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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

砂雪隠のある農家

2010年08月04日 | 「近代化」でくくれない人々
もう一カ月あまりも更新せず、ご無沙汰して申しわけありませんでした。
書きたいことは、いっぱい溜まっていたのですが、この暑さのなか
他のことに気をとられることが多く、なかなか書けずにいました。
すみません。

ところで皆さんは「砂雪隠(すなせっちん)」ってご存じでしょうか?

内部には投石をおき、穴に砂を敷き詰め、常に綺麗に掃除されている特殊な便所のことで、
実際にはほとんど使用されることはないものが大半のようです。
茶室などについていることもあるようですが、一部のお寺や城内などで、特別な客に対して、ここまで綺麗に掃除してありますよ、ということを見せるためのものらしいです。

これが、地元渋川のある農家にあったというのです。

この農家は、決して豪農といえるような大きな家ではありません。
見た目は広さも造りも普通の農家とほとんど変わりありません。

ところが、この農家は、なにかがちょっと違うのです。
お店に来られたこの農家のお爺さんが小さいころの話をしてくれました。

学校の宿題で俳句をつくる練習をしていたら、後ろからお婆さんが覗きこむや否や、
おまえはいったい何をしているんだ!
といきなり怒られたそうです。
俳句なんかやるもんじゃないと、
強引に和歌につくり変えさせられたというのです。

このお爺さんの小さい頃のそんな思い出も、それがどういう意味なのかは長い間まったくわからなかったようです。

しかし、大人になって村の外に出て名前を言うと、ときどき相手の態度が急に変わり、
おたくには先祖代々大変お世話になっていると頭を下げられることがあり、
それがどういうことなのかを少しずつ自分でも調べ出すようになりました。

するとこの家には、村史などでは語られてこなかった重要な村の「裏の歴史」が秘められていることが少しずつわかってきたのです。

自分の家の場所が、度々川の氾濫で被害を受ける場所にありながら、なぜ移動しようとしなかったのか。
白井城と社を結ぶ一直線状に自分の家が位置して、なお且つ
その南北の線と子持神社、さらに空恵寺への東西の線が交差する場所にこの家が位置している。

昔、殿様が公用としてではなく、家に遊びに来ていたという言い伝えもあるそうです。

どれも記録が残っていることではなく口伝ばかりなので、議論はなかなか成り立たないのですが、家のつくりや場所、名前のことなど細部をたどればたどるほど、この農家がただの家ではないことが見えてきます。

頼朝の時代、秀吉の時代それぞれに、墓石を削られるなどの被害を受けたなどの言い伝えと
その痕跡。

また、館林藩の重要な印鑑を預かっていたらしいことなど、
次から次と興味深い話は出てくるのです。

このお爺さんも、この事実を村の歴史に正式に書き残すことを目的としているのではなく、表に出ない重要な歴史でも、今に確実に伝わっているものがあるのだということを、これまでそうであったように、これからもずっと家族の間に伝えていきたい、といったような感じでした。

外部の人間としては、もっと聞きたい、いろいろほじくり返して文書記録として残したいという思いでいっぱいですが、このままであることも何かとても素敵なことにも思えます。

かなり細部を隠した表現にしましたが、遠野物語などの遠い世界に行かずとも
身近にこうした隠れた歴史が埋まっていること、
嬉しいですね。
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