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古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆倭国大乱

2016年09月15日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 倭国の女王である卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼と関係が悪く、互いに争う状況にあった。この戦いの結果は記されていないがこれまでに書いたとおり、狗奴国が勝利した可能性が高い。この出来事が3世紀半ばのことだ。倭人伝ではそれに先駆ける2世紀後半のこととして倭国の乱(倭国大乱)にも触れている。当時、中国の魏に朝貢する国(使訳通じる所)が30ケ国であったと記しているので、互いに争った倭国とはこの30ケ国のことを指していると考えるのが自然であり、だからこそ、それらの国の1つである邪馬台国の女王卑弥呼を共立することで戦乱を収束させることができたのであろうが、私はこの混乱の機に乗じて狗奴国を始めとする倭国に属さない国々も参戦したという可能性を考えたい。
 
 倭国大乱の痕跡として「高地性集落」がよく指摘される。高地性集落とは、弥生時代中・後期に標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり、西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから狼煙の跡とも推定されている。遺跡の発掘調査からは高地性集落が一時的なものではなく、かなり整備された定住型の集落であることがわかっている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃も多く発見されている。以上のことから、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。高地性集落の分布は、弥生中期には中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期には近畿とその周辺部にほぼ限定されている。集落の分布状況や、弥生中期~後期という時期に着目して倭国大乱との関連性を重視する意見がある。この意見によれば、瀬戸内海や大阪湾岸が倭国大乱の舞台になったと言えそうだ。
 倭国大乱は北九州各国や投馬国などの日本海沿岸国のみならず、瀬戸内海沿岸各国、大阪湾岸各国など当時の西日本全体を巻き込む広範囲にわたる争いであった。そう考えると、その範囲にあった国は魏と朝貢していた30ケ国だけでなく、狗奴国やその他の国も含まれていたと考えるのが自然であろう。
 そして魏と朝貢関係にあった国々は邪馬台国の卑弥呼を女王として共立することでまとまった。一方で狗奴国やその他の国々はこの邪馬台国連合に対抗する意味で同盟関係のような何らかのまとまりを形成したのではないかと思う。そのときに中心になったのは軍事力や技術力に秀でる狗奴国であったと考える。要するに倭国大乱が発展して「邪馬台国連合vs狗奴国連合」という構図ができあがったのである。九州における「倭国vs狗奴国」の戦いはこの状況下で勃発した。



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須玖岡本遺跡

2016年09月14日 | 遺跡・古墳
 2016年9月8日(木)、前日の宮崎から空路で福岡へ。春日市にある須玖岡本遺跡へ立ち寄った。須玖岡元遺跡は那珂川と御笠川に挟まれた春日丘陵上の北側半分に位置する弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群であり、那珂川や那の津からの類推とも合わせて魏志倭人伝に記された「奴国」の中心地であろうと推測されている。1986年に国の史跡として指定され、春日市奴国の丘歴史公園として整備されている。また、歴史資料館も隣接し無料で見学ができる。
 実際に行ってみると坂道が多くて丘陵上にあるというのがよくわかる。この遺跡は甕棺墓などが多数出土することから墓域であったことは間違いなく、さらに青銅器やガラス器などの工房跡も確認されているのだが、肝心の集落跡が見つかっていない。住居跡がいくつか見られるが墓の数と釣り合わないため、集落は丘を降りた平坦地、川の周辺に設けられたのだろうか。



 奴国王の墓石
 
 漢委奴国王の金印を受けたとされる奴国王の数代前の王と考えられている。副葬品として、銅剣2本、銅矛4本、銅戈1個、前漢鏡32面以上、ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上、ガラス勾玉、ガラス管玉などが出土。とくに剣・鏡・玉の3種の神器がまとまって出たことは注目される。また、ガラス璧の出土も珍しく、福岡県前原市の三雲南小路遺跡とこの須玖岡本遺跡の2例だけである。三雲南小路遺跡もまた弥生時代の王墓であり伊都国の遺跡と言われている。


 甕棺墓(白いドームの中)
  

 資料館
 
 平日は来館者がないのだろうか、照明や冷房のスイッチを自分で入れて見学。

 春日市の遺跡分布

 黄色が春日市全体でピンクが遺跡。中央上部のピンク群が須玖岡元遺跡(遺跡群)。春日市は近年の宅地開発の進展により多数の遺跡が出ており、町全体が遺跡の上に乗っかっている状態。

ここが奴国の中心地とすると、例の金印はここではなく、なぜ志賀島で見つかったのだろうか。その形式や記録の曖昧さなどから偽物、贋作という説が絶えない金印であるが、仮に本物だとしても金印授受の事実が記された信頼できる記録が新たに発見されない限り、それを証明することはほぼ不可能だ。それは、もしも卑弥呼の「親魏倭王」の金印がどこかで見つかったとしても同じことになるのだろう。



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生目古墳群

2016年09月13日 | 遺跡・古墳
 2016年9月7日(水)、宮崎の生目古墳群を訪ねてきた。宮崎は過去に2回行ったことがあり、いずれのときも西都原古墳群を訪問した。当時はこの生目古墳群(いきめこふんぐん)の存在を知らなかったのだが、古代の南九州を学ぶ中でその存在を知り、機会があれば行ってみたいと思っていた。当日は台風13号が九州東岸をかすめるために雨の予報であったが、幸運なことに台風の影響は全くなくピーカンの快晴。逆に熱中症すら心配する状況だった。
 生目古墳群は国指定の史跡公園として整備され、宮崎市の埋蔵文化財センターも併設しており、入場、入館は無料である。しかし、国指定の史跡公園というわりには管理が行き届いておらず、公園内は駐車場や芝生公園、メイン通路を除けばほぼ全域が雑草におおわれており、時には身長ほど高さの草を掻き分けて進まねばならない状況だったのは残念だった。

