花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昭和の食と商店街 ところてん

2017年09月12日 | レモン色の町

第12回 ところてんの巻

まちの子は、小学生から塾に通った。我が家から西へ、嘗て赤線だった港楽園を突き抜けたところに“習い屋”があった。小学6年のとき、親の勧めで近所のSちゃんと通った。倉庫を利用した建物で、台所と畳敷きの部屋が造ってあった。生徒は8人くらい。眼鏡が耳に擦れて痛かったのか、ツルにガーゼを巻いた若い先生が教えていた。ある日、先生が結婚するというので期待に沸き立ったが、時々台所に来ていたお姉さんがその人だったのでがっかりした。(今思えば当然だったのだが、他の新鮮味のある人に来てほしかったと思っていた)。

この突き当りに塾があった

途中でお菓子(唐辛子の入った細長いあられ)を買い求め、持ち込んで皆で食べたが、ある日先生から「おチンは、やめにしよう」と云われた。さて“おチン”の意味が分からない。その時は嘲笑の渦だったが、次の日からお菓子の持ち込みはピタリと止まった。熱い夏の夜には、たたき落とした蚊を蚊取り線香の上に順に並べた。あまり学ばず、よく遊んだ。女の子相手にプロレスをしたり、南に広がる空き地で鬼ごっこをした(この空き地の向こうに、近鉄百貨店建設のクレーンが望めた)。

この年(正確には年度が変わっていた為、中学1年となっていたが)、駅前の四日市シネマで“ベンハー”が上映され学校から観にでかけた。ライ病が恐ろしかったのと、真剣にキリスト教へ入信しようと思ったのが感想だった。塾では気に入ったタイトル文字を描いてはみんなに配っていた。

塾が終わると、女の子の家を見たさに後をつける。ところが簡単に発見されてしまった。金魚のフン状態となり連行される。そして「ところてんを食べよう」と誘われて、現在のブラウンビルの角に建つ食堂へ入った。どうやら女子たちは常連らしい。出された“ところてん”を思い切りすすり込み、むせて笑われた。甘い寒天を想像していたが、酸っぱいだけで“こんなものをおやつ代わりにするのか”というのが印象だった。

フランスパンと云い、チーズと云い、餃子と云い、始めてのものが次々と現れたのが、昭和30年代だった。

昭和35年には、タカラが“ダッコちゃん”を発売(180円)、爆発的にヒットした。カラー放送の開始の年でもある。ロッテの“クールミントガム”、不二家の“パラソルチョコレート”(♪パッとパラソルチョコレート)、渡辺の“粉末ジュースの素”(♪ワタナベのジュースの素です もう一杯)が懐かしい。