以前、奈良へ行ったときに感じた、白を基調とした生命力中心の信仰である神道、黒を基調とした人間の心と社会メンテナンスを中心とした信仰である仏教のことを書きました。http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/ecec0200b5904f93c63e75178042a321
白は光。
光の三原色を混ぜると白になる。
影というものではなく黒にいたる色彩は、純粋自然界ではなく、心や雑念の加わった人間界や人工物の領域でおきる。
絵の具の色をどんどん混ぜると黒くなる。
でも、人間のつくった化学染料の場合はまた別。
色と色を混ぜ合わせることによって新しい自分の色をつくる。
志村ふくみの草木染めの話で、この延長の興味深い話があります。
(草木染めの場合)私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。
その色と他の色を交ぜることはできない、梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。
それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。
なるほど、
色彩を無理に交ぜるから黒に近くなっていってしまうのか。
色彩は、本来、その色固有の存在。
その固有性がもつ色とは、見かけの色ではない。
草木染めで桜の色を出すには、桜色をした桜の花びらからではなく、桜の木の幹からその色がでる。
しかもそれは、桜の花が開花する前の時期の幹からでなければならない。
9月の台風の季節の桜の木から、美しい桜色を引き出すことはできない。
また、興味深いのは、
草木の世界で最も一般的であるはずの緑の色は、草木染めで直接出すことは出来ない。
「たとえ植物から葉っぱを絞って緑の液が出ても、それは刻々色を失って、灰色がのこるばかりである」
なにか、土にかえることを宿命とした葉っぱを象徴するかのようだ。
人間のもつ色彩をどうみるか。
とても考えさせられます。
熟練した技術をもって自然と深く関わる人の言葉は、みな素晴らしいことが多いものですが、
そうした人々のなかでも志村ふくみの言葉がなによりも深く心に響いてくるものがあります。
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