思うところあって、Facebookのこの記事だけは個人的にたっぷり語りたくて、番外編とさせていただいた。

苫米地某の著書で、苫米地某は名のある方でありこの方に苦言を呈するつもりは毛頭ない。
ただ「親を超える」という考え方そのものを、私は受け容れられない。
何をもって、「親を超える」と言えるのか?
地位や名声か?年収か?
私に言わせれば、どれだけ社会的に立派になったところで自分という存在を世に送り出してくれたのは親のおかげであり、親を超えるなどという言い方そのものがおこがましい。
私が超えたのはわずかの差額の年収と身長ぐらいだが(笑)、親というのは一生超えられない。
私が超えたのはわずかの差額の年収と身長ぐらいだが(笑)、親というのは一生超えられない。
私は京都のうどん屋の息子として生まれた。
元々うどん屋を継ぐ気はなく、私が大学に上がった時点で父は
「大学を出ないと就けない仕事に就け。うどん屋なんて中卒でも出来るから」
と言ってくれた。
そして縁のあった会社に就職し、今日で満32年。明日からは勤続33年めとなる。
しかしそれもこれも、1杯何百円かのうどんや丼を来る日も来る日も作って売り続けてくれた親のおかげで私は食うに困らず、大学も出してもらえたのだ。
本当に「親を超えた」と言えるなら、同じ時代に働いて親より稼いだら超えたと言えるのかもしれないが、そんな事はあり得ない。
仮に今私がうどん屋をやったとして、ネットを駆使しウーバーイーツなどで売上げを伸ばしたところで、黒電話にスーパーカブで雨の日も風の日も配達にいそしんだ父を超えたなどと言えようか。
親を超えた、と思う事自体、親を下に見るという事であり私には受け容れられない。
下の世代に対してもしかり。
私の息子は、私など遥かに超えた。
私は、特別な事をしたわけではない。ただ、子どもらの可能性の芽を摘むような事は一切しなかっただけだ。
我が子に対して「オレを超えろ」と言うのは正しい。
ただ自分を生んでくれた親は、超えてはいけないと思うのである…