前に書いた「教科書デジタル化のゆくえと展望(1~3)」の記事は、おかげさまでコンスタントに検索にかかる記事となっているようです。
他の場所で補足として書いた以下の文も大事な内容と思われるので、あらためてこちらに記しておきます。
デジタル技術が生活にとって不可欠なものになることが避けられないことは認めながらも、根本的にデジタル技術というのは人間の感性にそぐわないものなのではないだろうか、といった疑問は根深くあります。こうしたやりとりをしていると、なぜか私がデジタルを擁護する側にばかりなってしまうのですが、私にも皆さんと同じような「デジタル不審」の気持ちはあります。
そもそも音楽が、アナログレコードからコンパクトディスクに変わったときに、私はCDには絶対に「魂」が入っていないと確信しました。その思いは今でも変わっていないつもりです。
これを実際に論証することはとても難しいのですが、多くの人が直感的にそう感じているのは、たとえ理論的に論証できなくてもあながち間違いでもないのではないかと思っています。ただ、今それを議論してもどうにもならない気がするので、問題の視点を変えて提起してみることにしてみます。
そこでわたしがいつも感じているのは、多くの人がデジタル技術に対する不審観を感じるのは、「お金」のもつ問題とその性質がとても似ているのではないかということです。
デジタル技術というのは、世の中のあらゆる情報を、それが音声であれ、文字情報であれ、画像であれ、動画であれ、すべてを0か1という二進法の記号の量の積み重ねに変換してしまうことです。
元来、文字と音声と画像とは、まったく異質な情報であるにもかかわらず、それを同質なものに置き換えてしまうのです。
頭でわかっても、まったく想像のつかない恐ろしい技術です。
これが「お金」のもつ性格とそっくりなのです。
お金も、農家が育てたお米と猟師が捕ってきた鹿の肉とはまったく違う質のものであるにもかかわらず、それを交換する必要性に迫られたときに、その異質な二つのものを同質の量(=お金)に置き換える役割をはたしてくれます。
「質」や「ものの価値」といったものは、それぞれ固有の性格をもつもので、もともと比較のしようがないのが実態です。これは人間も同じなのですが、唯一無二の固有の価値があるといいながらそれは、外部に比較するものを持たないとそれ自身では自分を表現することができないのです。
この問題に立ち入ると経済学の最もやっかいな問題の説明をすることになるので、ここで詳細の説明は省かせていただきます。
ただ「交換」という社会の必要性からのみ、そもそも比較の出来ない異質なものを、どこかで「等質」なものの「量」に置き換えることが必要なのです。
それが「お金」であり、情報の分野では「デジタル技術」なのです。
そうした意味で「お金」とは、そもそも比較の出来ない異質なものを等質なものに置き換える『人類の発明した偉大なる方便』であると思います。
これと同じ「無理」を技術的になしえた「デジタル技術」というものは、異質なものを同質なものにしている限り、人びとの心のなかには絶対に承服しがたい論理として疑念が残り続けるのは、やはり避けられないことだと考えられます。
いかなる経済的合理性や技術的精度があったとしても、異質なものを同質な量に置き換えてしまう限りにおいて、その根本においては絶対に承服しがたい気持ちが起こるのは当然のことと思います。
この問題の鍵は、人間社会というものが必然的に要求する「交換」という営みと、その地域それぞれや時代ごとの社会の性格がこの内容を決定します。
「お金」が諸悪の根源だと決めつけることよりも、その地域や社会に適した「交換」の在り方を問うことこそが求められているのではないでしょうか。
今、わたしたちは「お金」との関係では、地球レベルのグローバル化のもので、おそらくその有史以来の歴史のなかで行きつくところまで行きついて、ようやくその歴史の折り返し地点に立ったところなのではないかと思われます。
社会の発展とともに進歩してきた異質なものを同質なものに置き換えるという「人類の発明した偉大なる方便」に振り回されることのない正しいつき合い方を、やっと地球レベルで考えられる時代になった気がします。
この「お金」のことと同じプロセスを「社会のデジタル化」という問題は、私たちにものすごいスピードでつきつけているのです。
わたしたちの感覚がついていけないのは当然のことで、それは人間が健康な感性を失っていないことの証明でもあると思います。
しかし、わたしはそれを「お金」は悪い、諸悪の根源だと決めつけてしまうのと同じように敵対視してしまうことも、十分戒めなければならないことと思っています。
忘れてならないのは、日々自分自身がどれだけそれらの「お金」や「デジタル技術」にお世話になっているかということです。
自分がお世話になっていることを棚に上げてして安易にその欠点のみを非難してしまうのは、人間関係でも商売でもよくあることですが、これは重々気をつけなければなりません。
自分自身が嫌ならば、それを使わない権限も持っているにもかかわらず、お世話になりながらそれを非難する、これはいけないと思います。
わたしたちの日常にどっぷり浸み込んでいる「お金」や「デジタル技術」の恩恵にまず感謝して、その正しいあり方を考え続けることがわたしたちに求められているのではないかと思います。
なぜならば、敵対し憎むよりも、先に感謝し続けたほうが、相手のほうがこちらにやってきてくれるからです。
「人類が発明した偉大なる方便」であるお金と、
「デジタル技術」に対するつきあい方は、非人間的に暴走しがちな側面にばかりとらわれてはなりません。
むしろそれは、それ自身の姿を持たないものであるだけにその実態は、
自分たちの人間性の反映した姿であることを自覚して、うまく付き合えるようになりたいものです。
教科書デジタル化のゆくえと展望 その1
教科書デジタル化のゆくえと展望 その2
