わたしたちが日常している会話の大半は、そのまま活字にしたら
ほとんど意味が通じない断片な言葉だけでやりとりしていることが多い。
ホームページの表現に比べるとこのmixiやブログは、
なんとなくそんな会話表現と文章の中間に位置するような気がします。
といってそれは、私がただ、まとまりのない文章しか書けないことのいいわけにしかすぎないかもしれないけど・・・[m:60]
というのも、昨日、家紋の本を買いにきた店のお客さんと、意匠デザインの魅力を話しているうちに、前から気になっていながら文章としてはまとめることのできない漠然と思っていることを、随分系統的に話す機会を得ることができたからです。
話の中身がもったいないので、ここに、その会話の内容をまとまりのないままですが、
整理して記録しておきたいと思います。
家紋の図柄の○や◇の見事なデザインを見るにつけて、
私たちは古代から人間の意識のなかにある単純な図形や数、形態の意味を連想せずにはいられません。
だいぶ前にも書いたことがありますが、中国の古い時代からの思想で儒教に由来するものは偶数をよく使い、
道教に由来するものは奇数をよく使うという話をラジオで聞いたことがあります。
里見八犬伝などの仁義礼智・・・の「八」にみられるように
人の心の持ち方に関することがらには偶数が多い。
といっても、儒教の歴史の積み重ねは大きく、原則以外の事例は多い。
それに対して道教は、
北斗七星などの「七」などに代表される、
五斗米道や三綱五常など
自然界や民間習俗信仰にかかわるもので
奇数の原則が残っている傾向が強い。
こうしたことから、儒教と道教の対比を別の側面からは、
自然界を中心に考える奇数思想としての道教、
人間界を中心に考える偶数思想としての儒教と言い換えることもできる。
このイメージは、さらに
自然界:奇数 → △
人間界:偶数 → ○(なぜか■ではありません)
と置き換えることもできる。
この関係を、かつて私の参加しているNPOの会合の場で
組織論、人間社会論の説明で使ったことがあります。
物質文明中心のこれまでの時代は
この△の内側に○が内包されていた時代。
この時代はそのかたちのとおり、世の中になにかと角がたつ。
それに対して、これから私たちが目指す社会というのは、
○の内側に△が内包される時代。
人間の心が自然界を包み込む時代。
(これはmiraijinさんに教わったアワとサヌキにも符号している)
といったイメージなのですが、
この○と△の関係もこのどちらが内包されるかということだけではなく、
それぞれに運動(エネルギー)が加わった場合には、
また別の関係が発生する。
物質界は分子構造などを見た場合でも三角形の結合を
一番安定した基本構造とみることができますが、
その三角形も、運動エネルギーを加えて回転させると○(円)になる。
いびつな物質の形態にエネルギーを加えると丸くなる。
三角形それ自身が回転して円になる場合や、
原子の周りを回る電子の活動のように。
この話がまた数字や悟性論理を軸とした物質界の話と
割り切れないことを常とする円、○の世界の対比として見えてくる。
私たちの日常生活は、たいていのことは数字で割り切れるかのように思えるのですが、
時として割り切れない現実にぶつかることがあります。
数学的な円周率のことを一般の人が知るのは近代以降のことかもしれませんが、
円という世界に最初に直面したのは、おそらく
太陽や月のかたちとその周期、軌道であったのではないでしょうか?
