ちょっと書いておきたいことのひとつです。
私のネット上の本名である「かみつけ岩坊」には、群馬の地名である「上毛野(上野)」や、「咬みつけ」など、他にもたくさんの意味が込められているのですが、
そのなかのひとつに「神付け」「神憑け」というニュアンスがあります。
いつか自分の身に神様が降りて、とりつく日がくるのではないか、
・・・・いや、もうついてるかもしれない(笑)
そんな願望の意味です。
特別なんの信仰も持っていないのに身勝手なことかもしれませんが、
けっこう真面目にそんな気持ちは持っています。
そのことに関連して、以下のふたつの話が思い出されます。
津軽三味線の高橋竹山の奥さんはイタコだったそうです。
その奥さんのことについて書いたなにかの文のなかで知ったのですが、
イタコが修行をして一人前になるときに「かみつけ」という儀式があるそうです。
詳しい手順は覚えていませんが、先輩たちが取り囲むなか、ミソギをしてから念仏だかを一心に唱え続けて、最後の限界に達したとき、その修行の身に神がのりうつる。
ほとんど失神してしまうそうですが、そこでなんていう名の(あれ?霊、神?)霊だったかと問い詰められ、その時に口にした名前が、そのイタコの生涯の守護霊(神?)のような存在になるというものでした。
向こう側の世界と一体になるなんらかの儀式を経て、自分がはじめてこの世で特別の存在になるというのは、世界中で見られるものです。
こうした儀式は、天皇の場合でも重要な部分をなしています。
折口信夫は、天皇の即位儀礼の最も神秘的な部分にふれた最初のひとらしい。
「すなわち、古代には水の女神の資格で宮廷に入る「水の女」があって、天皇としての資格を完成する神秘なミソギに奉仕し、天皇よのあいだに聖婚が行われたとしたのである。
これが他氏から宮廷に入る「きさき」の聖職で、後に「なかつすめらみこと」や「女帝」の問題、さらには大嘗祭における真床襲衾(まどこおぶすま)の問題へと接続する。」
これは、最近読んで興奮しまくっている本、前田速夫『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』河出書房新社という本に出てきた文です。
(この本のことについては、近いうちに改めて書く場があると思います。)
それぞれ、なるほどと納得させられるのですが、こんなことを考えていると
いつも「上野国・上毛野国・かみつけのくに」という言葉から、
神付け、神憑けまでどうしても連想してしまうのです。
上州、群馬の語源からそんな意味付けはありえないのですが、
勝手に、この地が特別の場所であるかのような手前勝手な理由が頭から離れない。
まあ、極めて大雑把な言葉のイメージとして、
わたしは、「かみつけ岩坊」に含まれるたくさんの意味のひとつとして、愛用させていただいているに過ぎないのですが、なにか同時に言葉に導かれながら考え続けているような気もしています。
私の作っているホームページ「かみつけの国 本のテーマ館」も、
実はそんな背景もあって、「かみつけ」をひらがなにしています。
こんなことを書くと、なにかあやしい事をたくらんでいる人間に見えるかもしれませんが、
そう言われても、それほど違うとも言い切れない。
たかが平民の身ですが。
(大丈夫?ヤバイ!引いちゃったかな?)