地域的な紛争に巻き込まれるのが、常態化していたのが南北朝時代でした。東京都日野市の金剛寺、そこに祭られている不動明王の体内から文章が発見されました。“室町幕府と地方の社会”榎原雅治 著より
一の郭へ戻り そこから南の八の郭へ上る
文章は、南北朝の戦いに参加した無名の武士の肉声を伝える手紙でした。
武士の名前は山之内経之(やまのうちつねゆき)といい、日野市付近に本拠を持っていました。暦応二年(1339)、常陸で活動を活発化させていた北畠親房率いる南朝方と対戦するために、京より高師冬(こうのもろふゆ)が関東に派遣されてくると、経之はその軍に召集されました。
八の郭から本丸へ戻らず 谷を横断して 五の郭へ向った 落ち葉が足をすくう
戦地に出向いても気がかりなのは家族のこと、自宅を守る年若い息子のことでした。戦場の辛苦を伝えつつも「それは覚悟の内、留守宅のことが心配で仕方がない。何事も母と相談するように、百姓たちのこともよくよく考えるように」と書き送っています。
初めに通って来た道を横断して 五の郭へ上る
戦場で事欠くありさまだったらしく、馬や鞍を百姓に持ってこさせるように、所領内の家を売って戦場での衣装を調達するように、あるいは百姓たちの臨時の税を必ず納めさせるように、などと求めています。
また、戦場に同道させた従者たちの中には逃げ出すものも多かったようで、脱落者の書上げを送って、この者たちを捕まえて戦場に送り届けるようにという指示も出しています。
深い空堀を行く 同行のKさん お付き合い ありがとうございました
戦場に駆り出された個人の存在を忘れがちですが、戦士たち一人ひとりは
、それぞれに家庭や日常の暮らしを抱えていたのです。