以前、秋田だか山形の方で台風がきても倒れない稲をつくっている
おじいさんを紹介している映像をみたことがあります。
農薬や化学肥料ばかりに頼らず、稲の生態をよく理解しているその農家は、
水田の水を控えめにすることで、稲の根がしっかりとはるようになり、
稲穂が実った季節に台風が来ても稲が倒れなくなるのだという。
毎年、収穫シーズンにやってくる台風ですが、
最近では台風が接近したわけでもなく、ちょっとした強風で
稲が倒れている姿をよく目にします。
過保護で栄養過多な稲が増えることは、栄養が多くなるのではなく、
生命力のない植物が増えているということであり、
そうした食物の「豊かな」栄養って、
いったいなんなのだろうと思います。
福岡正信によってはじめられた「有機農法」とは異なる「自然農法」は、
こうした自然の「生命力」の真の姿を教えてくれます。
最近では、『奇跡のリンゴ』で知られる木村秋則さんなどによっても
広く知れるようになりました。
栄養、肥料を与えないことでこそ生まれ育ってくる自らの生命力。
そこには様々な微生物や菌の働きが欠かせませんが、
自然界の有象無象の生命の働きに生長を委ねるという環境で、
生産をコントロールするということは容易なことではありません。
ここが選択の大きな分かれ目です。
生命とつきあうということは、とてもやっかいなことです。
やっかいであるということこそがまさに「生命力」の証しなのですが。
現代の生産活動は、ほとんどこれを避けることで、
より「効率的」な生産をし、利益をうみだしています。
でも、これこそがもっとも大切な「生命力」から遠ざかる道であり、
より多くの「付加価値」からも遠ざかる道でもあるのです。
これは現代の
「食」の姿、
「教育」の姿、
「企業」の姿、
「経済」の姿、
「文化」の姿、
そのものですね。
自分の内なる力で育ち、強い生命力を備えた作物は「発酵」へと向かう。
生命力の強いものは、「菌」によって分解される過程でも生命力を保ち、
その状態でも生命を育む力を残している。
だから、食べ物として適している。
反対に、外から肥料を与えられて無理やり肥え太らされた生命力の乏しいものは「腐敗」へと向かう。
生命力の弱いものは、「菌」の分解の過程で生命力を失っていく。
だから、食べ物としてはあまり適していない。
(渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』講談社より)
わたしは何度となく
「読書とは、決して知識や教養をためるためだけのものではなく、
読書という営みの本質をみればみるほど、読書とは、
自分自身の直面した問題に立ち向かうエネルギーのあらわれである」
と言ってきました。
より多くの栄養を得ることを目的とした読書、
それは必ずしも間違ったことではありません。
しかし問題は、そのレベルにばかり集中していても
何の疑問も感じなくなってしまっている、ということです。
大事なのはより多くの肥料(知識や教養)を得るよりも、
より深くへ根を延ばそうとすることです。
この流れは、少し前から教育現場に求められていながらなかなか変えられない日本の現実があります。
知識を多く与える教育よりも、子ども自身が興味をもったことを集中して勉強させた方が、
結果的に学力は向上するというフィンランド方式です。
まさにそれこそが、
真実を追究しつづけ、問いかける力であり、
「自分自身が直面した問題に立ち向かうエネルギー」です。
「知識」ではないこのエネルギーこそが、
一番の「発酵」の源であるのだと再認識させられました。
*** 参 照 ***
パン屋タルマーリー
寺田本家
これは行ってこなくちゃいけないね。
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