1年を12ヶ月で割る
1ヶ月を30日で割る
1日を24時間で割る
どれをとってみても数学的には簡単に割り切れるはずなのですが、
現実には暦の苦労をみてもわかるように
どう処理しても割り切ることが出来ない世界です。
どれも太陽の運行と月の運行の辻褄併せの難題だけでなく
それぞれの一回転周期を数字で表現することの困難さに
ずっと人類は人種や文明、時代にかかわりなく挑み続けてきたともいえます。
大雑把に、運動している物体は、不安定を必然とするがゆえに
安定した状態を求めて運動を続け、
運動を維持した安定状態として円○になるが、
それは、どうしても数学的には割り切れないままである。
この個々の物体は一定の法則を持っているにもかかわらず、
それが割り切れないものでなりたっているからこそ、
エネルギーを発生しているのかもしれない。
ここに占星術が成り立つ根拠があるのかもしれないが、
人間のエネルギーの源も、ここに見ることができるような気がする。
「人に熱あれ」
そう考えると
有名なこの言葉の意味は深いですね。
こうした文章にすると、論理の飛躍甚だしい表現ですが、
これが会話だと、なぜかお互いすごく納得してしまうのです。
ま、ただのメモ程度のことですが、
こんな話の流れで次回は
暦、旧暦と太陽太陰暦のことについて書いてみようかと思います。
ほとんど意味が通じない断片な言葉だけでやりとりしていることが多い。
ホームページの表現に比べるとこのmixiやブログは、
なんとなくそんな会話表現と文章の中間に位置するような気がします。
といってそれは、私がただ、まとまりのない文章しか書けないことのいいわけにしかすぎないかもしれないけど・・・[m:60]
というのも、昨日、家紋の本を買いにきた店のお客さんと、意匠デザインの魅力を話しているうちに、前から気になっていながら文章としてはまとめることのできない漠然と思っていることを、随分系統的に話す機会を得ることができたからです。
話の中身がもったいないので、ここに、その会話の内容をまとまりのないままですが、
整理して記録しておきたいと思います。
家紋の図柄の○や◇の見事なデザインを見るにつけて、
私たちは古代から人間の意識のなかにある単純な図形や数、形態の意味を連想せずにはいられません。
だいぶ前にも書いたことがありますが、中国の古い時代からの思想で儒教に由来するものは偶数をよく使い、
道教に由来するものは奇数をよく使うという話をラジオで聞いたことがあります。
里見八犬伝などの仁義礼智・・・の「八」にみられるように
人の心の持ち方に関することがらには偶数が多い。
といっても、儒教の歴史の積み重ねは大きく、原則以外の事例は多い。
それに対して道教は、
北斗七星などの「七」などに代表される、
五斗米道や三綱五常など
自然界や民間習俗信仰にかかわるもので
奇数の原則が残っている傾向が強い。
こうしたことから、儒教と道教の対比を別の側面からは、
自然界を中心に考える奇数思想としての道教、
人間界を中心に考える偶数思想としての儒教と言い換えることもできる。
このイメージは、さらに
自然界:奇数 → △
人間界:偶数 → ○(なぜか■ではありません)
と置き換えることもできる。
この関係を、かつて私の参加しているNPOの会合の場で
組織論、人間社会論の説明で使ったことがあります。
物質文明中心のこれまでの時代は
この△の内側に○が内包されていた時代。
この時代はそのかたちのとおり、世の中になにかと角がたつ。
それに対して、これから私たちが目指す社会というのは、
○の内側に△が内包される時代。
人間の心が自然界を包み込む時代。
(これはmiraijinさんに教わったアワとサヌキにも符号している)
といったイメージなのですが、
この○と△の関係もこのどちらが内包されるかということだけではなく、
それぞれに運動(エネルギー)が加わった場合には、
また別の関係が発生する。
物質界は分子構造などを見た場合でも三角形の結合を
一番安定した基本構造とみることができますが、
その三角形も、運動エネルギーを加えて回転させると○(円)になる。
いびつな物質の形態にエネルギーを加えると丸くなる。
三角形それ自身が回転して円になる場合や、
原子の周りを回る電子の活動のように。
この話がまた数字や悟性論理を軸とした物質界の話と
割り切れないことを常とする円、○の世界の対比として見えてくる。
私たちの日常生活は、たいていのことは数字で割り切れるかのように思えるのですが、
時として割り切れない現実にぶつかることがあります。
数学的な円周率のことを一般の人が知るのは近代以降のことかもしれませんが、
円という世界に最初に直面したのは、おそらく
太陽や月のかたちとその周期、軌道であったのではないでしょうか?
1年を12ヶ月で割る
1ヶ月を30日で割る
1日を24時間で割る
どれをとってみても数学的には簡単に割り切れるはずなのですが、
現実には暦の苦労をみてもわかるように
どう処理しても割り切ることが出来ない世界です。
どれも太陽の運行と月の運行の辻褄併せの難題だけでなく
それぞれの一回転周期を数字で表現することの困難さに
ずっと人類は人種や文明、時代にかかわりなく挑み続けてきたともいえます。
大雑把に、運動している物体は、不安定を必然とするがゆえに
安定した状態を求めて運動を続け、
運動を維持した安定状態として円○になるが、
それは、どうしても数学的には割り切れないままである。
この個々の物体は一定の法則を持っているにもかかわらず、
それが割り切れないものでなりたっているからこそ、
エネルギーを発生しているのかもしれない。
ここに占星術が成り立つ根拠があるのかもしれないが、
人間のエネルギーの源も、ここに見ることができるような気がする。
「人に熱あれ」
そう考えると
有名なこの言葉の意味は深いですね。
こうした文章にすると、論理の飛躍甚だしい表現ですが、
これが会話だと、なぜかお互いすごく納得してしまうのです。
ま、ただのメモ程度のことですが、
こんな話の流れで次回は
暦、旧暦と太陽太陰暦のことについて書いてみようかと思います。
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