たくさんの深刻な問題、
私にはそんなものはないのですが(笑)、
たいていの人は二つや三つの深刻な問題をかかえながら生きているようです。
なかには、あげ出したらきりがないというほど、たくさんの問題をかかえているという人もいます。
自分ひとりの問題だけではなく、社会全体の問題で自分にかかわることまで考えたら、
今の政治の問題に限らず、確かに深刻な問題はとても10くらいでは収まらないかもしれません。
前回の「多様性」の記事について、ある大事な人と話していたらこのことを書いておかずにはいられなくなりました。
「多様性」をみとめる社会には、選択肢の多さやそれらを実現する個々人の能力の発展がたしかに大事な条件のように思えますが、
大事なポイントは、何々があれば大丈夫、それが実現できると思ってしまうことの危険です。
今の政治が悪いから出来ない。
金(予算)がないから出来ない。
上司(部下)が悪いから出来ない。
体調が悪いから出来ない。
実は、こう思った瞬間にアウト!
何々がないから、何々が悪いからダメ、出来ないという人の多くは、
その問題がたとえ解決しても、またその次に新しい何々がないから、悪いからという問題が出てくるからです。
確かに生涯に二度とないような重要なポイントもありますが、二度とおとずれないような壁であっても、
それをどう受け入れるかが大事なことだと思います。
これに対して「出来る人」は、常に、何々がないから、悪いからこそ
今のその条件のもとで自分がどうするべきかを考え、その場で解決していくものです。
このことは、次に書く予定の『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』のところで別の角度から詳しくふれる予定です。
今回書きたいのは、様々な能力や技術、知識や健康な体は確かに必要なことですが、
多くの人は、自分にはそれが今無いからダメと思いこんでしまうことです。
「よく」生きられる人たちは、そうは考えません。
今、自分は10の深刻な問題をかかえているからダメだと思うその内容のひとつが、
仮に健康上の深刻な問題であった場合、
それがたとえガンであったとしてもです。
そのときの打ちのめされたような衝撃は、他人には押し測れないものがあることと思います。
しかし、奇跡的にガンが治った人たちの特徴をみた医師は、その多くがなぜかあまり悲壮な闘いをせずに
温和な性格のままにすごした人が多いと言います。
そのような状況でも温和、和やかでいられる理由は、もちろん人によってさまざまですが、
周りからみて可哀そうな立場であるにもかかわらず、当人はこれまで暖かい家族に囲まれて生きてこれたことの幸せや、今その瞬間も動かせる部分の身体を使って様々なことが出来ることの喜びなどのほうを感じていられる人たちです。
仮にガンではなく、交通事故などで一生半身不随になってしまったような場合でも、
「よく」生きるひとたちは、自分の足は無くなってしまったかもしれないが、まだ自由に動く手がある
脳の働きはなんの問題もない。
目も見える。耳も聞こえる。声も出せる。自分で食事もできると、
その無くなった足以外に自分に備わっているすばらしいものに次から次へとたくさん気づきます。
仕事上の深刻な問題であった場合、
仮に困った上司(部下)をかかえて、業務がどうしても思うように進まない、
あるいはもっと深刻な経営の危機に直面してしまった場合でもです。
そのひとつの深刻な問題は、今は太刀打ちしがたい問題かもしれませんが、
それまで自分が長年事業を続けてこられた従業員や顧客、取引先の存在を感じた時、
これまでも何度も資金繰りの危機や、重大なミスを乗り越えてこられたことの幸運さ、等など。