<生目古墳群の概要> (宮崎市ホームページより抜粋)
 生目古墳群は、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた、古墳時代前期から中期(約1700年前から1500年前)の古墳群です。この丘陵は大淀川右岸に位置しており、東には宮崎平野を見渡すことができます。
 生目古墳群は51基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基があります。その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言えます。当時、この生目古墳群に埋葬された人物は、かなり大きな力を持った人物であったと考えられます。また、南九州独特のお墓の形である地下式横穴墓も多く発見されています。その中で注目されるのは、地下式横穴墓が前方後円墳の下から見つかったことです。これは、近畿地方からの影響のもと築かれた前方後円墳と南九州独特の地下式横穴墓の関係を知る上で非常に貴重な発見であったと言えます。


<現地の様子>
 埋蔵文化物センターと体験学習施設を併設する「生目の杜遊古館」 
  

 宮崎市内の遺跡の出土物を保管するに部屋に設けられた生目古墳群の展示施設 

 史跡公園の全体図 

 3号墳   3号墳は全長143メートル、高さ12.7メートルの前方後円墳。九州では西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次いで3番目の大きさである。歩いて登ることができるので、前方部手前の左角から登り、墳丘上を後円部頂上に向かって歩き、最後は前方部の急な斜面を降りた。墳丘全体が大きすぎて全景を撮ることができなかった。

 5号墳    5号墳は全長57メートル、高さ4.4メートルの前方後円墳。葺石を復元した形で公開されており、ここも登ることができる。葺石は土に張り付けるように並べているのかと思ったらそうではなく、土に突き指すようにしていた。これだと必要な石の数は膨大になるけど崩れにくいという利点がある。この復元にはセメントで固めるなどの方法ではなく古墳築造時の工法が用いられているために実際に古墳そのものを感じることができる。この状態を何十年も継続するためにはしっかりしたメンテナンスが必要であろう。

 7号墳 
  7号墳は全長46メートル、高さ3.9メートルの前方後円墳。生目古墳群は前方後円墳の周りに南九州独特の埋葬方法である地下式横穴墓が多数みられるが、この7号墳はそのうちの一つが後円部の右側面から中心部に届くような地下式横穴墓が設けられており、本体である前方後円墳の埋葬主体ではないかと言われている。もしそうだとしたら前代未聞の貴重な遺跡であるはずだが、その保存実態は見ての通り。いったんブルーシートで覆ったものの何年も放置されてシートが破れて草がぼうぼう。おそらく横穴も崩壊していることだろう。まことに残念である。


 九州最大規模の前方後円墳である3号墳、葺石を築造時の工法で復元した5号墳、おそらく日本でここだけと思われる地下式横穴墓と前方後円墳が埋葬施設として合体した7号墳など、貴重な古墳が密集している。規模では西都原に負けるが内容では互角と言ってよい。それにもかかわらず、平成20年に生目古墳群史跡公園としてオープンし、まだ10年も経っていないとは思えないほどに荒れていた。入り口の芝生公園は綺麗に保たれているためにそのコントラストで余計に残念な気持ちになった。


 <「生目」の由来>
 当地に生目神社がある。第12代景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと。垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、当地の住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えたことによる。このほか諸説あるが、私はこの説に興味を持った。
 


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◆卑弥呼の死

2016年09月12日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 卑弥呼の死については様々な説がある。狗奴国との戦闘で戦死した、敗戦の責任を追及されて殺された、病死した、などなどである。京都学園大学教授であった岡本健一氏は倭人伝に記された「卑弥呼以死」の「以死」について中国史書における用例を調査し、「史記」に38例、「三国志」に33例、「新唐書」に56例など「二十五史」だけで761例あることを明らかにした。
 そしてそのすべての用例を検討した結果、「以死」がいわゆる自然死として使われた例がないことがわかった。つまり、刑死・戦死・自死・遭難・殉職・事故死など「非業の死を遂げた」場合の用例ばかりであったという。倭人伝には、倭の遣いである載斯烏越等によって狗奴国との戦闘の報告がもたらされ、魏が激励のために詔書・黄幢を難升米に拝仮したあとに卑弥呼の死が記されている。このことから、卑弥呼はこの戦争が原因で死去したと考えられる。そしてその死後に径百歩余りの大きな墓に葬られたのだ。



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◆途絶えた倭国による朝貢

2016年09月11日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏の後に成立した晋についても正史である「晋書」が書かれている。その晋書にある倭国に関する記述で特に魏の終末期以降の状況を見てみよう。

 まずは「晋書四夷伝(東夷条)」にある魏から晋に政権が代わるタイミングの記述。「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢(句読点は筆者による)」。当時の政治背景を含めて以下のように解釈できる。晋の初代皇帝である司馬炎(武帝)は建国後、晋の礎を築いた祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号した。その宣帝である司馬懿は魏の時代、遼東を支配していた公孫氏を破った。公孫氏の影響を排除した結果、倭の女王は遣いを帯方郡に派遣して朝見を果たすことができた。以降、倭国は魏との朝貢を絶やさなかった。宣帝の子である文帝が魏の宰相となった後も倭国はたびたびやって来た。その後に晋が建国された泰始年間の初め(後述の武帝記の泰始2年の内容と同一と考える)、遣使が重ねて入貢してきた。
 魏の終末期に倭が朝貢を続けたことは倭人伝と整合がとれている。そして政権が晋に代わってすぐに朝貢してきたという。通説ではこの朝貢は台与によるものとされているが、少し詳しく考えてみたい。倭人伝の記述は張政の帰国に対して台与が掖邪狗らを随行させたところで終わっている。張政は来日した247年以降、卑弥呼の死、男王即位、内戦、台与即位の事態を経たあと、台与を激励して魏へ帰国した。台与即位の時期は247年の数年後といったところか。とすると泰始2年(266年)の朝貢まで10年以上が経過している。張政の帰国時において倭国と狗奴国の戦争状態は継続していたが、さすがに266年には終結していたであろう。そして「泰始初、遣使重譯入貢」の一文には「倭国」とも「倭国の王」とも「倭国の女王」とも書かれていない。このことから、泰始2年の朝貢は台与によるものと断定することはできず、むしろそうではない可能性が高いと言えよう。

