花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

もう一人の力道山 第1部

2006年03月22日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
力道山はヒーローだった。悪役外人からピンチに立たされた後、最後に放つ空手チョップにみんな興奮した。力道山がやくざに刺されて死んだことを聞いたとき、国民的英雄に暗い影を感じた。彼にはもうひとつの顔があった。「もう一人の力道山」リ・スンイル著(小学館文庫)
名、金信洛(キン シンラク)。力道山は6人兄弟の末っ子として、大正12年に北朝鮮の寒村で生まれた。兄弟そろって体格がよく、村で行われるシルムという朝鮮式相撲大会では、兄の恒洛(ハンラク)とそろって優勝を飾った。懸賞品の牛一頭は、家族の生活を支えた。力道山にこんな生い立ちがあったとは知らなかった。
和15年。二所ノ関部屋にスカウトされ日本に渡る。家族の反対を押し切ってのことだった。持って生まれた根性で順調に十両にまで進む。しかし、金と呼ばれた力道山は、朝鮮人という差別を強く感じていた。日本はまだ戦時中だった。
和20年敗戦。これを契機に力道山は大きく変わる。髷を結った頭で、真っ赤なインディアンというバイクに乗り回し相撲界からひんしゅくをかった。敗戦国から受けていた屈辱が、反抗心となって出たからだ。
和25年8月。小結に昇進した力道山は、自宅の台所で自ら髷を切り落とした。相撲界に対する反発からだった。この年、朝鮮戦争が勃発。彼は一大決心をして国籍を日本に変えた。日本人でなければチャンピオンになれないという思いからだった。
和26年、相撲界がおもしろくない。酒と喧嘩に明け暮れる力道山は、ナイトクラブで、アメリカから来ていたハロルド坂田と出会い、プロレス入りを決断する。ここでは、ハロルド坂田にまったく太刀打ちできなかった力道山のエピソードがあった。当時の日本ではプロレスを知る人はいなかった。しかし彼は、そろそろ巷に出始めたテレビジョンにのって、プロレスリングを国民が熱狂するショーに作り上げていく。
中戦後という時代に生きた力道山が持つ、朝鮮人というコンプレックスと、ふるさとに対する強い思いとの葛藤。彼の負けん気と派手な性格。そのあたりがよく書けていて興味深い。こうして彼自身が望んでいたチャンピオン、国民的ヒーローに登り詰めていく。
は変わるが、今回、日本のチームを世界一に導いた王監督にも、感慨深いものがあっただろう。長嶋さんの影になって、世界のひのき舞台に出ることがなかった王監督に、台湾出身の影があったというのは考えすぎだろうか。
コメント
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