一の郭の井戸の中に!スミマセン合成です
鎌倉後期以来、地方の武士たちの間では、所領という限られたパイをめぐる自力救済的な争いが続けられていた。“室町幕府と地方の社会”榎原雅治 著 岩波新書より
(同行していただいたKさん)一の郭から北へ 二の郭からさらに・・・櫓跡をまたいで三の郭へ
地方の武士たちが戦場に向かったのは何のためだろうか。南北朝の時代に、後醍醐や尊氏のめざす国家構想に共鳴したからか?無論そうではない。戦(いくさ)で軍功立て、恩賞としての所領が欲しいからである。山林荒野を切り開いて所領を拡大するという時代は、すでに過去のものとなっていた。
三の郭から西に 四の郭がある
新たに所領を得るためには戦で手柄を立てて恩賞を与えられるほかなく、運悪く参加した側が負ければ、「敵方所領」として所領は取り上げられるのである。傍観も許されなかった。勝者に協力しなかった者もまた「敵方」とみなされるのである。自身、家族、従者たちが生き延びるためには戦に参加せざるを得なかったのである。
この先の九の郭は望めない 柵になっていた
生き延びるためにはとにかく勝ち馬に乗らなければならなかった。
空堀を渡り 再び一の郭へ戻った・・・ よく整備されている。