 次に「晋書武帝記」の泰始2年(266年)の記述として「十一月己卯、倭人來獻方物」とあり、これは先の「晋書四夷伝(東夷条)」のことを指すと考えられるが、266年11月に倭人がやって来て産物を献上したことがわかる。ここでも倭人と書かれているだけで誰が誰を遣いとして送ったのかが書かれていない。いや、書かれていないどころか、その朝貢主体を倭国でもなく女王でもなく、ましてや邪馬台国でもない一般名称である「倭人」という表現にしている。その後の太康10年(289年)には「是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻」とあるが、この東夷絶遠の30余国を倭国と考える説もあるがここでは既に「倭人」の表現さえない。そしてこの後、倭、倭国、倭人など「倭」という語が登場するのは266年から数えると147年後、いわゆる空白の4世紀を経た義熙9年(413年)の次の記述となる。「是歳、高句麗、倭國及西南夷銅頭大師、並獻方物(この年、高句麗・倭国および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり)」。ここでは「倭国」となっているが、相変わらずその倭国の王や遣使の名に触れることはない。

 以上の通り、晋書において「倭」は何度か登場するものの、その扱いは魏志倭人伝と比較にならないほど簡潔で内容が薄い。晋書は唐の太宗の命により648年に編纂された史書である。従来の史書はすでに誰かが書いた書物をベースに史書に仕立て直すという作業が行われたが、晋書においてはゼロからの書き起こしであった。それを前提に理解をしなければならない。つまり編纂時は過去の史実を全て把握した上でどうにでも話を作ることができたということである。当然、中国正統王朝である晋にとって都合の悪いことは書かれなかったはずである。魏の時代に狗奴国と戦っていた倭国が勝利し、晋の政権樹立に合わせて朝貢してきたとすれば、おそらくその事実は記録として残されたであろう。狗奴国を破って日本(少なくとも西日本)を統一した強国が朝貢してくるということは威信を示すには十分な事実である。逆に敗れていたとすれば威信を傷つけることになる。魏の時代に十分な応援をしただけに敗戦はなおさら伏せるべき事実であった。泰始2年に朝貢があったのは事実であろうが、それは倭国の王、すなわち台与によるものではなく、北九州倭国のいずれかの国が捲土重来を期すために晋の後ろ盾を得ようとしたのではないだろうか。しかし、晋にとっては敗戦国を支援することはもはや無意味であったろう。

 前漢、後漢、魏と続いてきた中国王朝と倭国の関係は狗奴国の勢力拡大による劣勢下で一気に冷え込むことになった。これが空白の4世紀の実態であったろう。この期間は日本側(倭国)からの朝貢が途絶え、中国王朝にとっても史書に記述するほどの価値がない国になってしまった。



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◆倭人伝に記されなかった倭国の勝利

2016年09月10日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 倭人伝からは倭国と狗奴国の戦いがあったことは読み取ることはできるが、その結果については何も触れられていない。倭人伝の最後の部分、卑弥呼が親魏倭王の称号を得て魏と朝貢外交を展開し、狗奴国との戦いを告げたくだりの直前から最終部分までの読み下し文を記載する。

 「その六年、詔して倭の難升米に黄憧を賜い、郡に付して仮授せしむ。その八年、太守王き(斤+頁)、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄憧を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て台与を告喩す。台与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。」

 行間を含めて内容を理解してみよう。景初3年(2年は間違いとの通説に従う)の239年、魏より親魏倭王の称号を得た卑弥呼はその後、魏に対して積極的な朝貢外交を展開し、魏もそれに応えた。その流れの中で正始6年(245年)に魏は倭の大夫である難升米に対して詔を以て黄幢を下賜し、帯方郡に託して授けた。その後、正始8年(247年)に帯方郡太守の王きが着任した。このとき倭国はおそらく狗奴国との戦いにおいて劣勢に陥っていたのであろう。倭国は魏の支援を得んがために載斯烏越等を帯方郡に送り、その窮状を訴えた。この派遣は卑弥呼によるものではなく北九州倭国が独断で行ったことかも知れない。いずれにしても訴えを聞いた魏側は張政らを倭国に派遣し、詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を作って激励した。2年前に帯方郡に託していた詔書・黄幢が張政によってようやく難升米の手元に渡った。(しかし、これらの詔書・黄幢あるいは檄文が卑弥呼のもとに届いたかどうかは不明である。)その後、大和にいる卑弥呼が死去したため墓を設けて手厚く葬った。おそらく、この卑弥呼の死をもって倭国の敗戦は濃厚となった。
 卑弥呼の死後、男王が立った。この男王に関する具体的な記述はないが、卑弥呼を補佐していた男弟が代理として王になったのではないだろうか。しかし、この王は倭国をまとめることができず倭国内が内戦状態に陥った。倭の各国は卑弥呼の宗女である台与を王に立てて改めて結束することができ、その結果、狗奴国に対して反撃に出たのではないか。魏の遣い張政らが台与を激励したことは完全な終戦に至っていなかったことを物語っている。台与は掖邪狗らを派遣し張政らが魏に帰るのに随行させた。そして掖邪狗らは皇帝の居場所である台に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔の開いた大きな勾玉を二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。台与は魏に対して継続的な支援を求めたのだろう。

