とても大事なことなので、私のお店のブログ「正林堂店長の雑記帖」に書かせていただいた内容をこちらにも転載させていただきます。
というのも、群馬県立歴史博物館長、黒田日出男さんのことを、ただ話の上手な人気の高い方としてだけではなく、研究者としての厳しい姿勢とその成果の普及、伝達ということ双方のすぐれた能力をあわせもったすばらしい仕事をされている方として、ぜひ多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。
以下は、「正林堂店長の雑記帖」の文そのまま転載したものです。
*************
7月25日(土)に群馬県立歴史博物館の企画、第1回館長講座「埴輪の歴史を読む」に行ってきました。
群馬県立歴史博物館長 黒田日出男さんの講演は、とても評判がよくなかなか予約もとれないことも多いほどであるとお客さんから聞いていたので、今回、参加することができてとても喜んでいました。
よくみれば、整理番号は180番代。
当初、定数は100人と聞いていました。
予定より多く受け入れることになり、そのため会場も歴史博物館内ではなく、近代美術館内の講堂に変更したということらしい。
黒田さんの講演は楽しみにしていたものの、正直言って、今回は埴輪についてということで、黒田館長の専門の絵巻などの歴史絵画関係でもないし、私自身、群馬に暮らしている限りにおいて古墳時代や埴輪については避けて通れないテーマではあるものの、第一の興味領域ではないので、あまり期待せずに行きました。
ところが、黒田館長の話は、評判どおりというか、良い意味で私の予想を見事に裏切ってくれました。
まず第一に関心させられたのは、黒田さんの館長としての仕事ぶりでした。
黒田さんは、こうした博物館、美術館の館長はまさにこうであるべきだとの姿勢を私たちに見せてくれたのです。
この度、歴史博物館で開かれている
開館30周年記念展
「国宝 武人ハニワ、群馬へ帰る!」
という企画が30周年にふさわしいどのような意義のある企画であるかを、しっかりと私たちに解説し、伝えてくれました。
群馬の古墳遺産文化が際立っていることは、比較的知られていますが、ここに東西の埴輪を一堂に集めて、それを比較展示することがいかに意義のあることかをしっかりと教えてくれたのです。
しかも、それだけのことを実現するのにどれだけのお金がかかっているのかを具体的に話してくれました。
なんと指三本立つほどだと。
3本、とは
三百万ではありません。
え?と思いました。
しかもその3分の2ほど輸送費だと言います。
関西から文化財を群馬に運ぶ費用が、それほどかかるということです。
税金をそのようなことに使うことがどうなのか、当然出てくる疑問に黒田さんは館長としてしっかりと答えて説明してくれるのです。
これだけのものを群馬の人が新幹線をつかって関西にまで見にいくとしたら、いったいどれだけの費用かかかるか?
そうした比較ときちんと出した上で来館者数の目標を具体的にかかげて、その意義を館長自ら訴えてくれるのです。
このような説明をすることは館長としてあたりまえのことかもしれませんが、私はこれまで黒田館長ほど、こうした説明をしっかりとしてくれる方を見たことがありません。
この講演の感想は、もっと早く書く予定でしたが、店の棚卸し準備などに追われていてつい遅くなってしまいました。ところが先日、この講演で黒田さんが冒頭で紹介していた岩波書店の広報月刊誌「図書」が店に届いたので、これ以上遅らせるわけにはいかないと思い、未整理な記憶のままですが、今、一気に書き上げようと思った次第です。
この「図書」のなかで黒田館長が紹介しているひとつの騎馬像の埴輪の発見は、埴輪研究の歴史とってというだけでなく、群馬の歴史を知る上で、また日本の古代の文化の分布を知る上で、いかに画期的な発見の意義を持っているかということについて、見事に余すことなく伝えてくれているのです。
そもそも、群馬県というと誰もが自然に「馬」を連想しますが、ものの本を頼ると「群馬」の「馬」という表現は、馬から来ているのではなくて古代の一豪族「車持氏」の「クリマ」からきているのだと教えられます。
でも多くの人は、そんなことおかまいなしに群馬といえば、きっと昔、馬がたくさんいたか、飼育されていたのだろうと思っています。また実際にそのような地名も多い。
そんな環境にある群馬で、全国でも他に例のない盛装した男子が騎乗した埴輪像が、あるひとりの研究者の長年の努力によって姿を現すことになったのです。
馬の埴輪自体は珍しいものではないようですが、その上に人が乗ったものというのは意外にないそうです。
しかも、なおかつその上に盛装した男子が騎乗したものとなるとひと際、例が無いらしいのです。
この騎馬像の埴輪を発見した研究者とは、現在は伊勢崎市にある大林寺の住職、松村一昭氏のことです。
