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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

記憶イメージの分岐点 (夢の記憶のつづき)

2009年09月16日 | 夢日記 (手は届かないけど観念だって実在なんだから)

「一枚の写真は、100語に勝る。
しかし頭のなかでつくられたひとつのイメージは、100枚の写真に勝る」

伝説のコピーライターといわれた、ロバート・コリエの言葉だそうです。


一見、前回の記事「夢の記憶」で書いた内容と逆のことを指摘しているような言葉ですが、このふたつのことがらを整理して説明することはとても難しい。
以下、思いつくままにつらつらと書いてみます。

この言葉のなかには、客観的映像(そのようなものが存在するのかという問題は別にして)には存在しない意思の力というものが隠されています。

前回書いた「夢の記憶」の話では、潜在意識のあらわれであるかもしれないにしても、
夢で見たものの記憶というのは、それを「伝える」「表現する」努力を伴わないと、
なにもあとに残らないばかりか、自分自身、正確にはなにも理解していなかったことに気づかされることが多い、といったようなことを書きました。

さらに関連して、人に道を聞かれたときに、普段自分がよく理解しているつもりの道でありながら、
相手に説明できるかたちでどれだけ表現できるか、といった現実の問題につなげたわけですが、
このことと対になる問題として、このコリエの言葉はとてもいい内容になっています。

夢や見慣れた景色の記憶と違って、このコリエのことばには
見られる側、作り手と見る側の意思、視点というものがはっきりとはたらいた場合の違いをあらわしています。

たとえ強い意志はなくとも、撮影者の主観で四角い枠のかなに切り取られた空間の映像というのは、
作り手と見る側双方の意思がはたらいて情報を読み取ります。
この写真や映像から情報を読み取るというプロセスが、非映像言語が直接的なのに対して、直感的であるにもかかわらず、言葉の情報の場合は、多くの場合、ひとつひとつの言葉が情報を具体的に規定してしまっている側面が強いといった印象があります。

もちろん、言葉にも受け手の想像力をかきたてるような表現はたくさんあります。
詩や俳句の世界を考えれば、僅かな言葉で広がる映像の世界は、はてしのないような広がりを感じるものです。

やはり直接的か間接的かで説明するには無理がありそうです。
右脳か左脳かといったほうが良いのでしょうか。

頭のなかにつくられたひとつのイメージとは、さらに言葉の概念だけに規定されない映像プラス意志、テーマといったようなものが強くはたらくからだと思います。

同じ映像イメージでも、寝ているときにみた夢の映像と
自分の意志でつくられたイメージの映像ではどう違うのでしょうか。

わたしには、うまく説明できません。

でもひとつ思い出すことがあります。

昔、学生時代、キャンパスの向かい側にある山をいつも、ぼーっと眺めていたのですが、そのとき気づいたことがありました。

ただ漠然とその向かいの山を見ているときは、ただの木に覆われた山としてだけ見えていたのですが、
眼を一点に凝らすと、その焦点のあったところだけ、木々がワーイとばかりに喜んでくれるがごとく、
ゆらゆら風にゆれている姿が見えるのです。
また別の一点に目を凝らすと、またその部分だけが、ワーイと木々が風にゆれる。
そのときは既に前に見ていた場所の木々は見えず、森の全体に埋没してしまっている。

自分が見てあげたところだけが、ワーイと反応してくれる。
そのゆれる木の姿がいかにも自分にだけ応えてくれているようで、面白くてたまらなかった。

はじめの漠然と向かいの山の森をみていたときは、おそらく私の目の記憶は、夢を見た時とあまり変わらない状態にあったのだと思います。

それが、特定の木に意識を向けてズームを繰り返すようになると、物理的なズームレンズの機能だけでなく、
そこにまぎれもない意志をともなって、木をみて森を見るのか、森をみて木をみるのか、テーマがうまれている。

記憶力の長けた人や速読の出来るひとは、ものごとを写真を写すように、言葉による余計な思考を遮断して頭に焼き付けるといいますが、
記憶だけを問題にするような作業であれば、それはすばらしい技術だと思います。

しかしわたしは、そのような能力よりは、効率は悪くても、常にテーマや意志をもってものを見ることのほうが、
面白いし自分の身につくものだといつも思っています。

東大出のエリート官僚が、膨大な資料を簡潔に「客観」的に短時間でまとめあげる能力には驚かされますが、
ご立派と感嘆させられながらも、やっぱりそれはただの資料としか見えず、なんの面白みもない。

というと、資料なんだからそもそもそういうものなんだと言われます。
それに返す言葉はありません。

でも客観的と言われるような年表や数字のデータのなかにも、強い意志と説得力を感じるものと、
いくら精読してもなにも伝わってこないものがあります。

わたしは昔から、主観性を発揮しなければ、客観には到達できないと信じているので、
客観的データや映像、資料などといったものをはじめから信用しません。

客観的といわれるような映像や数字、資料であっても、胸に強く焼き付けられるようなテーマ、意志を感じさせるものこそ
わたしたちのものであると。

その意味で、ロバート・コリエの言う一枚の写真、ひとつのイメージとは、決して「客観的」なものではない。
強烈なベクトル、なんらかの方向への矢印によって貫かれた主観そのものであると思う。

100語に勝る一枚の写真。

100枚の写真に勝るひとつのイメージ。

それは必ず熱い!

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