古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆天皇記・国記

2016年08月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 帝紀・旧辞以前の史書としては、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」と「国記」がある。日本書紀には、推古天皇28年(620年)に聖徳太子と馬子が天皇記・国記を編纂して献上した、と記載されている。このことから、天皇記・国記の記述も帝紀・旧辞同様に推古天皇までであったと考えられる。そもそも天皇記・国記は当時の最大権力者であった蘇我馬子自身が編纂に関わったことから、蘇我氏に都合のいいように書かれていた、あるいは都合の悪いことは書かれなかった、ということは容易に想像できる。つまり、各氏族が持つ帝紀・旧辞の中には天皇記・国記が編纂されたあとに、それらを自分たちにとって都合のいいように書き換えてあたかも自分たちの伝承としたものがあったと考えることができるのではないか。
 天皇記・国記は乙巳の変のときに「天皇記」が焼失、「国記」は焼け残って天智天皇に献上された、との記述が日本書紀にあることから、「天皇記」は焼失により存在しないのでその内容はわからない、「国記」は焼け残ったものの現存しないために内容不明、ということになっている。しかし、そもそもこれらは天皇が一人で読むために編纂されたのではなく、蘇我氏や天皇家の権威を世の中に知らしめるために編纂されたと考えると、推古天皇に献上された原本しか存在しなかったと考えるのがそもそも間違っている。当然、写本がいくつも作成されて各氏族の閲覧に供された、あるいは各氏族に配布されたと考えられる。各氏族はそれを利用して自らの系譜を正当化するためにそれを書き換えていったのだろう。また、それをもとに独自の伝承を作り上げて行ったとも考えられる。いずれにしても各氏族は蘇我氏や天皇家がやったことと同じことをやったまでのことだが、そうして生まれたのが帝紀・旧辞である。これらの結果、天武時代に存在した帝紀・旧辞は何が真実で何が虚偽であるかの判別がつかなくなっていた。
 一方で、蘇我氏にとって都合のいいことが記述されている天皇記・国記あるいは帝紀・旧辞は記紀編纂当時の最大権力者であった藤原不比等にとっては逆に都合の悪い存在であった。蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺害した中臣鎌足の子息である藤原不比等は、父親のこの行為を正当化するため、記紀において蘇我氏を悪者扱いし、殺害されるのも致しかたなしという状況を作り出そうとした。この事情は天皇家にとっても同様であった。蘇我氏殺害という乙巳の変のもう一人の当事者が中大兄皇子、後の天智天皇、すなわち天武天皇の兄であった。天皇家にとってもこの乙巳の変を正当化しなければならなかった。これが古事記序文にある「朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ」「帝紀を撰録し旧辞を討覈して偽りを削り実を定めて後葉に流へむと欲ふ」という記述の本当の意味である。


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◆古事記と帝紀・旧辞

2016年08月15日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 古事記は天武天皇の命で稗田阿礼が誦習していた「帝皇日継」(天皇の系譜)と「先代旧辞」(古い伝承)を太安万侶が書き記して編纂し、712年に元明天皇に献上された。その序文に「天武天皇が『朕聞く、諸家の持てる帝紀と本辞は既に正実に違ひ、多に虚偽を加ふ』と言った」と書かれていることから、「帝紀・本辞(旧辞のことと思われる)」は多くの氏族が持っていて、それぞれに虚偽が加えられて既に正しいものではなかったことがわかる。すなわち、各氏族が自分たちに都合のいいように書き換えていた。あるいは「帝紀・本辞」には真実が書かれていたとしても、それが皇室にとって都合のよくない事実であった場合は「正実に違い」とか「虚偽を加ふ」と決めつけたケースもあったと考えられる。
 さらに序文には「帝紀を撰録し旧辞を討覈(とうかく)して偽りを削り実を定めて後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」「稗田阿礼が誦める勅語の旧辞を撰録して献上せよ」とあり、帝紀・旧辞に対して「撰」という表現が使われている。すなわち、各氏族の持つ帝紀・旧辞から正しいもの(=皇室にとって都合のいいもの)を選べ、と言っている。このことは、古事記の元ネタは各氏族が都合よく書き換えた、あるいは皇室にとって都合の悪い事実が書かれた帝紀・旧辞であったことがわかる。その元ネタから天皇家にとって都合のいい部分を選び、都合の悪い部分を削除し、また都合よく書き換えたものが古事記である。その古事記は神代から推古天皇(628年没)までの事象が紀伝体で記述されていることから、元ネタである帝紀・旧辞も推古天皇までの事象が書かれていたと思われる。



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◆プロローグ

2016年08月14日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 小学6年のときに社会の授業で邪馬台国を習い、将来は考古学者になりたいと思うほどに興味を持った。中学、高校においてもその興味は薄れなかったものの、大学でその道を選択することはなかった。いい大学、いい会社、という小さい頃からの親の刷り込みを打ち消すほどに強い思いではなかった、ということだ。そうして親が敷いたレールを走ることになった。それでも邪馬台国や古代史に対する興味が失せることはなく、関連する本を読み続けた。大学のときに読んだ古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」と安本美典氏の「邪馬台国への道」は大きな刺激だった。また、邪馬台国を題材にした推理小説を探し求めた。親の敷いたレールながら、自らの意思で走り続けて30年以上が経過し、否が応でも第二の人生を意識する歳になったこともあり、童心に返って興味の赴くままに古代史に向き合ってみようと思うようになった。ここで自分の考えを発信していくのだけど、邪馬台国はその所在地について百家争鳴の状況。でも、ほかの人の考えや説を否定、反論するつもりは全くない。その代わり、自分の考えはかなりの我田引水になるかもしれない。でも、自分のためにやろうとすることなので、それでかまわないと思う。
 この「古代日本国成立の物語」は日本書紀の記述をベースにして魏志倭人伝などの中国史書や考古学の視点を組み合わせて、ひとまず神武王朝成立あたりまでを論証しながら進めようと思うが、書き始める現時点で物語は完成しておらず、原稿は途中までしかできていない。だからどんな経過をたどってどんな結末になるのか、私自身にもわからない。そんな未熟な作品であるが最後まで読んでいただけると幸いである。
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