 そして倭人伝の記述はここで終わっている。魏はその後265年に元帝が司馬炎に政権を譲って終焉を迎えた。そして魏に代わって晋が成立した。したがって三国志魏書は265年までの記述となるのだが倭人伝は247年で終わっている。248年から265年の17年間の事象は記述されていない。倭国と狗奴国との戦闘がどうなったのか、その後の日本列島で何が起こっていたのか。少なくとも倭国が狗奴国に勝利したとすればそのことは記録として残されるべき出来事であったはずだ。魏の属国である倭国がその敵国を退けたこと、そしてその勝利は魏の支援の結果であるのだから当然にそのことを喧伝しようとするはずだ。逆に倭国が負けたのであればその事実を伏せようとするだろう。魏の威信低下につながる話だから。このように考えると、倭国は狗奴国に敗れた、あるいはそれに近い状態になったと考えるのが蓋然性が高い。


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◆鉄器生産能力に勝る狗奴国の優勢

2016年09月09日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 弥生時代、北九州倭国においても朝鮮半島経由で入ってきた製鉄技術を利用して鉄器の生産が始まっていたが、北九州倭国は狗奴国と違って朝鮮半島経由で鉄そのものを輸入することができた。3世紀の朝鮮半島の情勢として「魏書東夷伝の弁辰条」に「(弁辰の)国々は鉄を産出する。韓・ワイ・倭がみな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、中国で銭を用いているのと同じである。そしてまた(楽浪・帯方の)二郡にも供給している。」と書かれている。当時、半島南部には馬韓、弁韓、辰韓の三韓があり、弁韓・辰韓では鉄資源の開発と鉄生産が隆盛し、楽浪・帯方二郡に供給するほどの一大製鉄拠点となっていた。倭国もこの鉄を入手していた。魏志倭人伝には「帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里」とあり、倭の北岸である狗邪韓国が朝鮮半島にあったことがわかる。北九州倭国はこの狗邪韓国を経由して半島の鉄を手に入れることができた。半製品の鉄塊もあり完成品の鉄器もあった。
 北九州倭国はこの状況の中で自前での鉄器生産は狗奴国に遅れを取ることになったのではないだろうか。先述の愛媛大学の村上教授の「倭人と鉄の考古学」によると、弥生時代の鍛冶工房および鍛冶関連遺物の分布をみると九州北部よりも九州中部にその数が多いことが読み取れる。必要な時に必要なだけの輸入が叶うのであれば戦闘の最前線にどんどん兵器を供給できるが、自前での生産が不十分な状況下でひとたび輸入が停滞してしまうと戦場はたちまち窮地に陥ることになる。鉄器生産能力に勝る狗奴国が戦闘を有利に進めたことは間違いないだろう。



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◆倭国vs狗奴国 戦闘の様子

2016年09月08日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 先に見たように狗奴国はあくまで邪馬台国そのものではなく女王国連合、すなわち倭国の南で境界を接する国であったので、狗奴国の戦いの相手は邪馬台国ではなく、倭の国々であった。倭人伝の記述「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」は倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼が対立していた状況を伝えており、このことからも戦闘の当事国は倭国と狗奴国であることがわかる。もちろんこの場合の倭国は北九州の国々、すなわち北九州倭国を指す。狗奴国と北九州倭国の境界あたりで両国の戦闘があったと考えられるので、次にその様子を見てみよう。

 次の図は、松本寿三郎氏、板楠和子氏、工藤敬一氏、猪飼隆明氏の共著による「熊本県の歴史」に掲載された弥生後期後半の鍛冶遺構の分布を示すものである。特に北九州倭国と狗奴国の境界に近い北方を中心に主な遺跡を順に示す。

      弥生時代後期後半における主な鍛冶遺構 (『熊本県の歴史』より)


■狩尾遺跡群
 阿蘇山北西部の外輪山の麓、熊本県阿蘇市に所在する湯の口遺跡、方無田(かたなた)遺跡、前田遺跡の総称である。湯の口遺跡からは縄文時代の土器片と石鏃、弥生時代の終わり頃から古填時代の始めにかけての竪穴住居跡45基が発見された。鉄器は鉄鏃55点など総数331点が出土、また鉄滓を除く鉄製品の出土した住居跡は34基で全住居跡の約8割を占める。また、13号住居跡は鍛冶工房の姿を如実に残しおり、これらの分析の結果、この遺跡内で鍛冶および鉄器生産がおこなれていたという結論になった。また、有力者の墓と思われる箱式石棺が横に並んで3基発見された。
 方無田遺跡からは弥生時代中期始めと弥生時代後期終わりの竪穴住居跡や墓穴が多く見つかった。特に、弥生時代中期の住居跡は阿蘇谷において弥生時代最古として注目されている。弥生時代後期の鉄器は鉄鏃11点を含め30点が出土した。
 前田遺跡では弥生時代終わりの竪穴住居跡13基と、同時期とみられる掘立柱建物が見つかった。遺構の時期や広がりの様子からみて西隣りの方無田遺跡と同じ弥生のムラの一部と思われる。鉄器は5点、また、3軒の住居跡からは直径約5ミリの濃青色のガラス玉が各1点ずつ、いずれも住居跡中央から出土した。6号住居跡には折れた柱が立った状態で出土した。柱が焼け炭化したために残ったもので、当時の家屋構造を知る上で貴重なものである。

■池田古園遺跡
 湯の口遺跡、方無田遺跡、前田遺跡から少し距離をおいているが狩尾遺跡群と一連の流れにある遺跡である。弥生時代中期の土器片、弥生時代後期の竪穴住居跡35基、周溝遺構5基が検出された。鉄器は、鉄鏃54点を含む161点が出土した。