教科書デジタル化のゆくえと展望 その3
モノの記憶
他の場所で補足として書いた以下の文も大事な内容と思われるので、あらためてこちらに記しておきます。
デジタル技術が生活にとって不可欠なものになることが避けられないことは認めながらも、根本的にデジタル技術というのは人間の感性にそぐわないものなのではないだろうか、といった疑問は根深くあります。こうしたやりとりをしていると、なぜか私がデジタルを擁護する側にばかりなってしまうのですが、私にも皆さんと同じような「デジタル不審」の気持ちはあります。
そもそも音楽が、アナログレコードからコンパクトディスクに変わったときに、私はCDには絶対に「魂」が入っていないと確信しました。その思いは今でも変わっていないつもりです。
これを実際に論証することはとても難しいのですが、多くの人が直感的にそう感じているのは、たとえ理論的に論証できなくてもあながち間違いでもないのではないかと思っています。ただ、今それを議論してもどうにもならない気がするので、問題の視点を変えて提起してみることにしてみます。
そこでわたしがいつも感じているのは、多くの人がデジタル技術に対する不審観を感じるのは、「お金」のもつ問題とその性質がとても似ているのではないかということです。
デジタル技術というのは、世の中のあらゆる情報を、それが音声であれ、文字情報であれ、画像であれ、動画であれ、すべてを0か1という二進法の記号の量の積み重ねに変換してしまうことです。
元来、文字と音声と画像とは、まったく異質な情報であるにもかかわらず、それを同質なものに置き換えてしまうのです。
頭でわかっても、まったく想像のつかない恐ろしい技術です。
これが「お金」のもつ性格とそっくりなのです。
お金も、農家が育てたお米と猟師が捕ってきた鹿の肉とはまったく違う質のものであるにもかかわらず、それを交換する必要性に迫られたときに、その異質な二つのものを同質の量(=お金)に置き換える役割をはたしてくれます。
「質」や「ものの価値」といったものは、それぞれ固有の性格をもつもので、もともと比較のしようがないのが実態です。これは人間も同じなのですが、唯一無二の固有の価値があるといいながらそれは、外部に比較するものを持たないとそれ自身では自分を表現することができないのです。
この問題に立ち入ると経済学の最もやっかいな問題の説明をすることになるので、ここで詳細の説明は省かせていただきます。
ただ「交換」という社会の必要性からのみ、そもそも比較の出来ない異質なものを、どこかで「等質」なものの「量」に置き換えることが必要なのです。
それが「お金」であり、情報の分野では「デジタル技術」なのです。
そうした意味で「お金」とは、そもそも比較の出来ない異質なものを等質なものに置き換える『人類の発明した偉大なる方便』であると思います。
これと同じ「無理」を技術的になしえた「デジタル技術」というものは、異質なものを同質なものにしている限り、人びとの心のなかには絶対に承服しがたい論理として疑念が残り続けるのは、やはり避けられないことだと考えられます。
いかなる経済的合理性や技術的精度があったとしても、異質なものを同質な量に置き換えてしまう限りにおいて、その根本においては絶対に承服しがたい気持ちが起こるのは当然のことと思います。
この問題の鍵は、人間社会というものが必然的に要求する「交換」という営みと、その地域それぞれや時代ごとの社会の性格がこの内容を決定します。
「お金」が諸悪の根源だと決めつけることよりも、その地域や社会に適した「交換」の在り方を問うことこそが求められているのではないでしょうか。
今、わたしたちは「お金」との関係では、地球レベルのグローバル化のもので、おそらくその有史以来の歴史のなかで行きつくところまで行きついて、ようやくその歴史の折り返し地点に立ったところなのではないかと思われます。
社会の発展とともに進歩してきた異質なものを同質なものに置き換えるという「人類の発明した偉大なる方便」に振り回されることのない正しいつき合い方を、やっと地球レベルで考えられる時代になった気がします。
この「お金」のことと同じプロセスを「社会のデジタル化」という問題は、私たちにものすごいスピードでつきつけているのです。
わたしたちの感覚がついていけないのは当然のことで、それは人間が健康な感性を失っていないことの証明でもあると思います。
しかし、わたしはそれを「お金」は悪い、諸悪の根源だと決めつけてしまうのと同じように敵対視してしまうことも、十分戒めなければならないことと思っています。
忘れてならないのは、日々自分自身がどれだけそれらの「お金」や「デジタル技術」にお世話になっているかということです。
自分がお世話になっていることを棚に上げてして安易にその欠点のみを非難してしまうのは、人間関係でも商売でもよくあることですが、これは重々気をつけなければなりません。
自分自身が嫌ならば、それを使わない権限も持っているにもかかわらず、お世話になりながらそれを非難する、これはいけないと思います。
わたしたちの日常にどっぷり浸み込んでいる「お金」や「デジタル技術」の恩恵にまず感謝して、その正しいあり方を考え続けることがわたしたちに求められているのではないかと思います。
なぜならば、敵対し憎むよりも、先に感謝し続けたほうが、相手のほうがこちらにやってきてくれるからです。
「人類が発明した偉大なる方便」であるお金と、
「デジタル技術」に対するつきあい方は、非人間的に暴走しがちな側面にばかりとらわれてはなりません。
むしろそれは、それ自身の姿を持たないものであるだけにその実態は、
自分たちの人間性の反映した姿であることを自覚して、うまく付き合えるようになりたいものです。
教科書デジタル化のゆくえと展望 その1
教科書デジタル化のゆくえと展望 その2
教科書デジタル化のゆくえと展望 その3
モノの記憶