先月、渋川市立図書館主催の「郷土史講座」で大島史郎先生の「渋川の江戸時代における庶民の旅」についての講演を聞いてきました。
その講演のなかで、ふれた話題で格別興味がわいた一言がありました。
それは、修験道の檀家のことを「カスミ」というのだ、ということです。
これまで私は修験道には檀家はいない、
檀家のようなしくみはないものとばかり思っていたのですが、それを根底から覆す言葉でした。
検索してみると、
「霞」とは、修験道の本山派において用いられた地域ごとの支配・管轄のこと
とある。
この表現だと、必ずしも「霞」=檀家、ではない。
支配領域、エリアを表すもので、結果として檀家の意味も含まれるのかもしれないが、同じではなさそうだ。
でも、修験道でその支配・管轄のことを「霞」と呼ぶこと自体、とても言いえて妙な表現であると感じます。
いかにも実態をぼやかしたような、または表向きは隠したような表現です。
私も「霞」になりたい。
かつて修験道の忍びの仕事領域が重なっていたことも、こうした表現から納得がいく。
月夜野の三重院の円信さんに早速聞いてみよう。
その講演のなかで、ふれた話題で格別興味がわいた一言がありました。
それは、修験道の檀家のことを「カスミ」というのだ、ということです。
これまで私は修験道には檀家はいない、
檀家のようなしくみはないものとばかり思っていたのですが、それを根底から覆す言葉でした。
検索してみると、
「霞」とは、修験道の本山派において用いられた地域ごとの支配・管轄のこと
とある。
この表現だと、必ずしも「霞」=檀家、ではない。
支配領域、エリアを表すもので、結果として檀家の意味も含まれるのかもしれないが、同じではなさそうだ。
でも、修験道でその支配・管轄のことを「霞」と呼ぶこと自体、とても言いえて妙な表現であると感じます。
いかにも実態をぼやかしたような、または表向きは隠したような表現です。
私も「霞」になりたい。
かつて修験道の忍びの仕事領域が重なっていたことも、こうした表現から納得がいく。
月夜野の三重院の円信さんに早速聞いてみよう。
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