■池田遺跡
 こちらも先の狩尾遺跡群の一角を占める遺跡である。弥生時代後期の竪穴住居跡9基が検出された。このうち鉄製品の加工を主体とした鍛冶施設とみられる6号住居跡では42点の大量の鉄製品と鉄滓の広がりを確認した。鉄製品の出土数は一住居跡としては狩尾遺跡群では群を抜く数である。

■下山西遺跡
 阿蘇山中央火口丘の先端、狩尾遺跡群からはカルデラを挟んで東方3.8kmのところに住置する。34基の竪穴のうち、古墳時代の1基と時期不明の2基を除いて弥生時代終末期のものである。さらに丘陵の最先端部に4基の石棺があり、このうち3基から鉄剣1本づつが出土し、1基からガラス玉が出土した。石棺の中には大量のベンガラが入れてあり、被葬者は阿蘇黄土を利用したベンガラの生産と関わりのある者であろうと推定される。また、152点の鉄器が出土し、特に鏃の占める割合が高い。白川・大野川流域の弥生後期の鉄器の総合的な分析によれば、この地域は鉄器生産と流通について地域的特長を示し、北九州地域とは異なる様相を示す。なお、下山西遺跡の西南約300mからは、大正4年(1900年)に中細銅戈1本が発見されている。おそらく下山西遺跡と関係あるものと思われることから、この下山西遺跡は阿蘇谷の弥生期の有力集落のひとつとみてよい。

■西弥護免遺跡
 熊本県菊池郡大津町にあり、総数214軒にのぼる弥生終末期の住居跡、198基の土壙墓群住居跡群を囲む環濠の総延長1キロ以上の大遺跡で、総数581点の鉄器が出土している。このうち298点の鉄器片は173号住居跡に集中して出土した。鍛冶工房とみられるこの住居跡出土の鉄器は、形のわかる鏃5点・やりがんな2点のほかはすべて針状か幾何学形の細片であり、再加工のための鉄素材という性格をもっていると思われる。

■方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡
 熊本県山鹿市方保田にあり、菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した環濠集落遺跡である。広さは35~40haと広大で吉野ヶ里遺跡(およそ50ha)に匹敵する。これまでの調査結果から住居跡80軒、埋葬施設21基のほか、幅8mの大溝や多数の溝が確認され、外敵から集落を守っていたことが分かっている。出土した鉄器は破片も含めると170点を超え、全国で唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されるとともに、鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている。巴形銅器をはじめとする数多くの青銅器も発掘されており、この地の権力者を中心に形成された集落であると考えられる。

■諏訪原(すわのはる)遺跡
 熊本県玉名郡和水町にあり、弥生後期~古墳時代初めの73軒の竪穴住居跡のうちに鍛冶工房とみられる焼土や鉄滓、鉄片を多数ともなう住居跡が調査されている。5号住居跡から鉄片118点、7号住居跡から鉄滓、39号住居跡から鉄片200余点が出土している。鉄片はいずれも細片で、製品の型どりをした後の鉄屑が、あるいは再加工のために工房に集められた回収品かとみられている。

 以上は熊本県教育委員会などによる各遺跡の報告書、奥野正男氏の「鉄の古代史 弥生時代」、菊池秀夫氏の「邪馬台国と狗奴国と鉄」などを参照したが、奥野氏はその著書で弥生時代の「後期後半から終末期にかけて、九州では熊本・大分両県に鉄鏃の増加が目立つ。その出土遺跡は熊本県玉名郡・菊池郡・山鹿市・阿蘇郡など、主に福岡・熊本県境の山間部に多い。山鹿市方保田遺跡、阿蘇町下山西遺跡、大津町西弥護面遺跡などからは、いずれも多数の鉄鏃を主とし、数百点の鉄器が出土している。筑紫平野や熊本平野などにみられる平地集落と比べ、けっして耕地に恵まれているとはいえないこれら山間部の集落に、多量の鉄鏃が集中しているのはなぜだろうか。私は、いま熊本・福岡の県境となっている大牟田、玉名、菊池にかけての山地は、三世紀頃も、邪馬台国と狗奴国との国境地帯だったと考え、当時この国境一帯のムラに、鉄鏃を集中させるような軍事的緊張がつづいていたものと想定している。」と述べている。私は基本的にこの考えに賛同する。ただし、氏が「邪馬台国」としている個所を「倭国」あるいは「北九州倭国」と読み替えておきたい。


鉄の古代史―弥生時代
奥野正男
白水社


邪馬台国と狗奴国と鉄
菊池秀夫
彩流社




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◆倭国と狗奴国の戦い

2016年09月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 魏志倭人伝をなぞって邪馬台国までやってきたがここで話を九州に戻そう。南九州から北上しながら領土拡大を進めてきた狗奴国であるが、阿蘇山周辺まで進出したことで必要とした製鉄原料である褐鉄鉱を十分に手に入れることができた。したがって狗奴国はそれ以上の領土拡大の必要はなくなったわけだ。しかし、ふと気がつけば女王国連合の国々が勢力をもつ北部九州(北九州倭国)まで目と鼻の先、まさにその裏庭に迫っていた。強大な国力を誇る狗奴国にその背後を突かれる形となった北九州倭国は大きな危機感を持ち、その大いなる危機感は狗奴国との戦いへと急がせた。これが魏志倭人伝に記される倭国と狗奴国の戦いの発端である。 
 末盧国や伊都国、奴国、不弥国など倭人伝に記された約30ケ国は互いに争った倭国大乱の後に邪馬台国の女王卑弥呼のもとで連合国家としてまとまった。しかし、南九州の狗奴国はこの連合国に属するどころか連合国と戦わなければならない関係にあったようだが、それはどうしてだろうか。

