群馬では、比較的よく知られた話で羊太夫といわれる伝承物語りがあります。
そもそも羊太夫って何者か、なんで羊なのか、よくわからないことが多いはなしなのですが、一般にこの伝説は、以下の資料などで知られています。
『多胡砂子』
「土人伝ふ、羊は名馬に乗て奈良の京迄日参しけるが、八束脛と云る従者馬につき供せしを、或時、脛疲れたる隙をうかつにあやしく思い史まま両脇を見れば翼あり、試に抜捨てしより後、名馬につづき行事あたわざる故、朝勤も怠りし節、羊を恨むる者有りて、逆意を企るよし讒奏におよびしにより、都の討手下り、羊討に伏しぬと云う。」
さらに多胡氏を名乗る家では『多胡羊太夫由来記』という由緒書を伝えている。
井上清・長谷川寛見 共著 『多胡の古碑に寄せて』(あさを社)には、戦記物としての形を整えた「羊太夫栄枯記」(茂原家蔵)が最も詳しいとあります。
『上州の史話と伝説』第二巻(上毛新聞社)絶版に詳しく紹介
以下のサイトがとても詳しいので、ご参照ください
多胡碑の「羊」と太夫伝承
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html
多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujimo.html
また地元吉井町を中心に「ひつじ大学」なる活動もありました。
http://hitsuijiuni.blog37.fc2.com/
これらは、もっぱら多胡碑で知られる古代文化の集積地、群馬県南西部を舞台とした物語りであると思っていました。
ところが地元(旧)月夜野町にある八束脛遺跡が、同類の伝説をもつ場所と知り、その相関、類似性がいったいどのような意味をもつのか、とても興味深く思えました。
「八束脛伝説と奥州安達ヶ原」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/90a154de37e25ae599b2f8a9516f9241
地元の八束脛大明神の伝説を記述した文献は、飯塚正人著『異聞刀祢の伝説」(啓文社印刷)のほかにもいくつかあると思われますが、文章は『古馬牧村史』のものが、比較的わかりやすくまとめられていたので、以下に引用させていただきます。
八束脛大明神の由来
後閑の八束脛大明神の由来を聞いてみると、神代か人皇の代かはっきりしないほど昔、羊の太夫という人があって、この方は天下を統べられる王様の血統をひく、尊いご身分であられたが、何かわけがあって都からはなれたこちらの地方へお下りになり、小幡山の旧跡、八束脛の城に、三百余人の強い兵を従えて住まわれた。
その兵の中に、尾瀬八つかという背丈一丈(3m)余り、よく肥って、脛が八つかみあるので、八つかとよばれる人がいた。
羊の太夫殿は、雲羽、羽場という二匹の名馬を置かれた。この馬は一日に千里(4,000㌖)ずつ飛行する。それで羊の太夫殿は、ここから内裏(だいり)「天皇のごてん」へお伺いするのに、日帰りになさった。お供(とも)は尾瀬八つかであった。八つかは徒歩であとをつづいた。
あまり暑いので、羊の太夫は碓氷峠の松の木の下で馬からおりてお休みになったので、八束も休み、眠気がさしてとろとろと眠った。その寝姿を見ると、袖のすきから腋の下に小さい翅(はね)が見えた。羊の太夫は茶目気をおこしてその翅を引き抜いた。とたんに八つかは眼をさます。羊の太夫は馬にのって屋敷へ帰ったが、八つかは見えず、ややしばらくあってやっとたどりついた。
その後は参内にお供することができず「これをおもうと、あの翅のせいであのとおり早くつづいてくることができたのであったか。かあいそうなことをした。」と羊の太夫殿は悔やまれたという。
その後羊の太夫殿は、参内の帰りに、信州の浅間山の麓で多ぜいの賊徒にとりこめられ、是非なく奮戦したが、多勢にはかなわず、ついに討死なさった。ここを雲馬の地という。これは軽井沢と沓掛との間の原である。
やがて羊の太夫の居城へ賊徒が押し寄せ八束は城兵にさしずしをして戦ったが、賊は多く、しかも強かったので、味方は討死、八つか一人、人間わざとも思えぬ奮戦の結果敵を追い払った。が八束はひとりぼっちとなり、何をするでもなく、羽馬という駒に乗って、奥州の方へ落ちのびたが、人目に立つので人里に住むことができず、山にひきこもり、おりおり村へ出て食物を求め、暫くの会津山と上野国の北山に来て、よい住みかはないかとさがしたところ、幸にも、その深さが何十丈(百m以上)とも知れない洞穴があり、藤蔓が穴の中に茂っている。その蔓をたよって穴に入り、「これはこのうえもないよいすみかである。」と、そこに住まわれた。
それから山々を歩き、あらゆる木の実を取って食べたり、貯えたりして、幾年も住んでいて、遠くへ行くときには、羽馬の駒にのった。昔からの山の鬼神(おにがみ)というのは、この八束のようなものを申し伝えたのであろう。
山には雪が積もるので、八束殿も秋の木の実を集めて、貯えておいて、冬ごもりをしていらっしゃったが、何者かが穴口の藤の蔓を切り払ってしまったので、出ることができず、貯えの木の実を食い尽くして、自分の死を観念しつつ餓死なさったという。
それから幾年かたって、沼田一郡が開け、後閑村に祟りが、たびたびあって、甚だ困ったので、陰陽師を頼んで占ってもらったら、この山の洞穴に骨があり、普通の人の骨ではないからこれをとり出して、神に祭れば祟りは消えるであろうとのことなので、村中の者がさがしたところ見つかって、見ると脛の骨の長さが八つかみある。
このおもむきを領主に訴えて宮を立て、この白骨を八束脛大明神と崇め祭った。
以上、『古馬牧村史』より
これがのちに、安倍宗任の残党がここにこもった話など、類似バリエーションが育ち、現代でも、田原芳雄著『尾瀬判官 女菩薩愛し』(文芸社)などの優れた作品のなかでこの舞台が蘇っています。
聞けばたしかに北毛地域に安倍姓は多い。実際に安倍宗任の後裔につながるという家もあるらしい。渡良瀬川流域には、安倍宗任が都へ護送されるときにこの地に根付いた残党がいると伝わる話もあるようです。
前九年の役で討ち取られた安倍貞任他3人の首級も、京都へ送られるときは、この上州を通ったと思われます。
敗れた安倍一族の末裔や臣下は、当然、俘虜の身になったり故郷を追われたりして、各地に散ったことも想像に難くありません。
もちろん、ほんとうのところはわかりませんが、そのような歴史の移り変わりの場面に、人里近くの崖の上に洞窟があり、のちにそこから人骨が発見されたともなれば、今でこそそれは縄文の遺跡などと言えますが、様々な物語りがそこからうまれることは必至でしょう。
史実は史実として大事ですが 、土地の地形や環境から生まれる物語りを通じて、その地域を語れること、またその様々な物語りが語り継がれるということは、とても素敵なことです。
この八束脛遺跡に立ち、眼下に月夜野の田畑や山々のすばらしい景色を見れば、
誰もがいにしえの物語りを想像せずにはいられないものです。
それほど、ここの景色はすばらしいところです。
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