれですくい、プールの水で流す先生や生徒。彼ら自身も被災者なのに。。。
6000人もの被災者を受け入れたこの学校。
男子トイレが足らないからと女子トイレへ殺到する男性被災者を必死で食い止め、女子トイレを守ろうとした生徒や先生を突き飛ばして、女子トイレを使おうとする被災者とのやりとり。
一番がんばったのは、学校で問題行動の多かった少年だったそうです。
届いたお弁当を生徒会の子ども達が、夜通し待って被災者に配る。
3人に一個しかない状態のお弁当を「私にもうひとつ下さい」とねだる被災者に中学生の女の子は「あなたが二つもらったらもらえない人がいるのよ。」と、断る女子生徒。
被災者の中にいる外国人に対する差別の行動に対し、毅然として人間としての行動をもってほしいと怒る先生。
やくざ(彼らも被災していた)に何日も言いがかりをつけられても、屈することのなかった校長先生。それを助けた教師軍団。
それでも、最後は、このやくざの方々も校長先生の見方になって被災者のために動いてくださったそうです。
すばらしいお話で、聴いていたみんなが涙していました。
私は、涙を通り越して、ただ唖然としてしまいました。あまりにすさまじく、悲しく、そして温かいお話でした。
もしも、学校が避難所になったら、
保健室、職員室、校長室は、救護の基点、指示・渉外の基点として、守らなければなりません、といわれました。
本当にそうです。強い人がいい場所を確保してしまっては、平等な救済活動ができないからです。
医療現場でのすさまじさ、人の命への思い、親が子を思う心、いろいろな側面からお話をしていただきました。
「親は、自分を捨ててでも、子ども達を守る存在。それを子ども達に伝えてください」といわれました。
大震災から11年。神戸は見事に復興しました。
それでも、大切な人を失った人たちの心の傷はいえません。
多くの避難所となった学校で、養護教諭が、人々の心を元気付けたという記録が残っています、と話してくださいました。
すばらしいお話を聞きました。
いのち、人、家族、人のせつなさ、弱さ、強さ、そんなものが一度に伝わってきました。
講演が終わって、辺りを見ると、みんなが泣いていました。
アメリカの被災者は被災者自身が ボランティアとなってお互いを救いあう精神が強いです。
日本は、被災者は被災者とだけなってしまう傾向があると聞いたことがあります。
被災した人間がどのアイデンティティをもって生きようとするのか、ということになるのでしょうか?
私自身が、そのような体験がなく、もしそうなったら、どうなるのか。わかりません。
しかし、ふだんから考えておくことって大事なのかと思いました。