昭和40年8月5日には、駅西にあったはずの「労働基準監督所」。この建物の西側を通って中部中学校へ通学(昭和36年~昭和39年)していたので、それらしき建物の記憶はある。早速、たいじゅさんからメールがあり、調べていただいた。おつきあい、ありがとうございました。
右に建つ2階建てが監督所・・・昭和40年8月撮影とあった。
『労働基準監督署』は昭和30年~35年まで浜町にあったが、昭和36年に表記がかわり「四日市市都市計画復興土地区割整理地内」となり、推測ではこの時、この場所に移転しているのではないだろうか。 昭和42年になって『諏訪西441-2番』の記載が確認できる。そして、昭和46年になると高架事業の為か西浦へ引っ越すが、その間の10年ほどが、駅西にあったと推察される。
昭和43年の住宅マップより
労働基準監督署が昭和36年から46年まで建っていた。ここで大きな勘違いを思い出してしまった。
昭和43年の住宅地図
労働基準監督署はもっと北にあった。ヒェーッ!これで謎が解けた。すべて私の勘違いだった。ゴメンね ゴメンね ゴメンして チョーダイ すると、労働基準監督署と勘違いしていた(駅の敷地内に建っていた)のは三重交通の建物だったか? 敷地内だから地図に記載がなかったのだ!
(勝手に)気分を変えて 昨日の中日新聞に穴太のことが出ていた
ここで気付いたのは「・・昔は(穴太(あのう)には)七堂伽藍が立ち並んでいた・・」の記述である。北勢線の中間駅であり、桑名と阿下喜間の途中に位置する田舎かな?くらいにしか印象がなかったが、歴史があって寺院が乱立する境内では、さぞや地元のヤクザによる博打が盛んだったのだろう。そんな金の臭いのする土地なら、穴太徳が生まれて当然と思った。穴太徳は後に、鈴鹿の荒神山で吉良の仁吉と一戦交えることになります。
余談が過ぎました。さて、今日のお題は
ヒント:対岸に見える白亜のお屋敷は、九鬼門十郎(訂正:紋十郎)氏が邸宅 さて、いつのどこか?