そのひとつの深刻な問題以外に、たくさんの感謝される出来事が今もあることを見ています。
なるほど、そういう考え方なのか、
と言われますが、これはものの見方、考え方の問題ではありません。
極めて唯物論的なことなのです。
ひとつふたつの深刻な問題にとらわれてしまうことの方が、はるかに精神論の側の見方です。
ひとはどんなに悪い状況に陥ったとしても、それまでの長い人生を客観的に見れば、
この広い宇宙のなかの奇跡の星、地球に生まれたこと、
豊かな生命あふれる地上のなかのさらに豊かな文明の時代に生まれたこと、などからはじまり、
両親や先祖のそれぞれの偶然の出会いの蓄積の上に今の自分があり、
幼少から体験してきたひとつひとつが、無事に今まで貴重な経験として積み重ねてこれたこと自体が、
「奇跡の幸福」の連続によって成り立っているものです。
この単純に天文学的な確率の積み重ねの上に、今の自分があることに気づいただけで、
今の自分が、目の前のひとつの深刻な問題以上に、圧倒的な量の幸せに囲まれていることに気づくと思います。
ですからこれは決して「精神論」やものの考え方の問題ではなく、
極めて「唯物論」的に、事実として、そうなのです。
人はどこか異常がおきたときにのみ、その部分の存在を意識しますが、
どこにも異常が起きていない日々の「無事」なときは、なにも意識しないものです。
ところが、この日々「無事」であることが、どれだけの豊かさや幸せにささえられていることか、
そうしたことを上野村に住む哲学者、内山節さんは以前から「無事の思想」」として
山村の人たちの暮らしを通じて、「豊かさ」というものの真の姿を私たちに教えてくれました。
これと同じことを小林正観さんも言ってます。
10の深刻な問題は、つらく自分にのしかかってくるかもしれない、
でもそのまわりには、9990くらいの「幸せ」や「豊かさ」が、目立たないところで支えているのだと。
それをひとつひとつあげていけば、きっとそれは9990くらいではおさまらないものが見えてくるはずです。
現実を客観的に見れば見るほど、事実はそうなのです。
そこにこそ、自然な「感謝」の気持がでてくるのだと。
またこのように見ていると、深刻な問題の多くが解決したときを振り返ると、
自分で解決したのではなく、そのほとんどが時間が解決してくれていることにも気づきます。
だから何もしない方がよいということではありません。
目の前の自分の出来ることだけをやっていると、時間が解決してくれるのです。
こんなようなことが
小林正観 『もうひとつの幸せ論』(ダイヤモンド社)には、書いてありました。
私たちは、なんて幸せな時代に生きているのでしょう。
まさに感謝!感謝ですね。
私にはそんなものはないのですが(笑)、
たいていの人は二つや三つの深刻な問題をかかえながら生きているようです。
なかには、あげ出したらきりがないというほど、たくさんの問題をかかえているという人もいます。
自分ひとりの問題だけではなく、社会全体の問題で自分にかかわることまで考えたら、
今の政治の問題に限らず、確かに深刻な問題はとても10くらいでは収まらないかもしれません。
前回の「多様性」の記事について、ある大事な人と話していたらこのことを書いておかずにはいられなくなりました。
「多様性」をみとめる社会には、選択肢の多さやそれらを実現する個々人の能力の発展がたしかに大事な条件のように思えますが、
大事なポイントは、何々があれば大丈夫、それが実現できると思ってしまうことの危険です。
今の政治が悪いから出来ない。
金(予算)がないから出来ない。
上司(部下)が悪いから出来ない。
体調が悪いから出来ない。
実は、こう思った瞬間にアウト!
