花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

荒木又右衛門

2006年03月15日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
永5年秋 荒木又右衛門はみねと結婚する。久しぶりに池波正太郎の本を読む。みねとの結婚がないと、上野城下、鍵屋の辻での惨劇は起こることはなかった。
永7年7月事件勃発。岡山池田家の家臣 渡部源太夫が河合又五郎に切り殺される。この源太夫が、みねの弟にあたるのだ。原因は当主の寵愛を受けるようになった源太夫を又五郎がねたんだ為だ。幼い頃から仲が良かったのに、出世したため馬鹿にしだしたからだろう。
五郎のかっとなる性格は遺伝で、父親の河合半左衛門も刃傷沙汰を起こしている。上州 安藤家に仕える半左衛門は、江戸で伊藤某を切り殺し、たまたま前を通りかかった池田家の行列に助けを求める。渡せと迫る安藤家対、意地でも渡さぬ池田家のにらみ合い。徳川に世になって20年ほどしか経たない当時、血の気も多かったのだろう。結局、半左衛門は池田家にかくまわれた。
の息子の又五郎が、みねの弟を殺した。みねと殺された源太夫の間にもう一人弟が居た。渡部和馬。数馬は敵を討ちたい一心だったが、主、父、兄のあだを打つことは出来るが、弟のあだ討ちは認められなかった。
永10年、ようやく又五郎を討ってよしという許可が出る。これには大名対旗本の対立が背景にあった。
太夫を殺した又五郎は江戸の旗本 安藤治左衛門のところに泣きつく。この治左衛門は、又五郎の親父が以前仕えていた安藤家の親戚筋だった。昔の安藤家(旗本)対池田家(大名)の対立がぶり返す。頭にきた池田忠雄は又五郎を渡せと迫る。事が大きくなったので幕府は池田忠雄を毒殺した らしい。(一説による)
が変わって岡山を取り仕切るようになった池田光政は親戚筋。やはり又五郎を引き出せとうるさい。幕府は困り果て、又五郎討っ手の許可を出す、但し表向きでなければ旗本が又五郎を守る許可も添えた。
よいよ荒木又右衛門の登場だ。渡部和馬と家臣の四人で全国を探し回る。寛永11年、江戸に上る又五郎一行を京都で発見。又右衛門が地理に詳しい上野城下、万や(よろずや)の茶店で待ち伏せることになった。
前8時、又五郎以下20名の一団が来る。又右衛門は周到に作戦を練った。一番手ごわい馬上の甚左衛門に切りかかる又右衛門。左足を払い、馬の腹をくぐって甚左衛門の右足を切る。馬から落ちたところを頭から切り下ろした。付き人の抵抗は少なく、ほとんどが逃げ散ってしまった。
こまではスムーズに行ったが、数馬と又五郎の死闘は午後2時まで、6時間に及んだ。これは大変だ。腹も減るし、おしっこもしたくなるだろう。あくまでも和馬に打たせたい又右衛門は手を出さず成り行きを見守っていた。これも大変だったろう。双方傷だらけで、ようやく又五郎を討ち取った。
闘の後、又右衛門らは上野藤堂家に4年間かくまわれた。旗本の討手を避けるためだ。
永15年8月7日ようやく池田家に返された又右衛門は28日病死した。前から悪かったらしい。隠していた。
トーリーを追っているだけで終わりました。ツカレタ!
コメント (2)
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