この埴輪の発掘採土は1953年のことだそうです。
そこで発見された欠片を。パズルのようにひとつひとつ組み立て、半世紀もかけてようやくその姿を完成させたのです。
考古学などの研究のひとつの発見というものが、このような努力の上になりたっていること、あらためて思い知らされました。
しかも、ひとつの埴輪の発見が、その時代考証全体に与える影響がいかに大きいか。
黒田館長が、ここでこうした説明をしてくれなかったら、この大発見も見過ごされたままになっていたかもしれない。
もちろん、このひとつの発見だけで何かを結論づけられるようなものではありません。
私などは、すぐに「ここに根拠がある」とばかりに理由づけしてしまうのですが。
でも、実に多くのことがらにかかわる大事な発見であることに間違いはありません。
そのあたりの表現も、黒田さんは古墳や埴輪研究の歴史概括を説明しながら、学問研究の在り方について穏やかな表情ながらも研究者としては時に血の流れることもある覚悟を要するのだと話してくれました。
このようなことが、今回の講演で話され、今回の岩波書店の「図書」8月号に掲載されているのですが、
この意味をもっとたくさんの方に知ってもらわなければならないと参加者の一人として強く感じたので、ここに拙い文章ですが、あらましを書かせていただきました。
私も避けては通れないと思ってはいた群馬の古墳時代について、こうした黒田館長の活動が大きな刺激になってくれました。
ほんとうに感謝しています。
館長が先頭にたってこのような明確なメッセージを発している姿を見ると、おそらく、群馬県立歴史博物館の学芸員をはじめとするスタッフの皆さんも、その使命に誇りを持って団結したすばらしい仕事ができているのではないかと感じました。
今度、お会いしたときには、群馬にかかわる『神道集』のことや、私たちが勝手に騒いでいる「子持ちの眠り姫」について、是非黒田さんを引きとめてお話しさせていただこう。
というのも、群馬県立歴史博物館長、黒田日出男さんのことを、ただ話の上手な人気の高い方としてだけではなく、研究者としての厳しい姿勢とその成果の普及、伝達ということ双方のすぐれた能力をあわせもったすばらしい仕事をされている方として、ぜひ多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。
以下は、「正林堂店長の雑記帖」の文そのまま転載したものです。
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7月25日(土)に群馬県立歴史博物館の企画、第1回館長講座「埴輪の歴史を読む」に行ってきました。
群馬県立歴史博物館長 黒田日出男さんの講演は、とても評判がよくなかなか予約もとれないことも多いほどであるとお客さんから聞いていたので、今回、参加することができてとても喜んでいました。
よくみれば、整理番号は180番代。
当初、定数は100人と聞いていました。
予定より多く受け入れることになり、そのため会場も歴史博物館内ではなく、近代美術館内の講堂に変更したということらしい。
黒田さんの講演は楽しみにしていたものの、正直言って、今回は埴輪についてということで、黒田館長の専門の絵巻などの歴史絵画関係でもないし、私自身、群馬に暮らしている限りにおいて古墳時代や埴輪については避けて通れないテーマではあるものの、第一の興味領域ではないので、あまり期待せずに行きました。
ところが、黒田館長の話は、評判どおりというか、良い意味で私の予想を見事に裏切ってくれました。
まず第一に関心させられたのは、黒田さんの館長としての仕事ぶりでした。
黒田さんは、こうした博物館、美術館の館長はまさにこうであるべきだとの姿勢を私たちに見せてくれたのです。
この度、歴史博物館で開かれている
開館30周年記念展
「国宝 武人ハニワ、群馬へ帰る!」
という企画が30周年にふさわしいどのような意義のある企画であるかを、しっかりと私たちに解説し、伝えてくれました。
群馬の古墳遺産文化が際立っていることは、比較的知られていますが、ここに東西の埴輪を一堂に集めて、それを比較展示することがいかに意義のあることかをしっかりと教えてくれたのです。
しかも、それだけのことを実現するのにどれだけのお金がかかっているのかを具体的に話してくれました。
なんと指三本立つほどだと。
3本、とは
三百万ではありません。
え?と思いました。
しかもその3分の2ほど輸送費だと言います。
関西から文化財を群馬に運ぶ費用が、それほどかかるということです。
税金をそのようなことに使うことがどうなのか、当然出てくる疑問に黒田さんは館長としてしっかりと答えて説明してくれるのです。
これだけのものを群馬の人が新幹線をつかって関西にまで見にいくとしたら、いったいどれだけの費用かかかるか?
