花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

もう一人の力道山 第2部

2006年03月23日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
昭和26年秋、プロレスの地方巡業は不入りのまま終わる。プロレスが何たるかも知らない日本では当然のことだった。力道山は悩んだ。相撲界では順調だっただけに、彼の心境は複雑だった。
は海外遠征を控えて、中村日出夫から空手の訓練を受けている。同じところを手で何度もたたくという激しい訓練に耐えている。師が5000回叩けというところを、彼は黙って1万回叩いていた。手からは激しい血が噴出した。空手チョップたるや単なるショーの道具かとオイラは思っていたが、恐れ入ってしまう。
年1ヵ月後、力道山はハワイ遠征から帰る。向こうでの激しい訓練と連日の試合で、彼の体はすっかりプロレスラーの体型になっていた。空港での出迎えの一人、日本テレビのプロデューサー戸松信康との出会いでテレビ中継が実現することになる。
道山がアメリカから連れて帰ったシャープ兄弟に対する、木村政彦と力道山。蔵前国技館で行われた対戦に、全国民は街頭テレビの前で空手チョップに熱狂した。木村が反則技で叩きのめされているところに力道山の空手が炸裂する。興奮した視聴者から死者が出る騒ぎだった。
かし、力道山には、共に戦った木村政彦と運命の対決が待っていた。力道山の陰に隠れてしまっていた木村は、「国際プロレス団」を立ち上げ挑戦状をたたきつける。彼の出生の秘密を公表したことが火をつけた。
和29年12月、昭和の巌流島対決の幕がきって落とされた。木村の急所蹴りに激怒した力道山は、空手チョップを浴びせた。血だらけになって倒れる木村。しかし、この勝負はリング上だけでは終わらなかった。
道山はマスコミで「あの試合は引き分けのはずだった」といった。木村は「引き分けの約束などした覚えがない。スポーツマンシップに反する」と反発。こうして八百長試合の疑惑が出た。今は亡き木村政彦の書いた自叙伝には、当時の対戦についてこう記してある。
は決まった。勝ち負けは、一回目は引き分け、二回目はジャンケンで勝ったほうが勝ち、それ以降はこれを繰り返して興行する。互いにこの条件で納得したのだ。・・・・・だが、いざ試合の段になって金と名誉に目がくらみ、冷静さを失い、狂人と化したのが力道山だった・・・・。この背信行為は許せなかった。」と・・・・・
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