 倭国は大陸の華北平原あたりから戦乱を逃れてやってきた人々や、交易のため、あるいは逃亡者として朝鮮半島からやってきた人々が土着の縄文人とつながることによって弥生人である倭人となって各地で建国した国々の連合国家である。言い換えれば、これらの国は華北や朝鮮半島を祖国とする民族で成り立っており、その結果として魏を後ろ盾とすることとなった。
 一方、狗奴国は同じ大陸でも江南地方からやってきた人々が南九州土着の縄文人と交わって弥生人となって建国した国である。つまり、狗奴国は江南を祖国とする民族による国であると言える。江南の地は春秋時代には呉(句呉)が建ち、その後、戦国時代に楚の領土となり、秦、漢(前漢・後漢)と続いた後、三国時代には再び呉が建国された。春秋時代の呉とはまったく関係のない国であるが、倭国が魏とつながっていたように狗奴国はこの呉とつながっていたのかもしれない。
 
 この通り、狗奴国が女王に属さなかった理由は「互いに違う民族であった」ということである。しかも当時は三国時代、それぞれの祖国の地は大陸の覇権を争うライバル国であった。狗奴国は倭国と戦いこそすれ互いに手を取り合うことは決してなかった。



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◆纒向型前方後円墳と箸墓古墳

2016年09月06日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 纒向遺跡には前方後円墳の原型となった纒向型前方後円墳と言われる古墳がある。一般的な前方後円墳に比べて前方部の長さが短いホタテ貝型で後円部の高さが低いことが特徴である。その一つに纒向石塚古墳がある。全長が93m、後円部の径が60m、前方部の長さが33mの前方後円墳である。幅が20mもある周濠の最下層から出土したヒノキの板材の年代を調べると残存最外年輪の暦年は西暦177年との測定結果が出た。これについて年輪年代学の光谷拓実氏は、残存の辺材部の平均年代幅をもとに推計し「その伐採年はどうみても200年を下ることはない」と結論づけている。したがって周濠の年代は年代幅を最大限に見積もっても2世紀第4四半世紀(175年~199年)の造営とみなすことができるという。一方で石野氏は出土した土器の編年から210年頃の築造とする。そして周濠からは他に弧文円板や赤い色が付けられた鶏型の木製品、さらに根元だけが残った柱が立ったままの状態出土したことから、3世紀初頭の段階で被葬者を葬るときに木製葬具を用いた葬送儀礼が行われていたことが確認されたと指摘している。

 同じく纒向型前方後円墳にホケノ山古墳がある。卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳の東250mのところにある。全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの規模である。橿原考古学研究所と桜井市教育委員会の調査によって積石木槨が現れ、幅2.7m、長さ7mという規模の大きい板囲いのなかに組合式のU字底木棺が納められていた。その板囲いを押さえる6本の柱とは別に4本柱と棟持柱ふうの長軸上の2本の柱穴が検出された。まさに埋葬施設を覆うような切妻造りの建物が墳丘の中に設けられており、これまでに見たことのない構造を持った埋葬施設であることがわかった。さらに画文帯神獣鏡、銅鏃、鉄鏃、刀剣類などが副葬されていた。放射性炭素年代測定では、出土炭化物から55年~235年の数値が得られたという。
 私はこのホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと考える。鬼道を使う女王を埋葬するに相応しい埋葬施設を持っていること、卑弥呼が死去した時期に近い炭化物が出ていること、その大きさが魏志倭人伝にある「徑百余歩」と考えられること、がその理由である。後円部の径が60mであることから小さい歩幅ならちょうど百歩ほどとなる。

 先述の纒向石塚古墳にほど近いところにある纒向勝山古墳も203年~211年という年代が得られており、纒向にあるこれらの纒向型前方後円墳が2世紀後葉から3世紀前半に築造されたことがわかっている。そして纒向型前方後円墳に続く初期の前方後円墳として卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳がある。石野氏はその築造年代を3世紀後半、280~290年と考えている。箸墓は陵墓参考地として宮内庁に管理されているため詳しい発掘調査ができないのが残念であるが、ホケノ山古墳を卑弥呼の墓と考える私はこの箸墓は台与の墓と考える。

 このように纒向の地ではちょうど卑弥呼の時代の墓にふさわしい古墳が築かれていることがわかる。



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◆纒向遺跡の特徴

2016年09月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 2008年の第162次調査以降、3世紀前半に建てられた4棟の大型建物跡が検出され纒向遺跡の居館域にあたると考えられているが、この4棟が東西に全軸をそろえて一直線に並んでいることがわかった。中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模である。第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されているという。要するにこの4棟の建物群は祭祀を行う場、すなわち祭殿であり、鬼道を使う卑弥呼の宮殿であったと考えられる。

 纒向遺跡から出土した土器には日本各地の土器(外来系土器)が混じっており、その比率が弥生時代の他の遺跡と比べて非常に高いことがわかっている。調査地点によって違いがあるが少なくとも15%、多い地点では30%を占めている。近くの唐古・鍵遺跡では3~5%と推定されていることと比較するとその比率の高さがわかる。そして時代的に見ると210年頃から280年~290年にかけての時期が外来系土器が最も多くなっている。卑弥呼・台与の時期に他の地域との交流あるいは交易がもっとも盛んであったことを示しており、倭国の各地域と都との間で人や物が行き交った様子が想像できる。
 その各地域とはどこであったか。東は静岡県の駿河、東海道沿いでは静岡から愛知、三重の各県、日本海沿岸では北陸の富山県から石川県、西へ行けば山陰の鳥取県から島根県出雲地方、瀬戸内海沿岸では山陽と四国北部の各県、さらには福岡県まで及ぶ。畿内では河内、丹後、播磨などの土器も纒向に来ていることがわかっている。外来系土器の地域別の比率は以下の通り。
     東海     49%
     山陰・北陸  17%
     河内     10%
     吉備      7%
     関東      5%
     近江      5%
     西部瀬戸内   3%
     播磨      3%
     紀伊      1%