何々がないから、何々が悪いからダメ、出来ないという人の多くは、
その問題がたとえ解決しても、またその次に新しい何々がないから、悪いからという問題が出てくるからです。
確かに生涯に二度とないような重要なポイントもありますが、二度とおとずれないような壁であっても、
それをどう受け入れるかが大事なことだと思います。
これに対して「出来る人」は、常に、何々がないから、悪いからこそ
今のその条件のもとで自分がどうするべきかを考え、その場で解決していくものです。
このことは、次に書く予定の『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』のところで別の角度から詳しくふれる予定です。
今回書きたいのは、様々な能力や技術、知識や健康な体は確かに必要なことですが、
多くの人は、自分にはそれが今無いからダメと思いこんでしまうことです。
「よく」生きられる人たちは、そうは考えません。
今、自分は10の深刻な問題をかかえているからダメだと思うその内容のひとつが、
仮に健康上の深刻な問題であった場合、
それがたとえガンであったとしてもです。
そのときの打ちのめされたような衝撃は、他人には押し測れないものがあることと思います。
しかし、奇跡的にガンが治った人たちの特徴をみた医師は、その多くがなぜかあまり悲壮な闘いをせずに
温和な性格のままにすごした人が多いと言います。
そのような状況でも温和、和やかでいられる理由は、もちろん人によってさまざまですが、
周りからみて可哀そうな立場であるにもかかわらず、当人はこれまで暖かい家族に囲まれて生きてこれたことの幸せや、今その瞬間も動かせる部分の身体を使って様々なことが出来ることの喜びなどのほうを感じていられる人たちです。
仮にガンではなく、交通事故などで一生半身不随になってしまったような場合でも、
「よく」生きるひとたちは、自分の足は無くなってしまったかもしれないが、まだ自由に動く手がある
脳の働きはなんの問題もない。
目も見える。耳も聞こえる。声も出せる。自分で食事もできると、
その無くなった足以外に自分に備わっているすばらしいものに次から次へとたくさん気づきます。
仕事上の深刻な問題であった場合、
仮に困った上司(部下)をかかえて、業務がどうしても思うように進まない、
あるいはもっと深刻な経営の危機に直面してしまった場合でもです。
そのひとつの深刻な問題は、今は太刀打ちしがたい問題かもしれませんが、
それまで自分が長年事業を続けてこられた従業員や顧客、取引先の存在を感じた時、
これまでも何度も資金繰りの危機や、重大なミスを乗り越えてこられたことの幸運さ、等など。
そのひとつの深刻な問題以外に、たくさんの感謝される出来事が今もあることを見ています。
なるほど、そういう考え方なのか、
と言われますが、これはものの見方、考え方の問題ではありません。
極めて唯物論的なことなのです。
ひとつふたつの深刻な問題にとらわれてしまうことの方が、はるかに精神論の側の見方です。
ひとはどんなに悪い状況に陥ったとしても、それまでの長い人生を客観的に見れば、
この広い宇宙のなかの奇跡の星、地球に生まれたこと、
豊かな生命あふれる地上のなかのさらに豊かな文明の時代に生まれたこと、などからはじまり、
両親や先祖のそれぞれの偶然の出会いの蓄積の上に今の自分があり、
幼少から体験してきたひとつひとつが、無事に今まで貴重な経験として積み重ねてこれたこと自体が、
「奇跡の幸福」の連続によって成り立っているものです。
この単純に天文学的な確率の積み重ねの上に、今の自分があることに気づいただけで、
今の自分が、目の前のひとつの深刻な問題以上に、圧倒的な量の幸せに囲まれていることに気づくと思います。
ですからこれは決して「精神論」やものの考え方の問題ではなく、
極めて「唯物論」的に、事実として、そうなのです。
人はどこか異常がおきたときにのみ、その部分の存在を意識しますが、
どこにも異常が起きていない日々の「無事」なときは、なにも意識しないものです。
ところが、この日々「無事」であることが、どれだけの豊かさや幸せにささえられていることか、
そうしたことを上野村に住む哲学者、内山節さんは以前から「無事の思想」」として
山村の人たちの暮らしを通じて、「豊かさ」というものの真の姿を私たちに教えてくれました。
これと同じことを小林正観さんも言ってます。
10の深刻な問題は、つらく自分にのしかかってくるかもしれない、
でもそのまわりには、9990くらいの「幸せ」や「豊かさ」が、目立たないところで支えているのだと。
それをひとつひとつあげていけば、きっとそれは9990くらいではおさまらないものが見えてくるはずです。
現実を客観的に見れば見るほど、事実はそうなのです。
そこにこそ、自然な「感謝」の気持がでてくるのだと。
またこのように見ていると、深刻な問題の多くが解決したときを振り返ると、
自分で解決したのではなく、そのほとんどが時間が解決してくれていることにも気づきます。
だから何もしない方がよいということではありません。
目の前の自分の出来ることだけをやっていると、時間が解決してくれるのです。
こんなようなことが
小林正観 『もうひとつの幸せ論』(ダイヤモンド社)には、書いてありました。
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私たちは、なんて幸せな時代に生きているのでしょう。
まさに感謝!感謝ですね。