戦国時代を語るとき、私たちはどうしても信長、秀吉、家康、信玄、謙信などの力関係を軸に語りがちです。
しかし、戦国時代を切り開いて天下統一へ導いた信長の生涯をよくみると、
最も多く闘い、破れ、長期にわたって信長が争い続けた相手は
決して武田信玄でも、徳川家康でも、ましてや浅井、朝倉でもない。
信長が生涯を通じて闘い続けた相手は、
一向一揆に代表される浄土真宗であったといえるのではないでしょうか。
しかもその対峙する性格は、
武田信玄や上杉謙信、徳川家康などは、
どちらかというと領土拡張と天下取りのライバルであって
目指す方向では競いあってこといたものの必ずしも真っ向から対立していたわけではない。
考え方の面からも根本的に相反する相手とは、一向宗たちであったと思う。
堕落しきった坊主どもの総本山としての比叡山を焼き討ちしたこととは異なり、
一向一揆に対する闘いは、単なる仏教に対する弾圧目的だけではなく、
現実的な武装勢力としての脅威や、
天下統一の経済支配を確立する大きな障害として、
一大名の存在以上に、信長にとっては憎く邪魔でならない存在であったのではないかと感じられる。
現実に長島一向一揆には三度も負け戦を強いられたばかりでなく、その内容も
弟の信興を自刃に追いやられるばかりか、二度目の闘いでは信長自身が命からがら岐阜の地へかえれたありさまだった。
また石山本願寺との闘いは10年にもおよび、他の一揆のように根切りにすることもできず、かろうじて勝てたものの和睦のかたちをとらざるをえなかった。
また一向一揆以外の、武田や浅井・朝倉を相手にした戦いをするたびに、背後で絶えず信長の足元を脅かし続ける存在でもあった。
では、なぜ一向一揆は大名の武装兵力などのような組織化された集団とはいえない農兵の集まりであったにもかかわらず、それほどの強さを誇れたのだろうか。
もちろん、その一向一揆の存在は、反信長連合たる武田信玄を中心とした将軍足利義昭、三好・松永・浅井・朝倉などを一環のなかで補強・支援されあう関係にあったのであるけども。
それは信長個人の性格の問題だけではなく
戦国時代に天下統一を成し遂げようと考えた場合、
明治維新や敗戦後のアメリカの占領政策などとも共通した
「近代」化政策にともなう国家の一元管理システムづくりが根底に必然であったからだと思うのです。
時代を超えて、国づくりを推し進めようと考えたとき、必ず「近代化」の名のもとに、
合理的一元管理の社会システムの構築が求められますが、
一向一揆の場合は、単にそれらの改革に対する「保守」勢力としての立場での反乱ではなく、上からの統制管理に対する民衆の「多様な」反抗の現われとして、時代を超えた象徴的存在であったと感じるのです。
今までの親鸞の思想を軸にした話とはまたガラリと内容が変わりますが、
そのような一向一揆とはどのようなものであったのか、
その強さの秘密はなんであったのかを次回に書けるかどうかわからないけど書きます。
正林堂店長の雑記帖 2008/2/28(木) より転載
しかし、戦国時代を切り開いて天下統一へ導いた信長の生涯をよくみると、
最も多く闘い、破れ、長期にわたって信長が争い続けた相手は
決して武田信玄でも、徳川家康でも、ましてや浅井、朝倉でもない。
信長が生涯を通じて闘い続けた相手は、
一向一揆に代表される浄土真宗であったといえるのではないでしょうか。
しかもその対峙する性格は、
武田信玄や上杉謙信、徳川家康などは、
どちらかというと領土拡張と天下取りのライバルであって
目指す方向では競いあってこといたものの必ずしも真っ向から対立していたわけではない。
考え方の面からも根本的に相反する相手とは、一向宗たちであったと思う。
堕落しきった坊主どもの総本山としての比叡山を焼き討ちしたこととは異なり、
一向一揆に対する闘いは、単なる仏教に対する弾圧目的だけではなく、
現実的な武装勢力としての脅威や、
天下統一の経済支配を確立する大きな障害として、
一大名の存在以上に、信長にとっては憎く邪魔でならない存在であったのではないかと感じられる。
現実に長島一向一揆には三度も負け戦を強いられたばかりでなく、その内容も
弟の信興を自刃に追いやられるばかりか、二度目の闘いでは信長自身が命からがら岐阜の地へかえれたありさまだった。
また石山本願寺との闘いは10年にもおよび、他の一揆のように根切りにすることもできず、かろうじて勝てたものの和睦のかたちをとらざるをえなかった。
また一向一揆以外の、武田や浅井・朝倉を相手にした戦いをするたびに、背後で絶えず信長の足元を脅かし続ける存在でもあった。
では、なぜ一向一揆は大名の武装兵力などのような組織化された集団とはいえない農兵の集まりであったにもかかわらず、それほどの強さを誇れたのだろうか。
もちろん、その一向一揆の存在は、反信長連合たる武田信玄を中心とした将軍足利義昭、三好・松永・浅井・朝倉などを一環のなかで補強・支援されあう関係にあったのであるけども。
それは信長個人の性格の問題だけではなく
戦国時代に天下統一を成し遂げようと考えた場合、
明治維新や敗戦後のアメリカの占領政策などとも共通した
「近代」化政策にともなう国家の一元管理システムづくりが根底に必然であったからだと思うのです。
時代を超えて、国づくりを推し進めようと考えたとき、必ず「近代化」の名のもとに、
合理的一元管理の社会システムの構築が求められますが、
一向一揆の場合は、単にそれらの改革に対する「保守」勢力としての立場での反乱ではなく、上からの統制管理に対する民衆の「多様な」反抗の現われとして、時代を超えた象徴的存在であったと感じるのです。
今までの親鸞の思想を軸にした話とはまたガラリと内容が変わりますが、
そのような一向一揆とはどのようなものであったのか、
その強さの秘密はなんであったのかを次回に書けるかどうかわからないけど書きます。
正林堂店長の雑記帖 2008/2/28(木) より転載
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