花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

もう一人の力道山 完結編

2006年03月26日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昭和38年だから、オイラが中学生の頃になる。力道山が暴力団員に刺された記事を新聞で見た記憶がある。確か現場写真が載っていた。記憶はあいまいだが、ドアの前で現場検証をしているところだった。不死身の力道山は、それから一週間後に最後を迎えることになる。
和38年12月8日。力道山はその日の朝、赤坂のリキ・アパートで相撲協会の高砂親方と会っている。相撲のアメリカ巡業に力を貸してほしいという頼みだった。その日、彼はすこぶる機嫌がよく、高砂親方を送り出したあと、デストロイヤーとアントニオ猪木を自室に迎えて酒を飲んでいる。
の後、デストロイヤーと赤坂の料亭に出かけ、午後はゲストとしてラジオの録画を受けた。ところが酩酊はなはだしく大声で歌を歌う有様で、結局放送は取りやめとなった。その夜、力道山一行は事件の起こるニュー・ラテン・クォーターへと向かった。
10時頃、トイレの入り口でいざこざが起きた。大日本興行の組員、村田勝志と力道山は体がぶつかったといった些細なことから喧嘩となり、押さえつけられた村田は危険を感じて隠し持っていた刃物で力道山の腹を刺した。
のときの怪我はたいしたことはないようにみえた。力道山は彼の贔屓筋だった山王病院へ入院したが、執刀医が居なかったため他の病院から外科医を呼び寄せた。術後の経過は良かったように見受けられ、全治二週間と発表された。誰もが元気な力道山に戻り、再びリングでの勇姿が見られるものと思っていた。
ころがその一週間後、腸閉塞を起こしているということで再手術を受けることになる。直後に容態は急激に悪化して、力道山は帰らぬ人となった。あまりにもあっけない死だった。
因は何だったのか。事件から30年後、岐阜大学医学部教授の土肥修司氏は、麻酔薬の誤使用によるものではないかと語った。麻酔薬の使用は歴史も浅く、当時としてはまだまだ未熟だったのではなかったのかと。
道山の死に関して、誰かに殺されたのではないかという説もあった。江戸の昔から地方興行はその土地の親分が取り仕切っていて、プロレス業界にとって、地方の興行師との関係はなくてはならないものだった。彼を取り巻く世界は必然的に右寄りの人間が多くなる。
方、彼の出身地である北朝鮮には、実の娘を含む家族が生活していて、密かに英雄である力道山への接触が続けられていた。彼は東京オリンピックを契機にふるさとへ帰り、南北統一に献身するつもりだったといわれていた。そこには、北と南の狭間で苦悩する力道山の姿があった。
の本の著者、リ・スンイル氏は、朝鮮籍を持つ在日コリアンの3世だ。彼は自分の足で多くの関係者を探し尋ねて話を聞いている。力作だ。
イラも力作でした。お付き合いいただきありがとうございました。