 ほぼ半数が東海地方の土器であることが特徴と言えるが、石野氏は纒向遺跡が邪馬台国であるとすると狗奴国の有力候補地が尾張・伊勢であろうとして、その地域の土器が大量に纒向に入ってきていることを新たな課題として捉えている。狗奴国との戦争の結果をどう考えるか、という示唆であろう。私は邪馬台国が纒向にあり、狗奴国が南九州にあったと考えているのであるが、その立場からこの問題を考える必要性を感じているものの現時点ではその過程に至っていない。



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◆政治都市「纒向」の成立

2016年09月04日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 ここからは石野博信氏の「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」を参考に纒向遺跡について見ていきたい。

 纒向遺跡は奈良県桜井市にあり、奈良盆地の東南、三輪山の麓から大和川にかけて東西2キロ、南北2キロに広がる地域で180年頃に突然に現れ、350年頃に突然に消滅したと考えられている。石野氏は「自然発生の集落ではなく人工的に造られた政治都市である」と指摘している。また纒向遺跡の発生時期は魏志倭人伝にあるいわゆる倭国大乱の時期と重なっている。後漢書によると倭国大乱は桓霊の間(桓帝・霊帝の治世の間)つまり146年~ 189年、また梁書ではさらに時代が絞られ、後漢の霊帝の光和年間、つまり178年~184年となっている。魏志倭人伝は、倭国の各国は卑弥呼を共立することでこの大乱を収めたとしている。このことから卑弥呼は190年前後に王となったと考えられる。また倭人伝は卑弥呼の死についても触れている。247年に狗奴国との戦闘を報告し、魏から激励されたあとに「卑弥呼以死」と記されており、卑弥呼は250年前後に死去したと考えられる。つまり卑弥呼の時代は180年代から250年頃ということになる。
 卑弥呼の死後、男王が立ったものの国中がこの王に服さず、更に戦いが続いた。卑弥呼の宗女「台与」を王として立てるとようやく国中が治まったという。つまり2世紀末から3世紀は卑弥呼・台与の時代であり、纒向は女王卑弥呼、その後の台与の都として建設された政治都市であると考えられる。



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◆投馬国から邪馬台国への道程

2016年09月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 投馬国から邪馬台国への道程について倭人伝は「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。(南へ行けば邪馬台国に至る。女王の都があるところである。水行で十日、陸行でひと月である。)」と記している。投馬国を出雲として出雲から南方向、これまでと同様に30~90度ずらして東南東から東と読み替える。そしてまず水行、すなわち船で出航する。出雲を出て日本海を東へ向かうということである。その後にどこかで上陸してひと月の陸行となる。不弥国から投馬国までの水行を20日間で300~400kmと試算したので10日間ではこの半分と考えて150~200kmとすると、上陸地点は丹後半島の手前、現在の兵庫県の日本海沿岸のどこか、あるいは兵庫県まで行かずに鳥取県の東端、現在の鳥取市あたりかも知れない。いずれにしても上陸地点からは邪馬台国まで陸行でひと月を要した。仮に上陸地点を鳥取市とすると纒向までは250kmほどとなり、ひと月も要するのかと思うが、現代のような整備された道路ではなく、しかも銅鏡100枚など重い荷物を大量に運ぶのである。休息を取りながら、あるいは食料調達のために時間を要しながら、などと考えると、ひと月を要したとしても何ら不思議ではない。このように投馬国を出雲としたときに水行十日、陸行一月を要する先にある女王の都として纒向の地が相応しいと考える。

 ところで、水行の際にどうして丹後半島まで行かなかったのだろうか。できるだけ水行で進むのが楽なはずである。さらに言えば丹後半島を越えて敦賀あたりまで行って上陸し、琵琶湖を利用して瀬田川を下り巨椋池から木津川に入って大和を目指すのが最も楽な行程ではなかろうか。これについては改めて詳しく考えようと思うが丹後という地域の特殊性によるもの、つまり丹後が倭国に属していなかった、あるいは出雲と対立していたということではないかと考えている。



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◆邪馬台国の位置

2016年09月02日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 投馬国の次はいよいよ邪馬台国である。邪馬台国の位置については九州説、畿内説、その他もろもろ、それこそ百家争鳴の様相である。畿内説は纒向遺跡がその都であるということでほぼ一致している一方で、九州説については様々な場所が比定されている。魏志倭人伝に記された邪馬台国に至る道程にある末盧国、伊都国、奴国、不弥国の各国が九州内でほぼ確定されている、方角や距離を考えると九州を出て本州に向かうことは考えにくい、とくに北九州にはそれと思しき遺跡が豊富にあり比定がしやすい、などの理由で候補地が多くあり畿内説のように1つにまとまっているわけではない。

 小学6年で邪馬台国や卑弥呼を初めて習ったときに大いに興味を覚えた。邪馬台国がどんな国で卑弥呼がどんな人物であるかではなく、それが謎に包まれていることに興味を持った。もともと謎解きが好きな子供であったので、いつかは邪馬台国や卑弥呼を自分で解き明かしたいと思った記憶がある。そんな私が考えている邪馬台国の場所は「大和の纒向」である。あまりに普通すぎるのだが、その主な理由は、倭人伝における方角のズレを考慮するとその位置に矛盾が生じないこと、投馬国(出雲)から水行と陸行の両方が必要なこと、纒向遺跡が2世紀後半から4世紀前半の遺跡であり卑弥呼の時代に符合すること、鬼道を使う場所として相応しい神殿のような建物跡が検出されたこと、外来系土器の出土状況から西日本各地との交流や交易の様子が確認できること、ホケノ山古墳や箸墓古墳など卑弥呼の時代に合う初期の古墳が付近にあること、などである。
 しかし、これらの理由以上に何よりも現地に行ってみて直感的に「ここだ」と感じたことが最も大きな理由かもしれない。



