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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

失われた古典芸能を現代によみがえらせること

2009年07月04日 | 歴史、過去の語り方
 5月の旅で立ち寄った多賀神社で偶然、二人の巫女の舞を見ることができました。

 しきりに扇をまわしながら、何度も前に行ったり後ろに下がったりの繰り返しでしたが、劇場などで再現される舞ではなく、実際の神社の祈りのなかでの舞だったので、わたしはとても新鮮な感動を覚えました。
 それは、同行した連れのこだわっている今様の原型ともいわれるだけに、その動きひとつひとつに対して自然と見る目も集中していました。

 総じて邦楽の世界は、おそらく私に限らず現代人にとっては、退屈極まりないものであると思います。
 ところが、私にとっては七、八年くらい前の体験ですが、あるお能を観に行った際、その小鼓、大鼓の見事な間あい、気(精神)が空間の隅々にまで届くような演奏に、シテの舞い以上に固唾をのんで見入ってしまったことがありました。その時は、同時に演じられた仕舞も見事なもので、まったく予備知識のない私でもその舞の世界に完全にのめり込んでしまいました。

 現代音楽などでは比較的違和感なく体験することですが、その作品の構造やストーリーなどの予備知識がまったくない場合でも、すぐれた演奏に出合うと、無条件に作品の世界に没頭、心酔できるものです。

 こうした名演の力は、しばしば作品の構造をも上回る生命力を与えることがあります。古典の名曲であるからきっとすばらしいものだろう、などと我慢して鑑賞することなく、本来しっかりとした演奏であれば、誰もがうなずき感動する世界があるものだと思います。

 なぜこのようなことに今こだわるかというと、最近ネットで今様を再現した映像を観ることができたのですが、その演奏が、いくら乏しい資料をもとにした古典芸能の再現とはいえ、素人でもちょっと聞くに堪えない歌声だったのです。
 それをじっと我慢しながら、昔の今様とはこんなものだったのだろうかと聞いていたのですが、やはり形式は再現していても、そこに昔の今様の実態はまったく再現されていないといって良いのではないかと思いました。
 わたしでも胃のよじれるような思いで聞いていたのだから、もし後白河院がそれを聞いたら、殴り倒していたかもしれない。

 形式といっても、極めてシンプルなかたちしかない日本の芸能の場合、譜面などに残されたもの以上に、一音一音の発声や、一挙手一動の体の動きのなかに洗練された芸がなければ、作品は決して生きてきません。

 頼朝に囚われたばかりでなく我が子を殺され、夫義経が追われる身である静御前が、その頼朝の前で踊らされた白拍子などは、まさにそのような「気」を秘めた一挙手一動であったからこそ、観る者すべてを圧倒するものがあったのだろうと思います。

 今、白拍子や今様に限らず、文献の上と僅かな楽譜しか手がかりのない古典芸能はたくさんあります。歴史を見ているとなんとかそれを再現したものを見てみたいと思うものですが、いにしえ人の体の動きや発声を再現することは至難の業かもしれません。

 でも、いつか一芸を極めた人が、時代を超えた人間のなせる技の極みとして、わたしたちの前にその姿を再現してくれる日が来るのをを楽しみにしています。



           手作り小冊子「吉野熊野紀行」掲載予定原稿より一部訂正し転載
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