8年ぶり?にTDLに出かける。暑い・混んでいる等々思ったとおりで、好意が殺意に変る前になんとかしなくてはと思い、電動ねぶたまつりもそこそこにフィリピーナが嫌うと言われるマウンテン系を制覇することにする。半べそをかきながらくっついてくる彼女が少しかわいくも思えたが(勘違い)駐車場で車をどこにおいたか忘れて、また世を呪う。悪意丸出しのドブ鼠のストラップとバカ丸出しのアヒルのぬいぐるみを買い帰路につく。
国(民族)によって、それぞれをしばるものは違う。アメリカの男はwifeに縛られそれこそ妻帯者でなければ人に支持されず人の上に立つことは難しいらしい。そのためとんでもない苦労を背負い込む。フィリピンでは少し対象が変化し親・兄弟に縛られる。意外と夫は簡単に見捨てられる。男は表向き威張っているが、その実、女中心の社会である事がよくわかる。私たちの社会は?と考えると先達が男社会をうまく作り出した。おそらく1000年以上の時をかけ、戦・侍・等々を利用して本当にうまくやったものだ。それを戦争に負けた時に、どうやらそれを奪われてしまったようだ。多分アメリカでサムライがもてはやされる理由はそこなんだろうなぁ
明日、久しぶりにTDLに出かけるが本当は大嫌いだ。何故なら、あそこはウソの笑顔だらけのウソの世界だからだ。あの笑顔の裏には何か邪悪なものが隠されているような気がしてならない。逆に、だからこそイミテーションの恋愛にはうってつけだろう。来る日も来る日も沢山のウソと思惑を飲み込んで大盛況だ。
元来、私たちは契約と言う概念があまりない。どこの誰かは周知されているし、さまざまの方法で担保が取られている。信用は予め用意されているものが多い。それに島国で逃げる事も出来ない。フィリピンでも本来考え方は同様のはずだ。唯一違うのは担保のとりようがないことと、それが故に信用されないことだ。逆に私たちよりもずっとグローバル化されていると言える点がある。英語を第2共通語として普及させている点と、国内の雇用状態が悪いため単純労働ではあるが海外で労働する人が多いことだ。話は戻るが、私たちはそのグローバル化という言葉に踊らされて何か大切なものをなくしてしまった気がする。
人生とは不思議なものだ。思いもよらないことが当たり前のように起こる。思えば4半世紀も前にも考えられないことが起こっている。始めてあった時に、その後、彼女と暮らすことになるなんて一瞬でも考えたろうか?否だ。そしてそれは彼女にとっても同様のことだったかもしれない。流されたのだろうか、それも運命だと思って抗うこともしなかったのだろうか・・しかし、人生って深いなぁなんて思いながら30年以上も前のこんな曲を思い出す。「・・・一緒に苦しんでも、一緒に死んであげる訳にはいかないから・・それで僕にできることといったら、こうして歌うことがすべて・・あぁ人生はいつだって歌を超えてしまう・・」だからOPMを歌っている訳ではないのだけれど