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◆投馬国の位置

2016年09月01日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、次に投馬国と邪馬台国であるが、結論を先に言うと私は投馬国は出雲に、邪馬台国は畿内の大和にあったと考えている。特に邪馬台国については纒向遺跡をその中心地として比定している。まず投馬国を考える。

 不弥国に続いて「南至投馬國、水行二十日(南に水行二十日で投馬国に至る)」とある。不弥国である福岡県飯塚市から(南を90度ずらして)東に船で進んで20日で投馬国に到着する、ということだ。ここで問題となるのは次の2点である。1点目は、当時、船で20日というのは具体的にどれくらいの距離を進むことができたのかということ。2点目は、東方面となると瀬戸内海を航行したと考えるのが自然であるが、本当にそうだったのか。日本海を進んだ可能性はないのか。

 まず1点目の水行20日を考えてみる。古来、対馬海峡を縦横に行き交う人々がいたことを先に見た。また、埴輪や土器などに刻まれた線刻画をもとに海峡横断に利用された船を復元する様々な試みがなされている。
 
  
 
 上の左側の写真は東京国立博物館所蔵の宮崎県西都原古墳群から出土した舟形埴輪、右側は大阪市立博物館所蔵の足付舟形埴輪である。1975年にこの西都原出土の埴輪をモデルに製作された野生号という復元船で対馬海峡を渡る実験が行われた。その結果は、漕ぎ手が14人で平均1.7ノット(時速3.7km)のスピードだったという。

 また、次の2つの写真からもわかるように帆船と思われる船を描いた土器片が見つかっている。左は奈良県天理市の古墳時代前期の東殿塚古墳から出土した土器に描かれた船の線刻画、右は岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥生時代の方形周溝墓の溝から出土した広口壺に線刻されていた絵画である。前述の復元船がこれらのように帆船であったとしたらもう少し速度が出ていただろう。
 
  
 
 時代は下るが古墳時代には帆船を描いた線刻画などが各地の古墳から見つかっている。下の左は鳥取市青谷町の古墳時代後期と思われる阿古山22号墳の石室側壁に描かれた帆船の線刻画である。右は熊本県不知火町の古墳時代後期の桂原古墳の玄室に描かれた線刻画で、いずれも明らかに帆船が描かれていることがわかる。
 
  
 
 次に、三重県松阪市宝塚町の5世紀初頭の宝塚1号墳からは国内最大の船型埴輪が出土した上から見ると船央に帆柱用の穴があり、帆船で あったことがわかる。まさに先の西都原の埴輪に似ており、このモデルとなった船にも帆があった可能性が高いことを示している。
 
  
 
 先の野生号は平均時速3.7kmであったが、帯方郡の使いが乗った船は積荷や漕ぎ手でない人の荷重を考えると平均時速は3km程度か。ただし、帆船であった可能性が高いこと、日本海を東に進む場合は対馬海流の流れがあること、などを考慮すれば実質的には5kmほどであったと推定する。1日の航海時間は太陽が出ている間の10時間、但し、漕ぎ手の体力を考慮して1日あたりの漕ぐ時間は半分の5時間、残りは帆を利用して風の力と潮流のみで推進。このように考えると1日に進む距離はざっと35kmと考えて差し支えないだろう。以上の水行を20日間、1日も休むことなく続けると航行距離は700kmとなる。天候や波の状況、漕ぎ手の体力など、様々な要因により実質的に進んだ距離は半分の300~400km程度ではなかっただろうか。
 不弥国から遠賀川を下って響灘に出たあと、関門海峡を通過して瀬戸内海に入り300~400kmの航行で到着する国として吉備が想定できる。一方、響灘へ出た後、日本海を東方面へ同じ距離を進んだとすれば出雲が候補としてあがってくる。どちらに妥当性があるか。 

 次に2点目であるが、朝鮮半島と北九州、朝鮮半島と山陰地方の交流の状況を先に確認したが、北九州と山陰の間にも同様の交流があったことは自ずとわかる。朝鮮半島、北九州、山陰は同じ文化圏にあったと言っても過言ではない。帯方郡の使者が通るルートとして、あるいは実際に行かなかったとしても本国に報告するルートとしては仲間が暮らす国々がある山陰ルートを報告するのではないだろうか。対馬、一支、末盧、奴、伊都、不弥とここまでがそうであったことを考えると山陰ルートを選択するのが自然である。また、朝鮮半島の人々にとって山陰沿岸は太古より往来した海であり取り扱いを熟知した海であった。一方で、瀬戸内海が内海で波も穏やかで航行し易かったから帯方の使者がこちらを選んだであろう、というのはあまりに固定概念に引きずられていると言える。瀬戸内海は確かに内海であるが実は船の航行にとってかなりの難所である。瀬戸内海の両端と真ん中にある関門海峡、来島海峡、鳴門海峡は日本の三大急潮と呼ばれるくらいに潮の流れが速いところである。そしてこの潮の流れは西から東へ、東から西へ6時間おきに反転する。時代が下って瀬戸内航路が整備される過程においては鞆の浦をはじめとした潮待ち港があちこちに作られたが、弥生時代においてそれはなかった。帯方の使者にとって不慣れで難所の瀬戸内海と自らの庭のように熟知した日本海のどちらを選んで航行したかは自ずと答えが出よう。よって投馬国は出雲にあったと考えたい。出雲については改めて詳しく考えることにして先に進める。



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