そうした比較ときちんと出した上で来館者数の目標を具体的にかかげて、その意義を館長自ら訴えてくれるのです。
このような説明をすることは館長としてあたりまえのことかもしれませんが、私はこれまで黒田館長ほど、こうした説明をしっかりとしてくれる方を見たことがありません。
この講演の感想は、もっと早く書く予定でしたが、店の棚卸し準備などに追われていてつい遅くなってしまいました。ところが先日、この講演で黒田さんが冒頭で紹介していた岩波書店の広報月刊誌「図書」が店に届いたので、これ以上遅らせるわけにはいかないと思い、未整理な記憶のままですが、今、一気に書き上げようと思った次第です。
この「図書」のなかで黒田館長が紹介しているひとつの騎馬像の埴輪の発見は、埴輪研究の歴史とってというだけでなく、群馬の歴史を知る上で、また日本の古代の文化の分布を知る上で、いかに画期的な発見の意義を持っているかということについて、見事に余すことなく伝えてくれているのです。
そもそも、群馬県というと誰もが自然に「馬」を連想しますが、ものの本を頼ると「群馬」の「馬」という表現は、馬から来ているのではなくて古代の一豪族「車持氏」の「クリマ」からきているのだと教えられます。
でも多くの人は、そんなことおかまいなしに群馬といえば、きっと昔、馬がたくさんいたか、飼育されていたのだろうと思っています。また実際にそのような地名も多い。
そんな環境にある群馬で、全国でも他に例のない盛装した男子が騎乗した埴輪像が、あるひとりの研究者の長年の努力によって姿を現すことになったのです。
馬の埴輪自体は珍しいものではないようですが、その上に人が乗ったものというのは意外にないそうです。
しかも、なおかつその上に盛装した男子が騎乗したものとなるとひと際、例が無いらしいのです。
この騎馬像の埴輪を発見した研究者とは、現在は伊勢崎市にある大林寺の住職、松村一昭氏のことです。
この埴輪の発掘採土は1953年のことだそうです。
そこで発見された欠片を。パズルのようにひとつひとつ組み立て、半世紀もかけてようやくその姿を完成させたのです。
考古学などの研究のひとつの発見というものが、このような努力の上になりたっていること、あらためて思い知らされました。
しかも、ひとつの埴輪の発見が、その時代考証全体に与える影響がいかに大きいか。
黒田館長が、ここでこうした説明をしてくれなかったら、この大発見も見過ごされたままになっていたかもしれない。
もちろん、このひとつの発見だけで何かを結論づけられるようなものではありません。
私などは、すぐに「ここに根拠がある」とばかりに理由づけしてしまうのですが。
でも、実に多くのことがらにかかわる大事な発見であることに間違いはありません。
そのあたりの表現も、黒田さんは古墳や埴輪研究の歴史概括を説明しながら、学問研究の在り方について穏やかな表情ながらも研究者としては時に血の流れることもある覚悟を要するのだと話してくれました。
このようなことが、今回の講演で話され、今回の岩波書店の「図書」8月号に掲載されているのですが、
この意味をもっとたくさんの方に知ってもらわなければならないと参加者の一人として強く感じたので、ここに拙い文章ですが、あらましを書かせていただきました。
私も避けては通れないと思ってはいた群馬の古墳時代について、こうした黒田館長の活動が大きな刺激になってくれました。
ほんとうに感謝しています。
館長が先頭にたってこのような明確なメッセージを発している姿を見ると、おそらく、群馬県立歴史博物館の学芸員をはじめとするスタッフの皆さんも、その使命に誇りを持って団結したすばらしい仕事ができているのではないかと感じました。
今度、お会いしたときには、群馬にかかわる『神道集』のことや、私たちが勝手に騒いでいる「子持ちの眠り姫」について、是非黒田さんを引きとめてお話しさせていただこう。
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