大阪の湊町は関西鉄道の終点、
明治42年
山田は参宮線の終点です。
明治42年
引き込み線を多く持っているのは当然ですが、明治42年、四日市港の整備もいまだ出来ていない時代に(工場誘致のための国際振興博覧会<訂正:国産振興四日市大博覧会>は昭和11年でした)四日市駅にこれだけの引き込み線が必要だったのかな?
明治42年
と考えると、ふと、謎が解けました。関西鉄道本社が、私鉄時代には四日市だった。広大な引き込み線は関西鉄道の整備工場だった(島安次郎氏が勤務していた)のです。
下総人氏曰く「関西鉄道は四日市に本社と整備工場を持っていました。鉄道国有後、四日市工場は名古屋工場に移されて名古屋工場となりました。四日市工場の敷地は貨物車の組み換えを行う操車場となりました。
阿瀬知川沿いの転車台はこの操車場が出来た時に、その施設の一部として設置されたものです」
昭和51年撮影
もう一つ、先日掲載の機関車の正体です。
スミマセーン これはコッペル車でした。湯の山線を走っていた
追記:5月31日。下総人さんから上の錦絵について「1号機と随分形が違うとコメントしたところご返事がありました。ペリーが持ち込んだ模型機関車に運転室の覆いを付けると錦絵の機関車とそっくりさんです。あんな形の煙突や車輪配置の機関車は鉄道開業当時にはありませんでした。最初の10輌はすべて英国製。錦絵の機関車はどう見ても米国型に思えます。
下総人氏から(上の写真の機関車について)「どこの機関車であるか解りました。京阪間<訂正:新橋 横浜間>を始めて走った10輌の機関車の一つで、後の台湾へ移籍されたものです。現在この10輌のうち3輌が保存されています。有名な一号機関車(150型と改番)は、鉄道博物館、
さいたま市鉄道博物館
110番は青梅の鉄道公園、
どうやら展示は終了のようです。青梅鉄道公園
そしてこの台湾の機関車です。ご参考まで」
下総さま、ありがとうございました。